優しさの花

優しさの花

 打ちのめされた精神には、立ち上がるための気力さえもなかった。
「何故正しいことをしようとしたのに、逆に排せられなければいけないのか」
 太が考えた「正義の代償」は、窓際族よりも激しい差別だった。結局、仕事を続けることもできず、会社を退社することになった。
 体が重かった。歩くのも、体を引きずっているようで心が重力を何倍も感じているようだった。地面に擦り減った体のシミがべっとりとついていくようで辛く、魚の臭いも腐った自分を想起させるようで海から離れようと車を走らせた。塩辛い鼻の奥の感覚を振り払うように、逃げるように。
 辿り着いた先を意識していたわけではなかった。
 河内桜公園近くの貯水池の太鼓橋から貯水池をぼんやり眺めていた。
「海藤? お前海藤太か? 懐かしいな。こんなところで何してるんだ」
 出来立ての大福のような顔をした赤子を抱えて男が話しかけてきた。
 精気のない目でゆらりと視線を向けると、大学のゼミの先輩だった葛城勝利(かつとし)が以前の刺々しい雰囲気とは変わって優し気な瞳で立っていた。
「え? 葛城先輩……なんですか?」
「そうだよ。何言ってるんだよ。そんなに変わったか?」
 太は声にも張りがない。消え入るような声で「ええ」と返事をした。
「結婚したんですね」
 と気づくはずのことにも言葉を出すことができない。ただただ目の前の男が眩しく太には映った。
「ああ、こちら大学のゼミの後輩の海藤太だよ。熱いやつでな。自分が間違っていると思ったことは素直に突き通そうとする情熱のあるやつだったんだよ。こちらは、俺の嫁な、敦子。覚えてないか? 佐間野敦子。お前のいっこ下の」
「あ、ええ」
 どうでもいいことだった。どうせ生きる価値もない。そんな卑屈な精神に蝕まれつつあった。
 ましてや幸せな光景が目の前にあると余計に惨めに思えてくる。炎に炙り出される焦げ目のように、太陽が辛い。
「なにかあったみたいだな。あ、裕美ちゃん抱っこしてもらってていい? おーよしよし」
 敦子に頼み込んで赤子を抱っこしてもらった勝利は強引に太の手を引っ張って「付いてこい。今藤が咲いてて綺麗なんだよ」と誘った。
 流されるように太が河内藤園まで辿り着くと車から降りることが出来なかった。
 面倒だ。人と接したくない。何故知っている人に出会ったのか。
 巡りあわせに後悔すらした。
 強引にも勝利は助手席に乗り込んでくる。
 太は黙っていた。
 勝利も同じように黙っていた。
 大学在学時代は舌鋒鋭い先輩で何事も調べ上げて練りこまれた論理で相手を圧倒するタイプだった、鷹の眼のような鋭さがあった先輩が黙っていることに太は恐怖心すら覚えるほどだった。
「何怖がってんだよ。何も言うつもりはないよ。お前が元気ないみたいだから」
 本当に同一人物なのだろうかと疑うほどに変わった、と太は感じた。驚きすぎて逆に勝利に対して興味がわいた。子供ができたからだろうか。家族を持つと人は変わるのか。いや、そんなことはない。変わったやつなんてほとんど見たことがない。
 大学卒業から十年以上経っている。その間に結婚した人間もいたが、結婚自体が人を変えるわけではない。子供ができたとしても同じだ。離婚をした友人もいる。
「せっかく藤の花が綺麗だから一緒に見ないか」
「でも奥様が……」
「いい。逆に今のようなお前を放っておいたら俺が怒られる。俺も自分が許せなくなる」
 とぼとぼと歩き出して入場料を払い中へと入っていくと見事にたわわに咲いた藤のトンネルが広がっていた。
「綺麗ですね……」
 紫や白のふさが滲んで垂れ染めている美しい景色に感嘆すると、少し憑き物が剥がれてきた。
 その後自分に起こったことを説明した。会社の悪い体質を変えようと健全な体制を敷こうと努力したが逆に全員を敵に回すことになり退社することになったこと、何故なのかわからず、この世界が汚れたようにしか見えなくなったこと、自分が必要とされていない人間で生きている価値もないと思っていること。
「お前、それは、そういうのはな、正義感じゃないんだよ。怒りでしかないんだ。怒りは全てを焼き尽くす。怒りの矛先を失って燃え尽きたんだよ。お前平尾台の野焼き見たことあるか? 来年の2月に見てみろ。お前の正義感は計画性のない野焼きのようなものだ。お前は理想ばかりを相手に押し付けて、肝心の目の前にいる人間のことなんて何一つ考えなかったんだろう? それは俺が子供に対して自分の考えを押し付けて、子供のことを何も見ないのと一緒だ。間違っているか、間違っていないか。そうじゃねぇんだ。何を背負っているかなんだ。もしかしたら、そのことをじっくり聞きだすことを怠ったのかもしれない。違うか?」
 ハッと勝利を見た。瞳が潤んでいた。まるで自分が傷ついているかのような眼差しで太は見つめられていた。
「だいぶ、苦しんだな。もう少し自分を愛してやれ。怒りに身を任せずにな」
 自分よりも彼の方が悲しんでいる。愛が何かもわからない太だったが、慈愛の光にやわらかに当たっている気持ちがした。
「藤の花言葉には、優しさ、歓迎という意味もあるらしいぞ」
 太は勝利の言葉を聞いて息を吸い込んだ。
 初めて花の匂いを胸いっぱいに感じた。
「もう少し、歩こうか」
 勝利の言葉に太は光に射し込まれる藤のトンネルを潜り抜けるべく足を一歩出した。


参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2018/05/blog-post_86.html


あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。