見出し画像

[短編小説]75

 ぼんやりと空を見上げていると、夕焼けの中を一筋の光が走った。
 願い事なんてあったかなぁ、と思っている間に光は地平に消えていった。
 隣に座っている小学生の女の子──東北きりたんは「ラッキーですね、ゆかりさん」なんて言ってペットボトルのジュースを飲んでいる。いつも付けている頭の包丁飾りは鞄の中にしまっていた。
「そうだね」
 そっけなく私は返して、微糖コーヒーをぐいっと飲み干す。
 どこかもわからない河川敷で夏風に吹かれながら、遠くの空を眺めていた。
「ここ、どこですか?」
「南の方だよ」
 たぶん、自宅からそう遠くないところ。スーパーカブのオドメーターは35162kmと表示されていた。だいたい150kmくらい走ってきたのだろう。75ccの排気量で二人乗りの原付なんて、走れる距離もたかが知れている。スマホのバッテリーは道中で切れてしまった。いつもスマホのナビや人に頼ってしまっていたから詳しい現在地は知る由もない。
「今日、どうするんですか」
「どうしようねぇ」
 空き缶を手先でプラプラさせながら答える。
 まったくの無計画だった。この先もノープランだ。財布の中身を見るに、給油はあと二回が限界といったところだろう。呑気にコーヒーを飲んでいる場合ではなかった。
 きっと大通りにでも出れば青看板が出ていて、来た方へ矢印に沿って行けば辿りつけるんだろうと思う。今日中には帰り着けるだろう。さっさと帰るのが最短で最善の道だ。
「ゆかりさん、意外と不良なんですね」
 まったくもってそのとおりだった。良識ある年長者がいつまでも小学生を連れ回していい道理はない。
「それじゃ、帰ろうか」
 じきに日が暮れる。早く帰さないとお姉さんずん子にどやされてしまう。
「ここがゆかりさんの来たかった所なんですか?」
 きりたんがこちらを見ずに問いかけてくる。手の中のジュースがちゃぽちゃぽ音を立てながら揺れていた。
「いや……」
 私はどこに行こうとしていたんだろう?
 夏休みも半ばを過ぎて、行きたい所にはおおよそ行ったはずだし、それらに満足だってしていたはずなのに。友人とはいえ小学生の女子を拉致するような真似をすることはなかったんじゃないだろうか。
 目的もなく一日走ってきて、川辺に座り込んでわかったことがあった。目的なんて必要なかったのだ。
「たぶん、どこにもないんだよ」
 きっと地図を見たって、どこを探したって、見つかりっこない。私はただ、遠くへ走りたかっただけだ。きりたんに声をかけたのだって、寂しかったからだ。一人で人波に消えていくのが怖かったからだ。一人部屋にこもる彼女の背中に同じ影を見つけてしまったからだ。
「ごめんね、今日は付き合ってくれてありがとう。すぐ帰ろう」
 申し訳ない一心でヘルメットに手をかける。その手を小さな手が遮った。
「ゆかりさんが連れてきたんですから」
 きりたんの瞳がゆかりをまっすぐ映している。出発前とは比べるべくもない光があった。
「最後まで連れていってくださいね」
「……そうだね、一緒に行こうか」
 ヘルメットを抱きしめながらきりたんは軽く頷いた。
「ゆかりさん、やっぱり不良だ」
「きりたんだって」
 カブのガソリンは今満タンの四リットルほどまで入っている。計算してみると二人乗りでも燃費は50km/L程度だから、走行限界距離はだいたい200km。二回給油したとして、+400kmの合計600km。
 なんだ、案外走れるじゃないか。
 ヘルメットを被り、カブに跨り、キーを刺してオン。緑色のNのランプが点いたのを確認して、スロットルを軽く煽るようにしながらキックスターターを思い切り蹴り下げると、ゴゥウン!!と低い音を一発上げて、カブのエンジンはドコドコと鼓動を鳴らし始めた。マフラーがポポポポポと小気味のいい排気音を奏でる。
 後付けの窮屈なタンデムシートにきりたんが潜り込んできて、私のヘルメットとごっつんこしながら話しかけてくる。
「どこまで行くんですか?」
「南! 県を超える!」
 ヘルメット越しの会話は少し声を張り上げないといけない。
 ギアを一速に入れて徐々にスロットルを回していく。するするとカブは走り始めた。間髪入れずに二速、速度が乗ってきたところでトップギアの三速に上げる。
「最初はどこに行くんですか?」
「コンビニ!」
「なんかしまらないですね」
 それはそうだ。今から私はずん子に怒られに行くのだ。

 幸運にも近くのコンビニに公衆電話があって助かった。
『今何時だと思っているの!?』
 離れた電話越しにも怒鳴るずん子の声が聞こえてくる。当のきりたん本人は「ごめんなさい、ずん姉様……」とちょっと涙目になっている。
『遅くなる時は早めに連絡頂戴っていつも言ってるのに! 珍しく外出したと思ったらスマホも繋がらないし!』
 あわあわしているきりたんに代わって再度、受話器をとる。
「ごめん、ずん子。私のワガママに付き合わせたからなんだ」
「ゆかりちゃん……もう話したでしょ、うちの子を預けるって」
「いや、それだけで全然怒られてないからさ」
「それに、一緒の相手がゆかりちゃんでほっとしたんだから。……きりたんも受話器の近くに来てもらえる?」
 きりたんにジェスチャーでこっちに来るように伝える。きりたんは恐る恐る耳を傾けた。
『……では。ちゃんと二人揃って帰ってくるように。いい?』
「……わかりました!」
 返事は二人でハモった。

 空の赤が深い青に染まっていく頃。
 一台のカブと共に私たちは国道を南へとトコトコ走っていた。
「これ以上スピード出せないんですか?」
「限界一杯まで回してるって!」
 このカブは「一応」原付二種で60km/hまで出せるけれど、その中でも最弱クラスの排気量のせいでパワーもスピードもそんなにない。おかげで、制限速度なんてものを知らない車やトラックに煽られるのは日常茶飯事だった。
「おっきいバイクに乗ってくださいよー!」
「私だって乗りたいー!」
 この時ばかりは大排気量のバイクに目が眩んでしまう。適材適所とは言うけれど、峠を越えるのに苦労するからこそ原付は街乗り用だってことが身に染みてわかる。
 どうにか退勤ラッシュから抜け出して、旧道側に入れた頃にはすっかりヘトヘトになっていた。
「この時間の二桁国道なんて乗るものじゃないね……」
「生きた心地がしませんでしたよ……」
 しばらく流して車数もぐっと減った頃、路肩にカブを停めて、ふぅと二人で息をつく。自販機などもなく、二人してカブを挟んで地面に座り込んだ。
「なんでこの子なんですか?」
 きりたんが問う。
「この子は……預かり物なんだよ」
「預かり物?」
「『いつか大きなバイクが乗りたくなる、その日までの相棒』だそうで」
「じゃあ今日がまさに『その日』じゃないですか」
「確かにね」
 ふふっと笑って答える。
「でも、まだ『その日』じゃないかもしれない」
「あんなに苦労したのに?」
「うん」
 答えて、まだカチカチと音を立てているカブのエンジンを撫でる。
「まだまだ、全然走ってないんだよ」
「今日もこんなに走ってるのに?」
 うなずいて、空を見上げる。ぼんやりと月が浮かんでいた。
「行けた所なんてたかが知れていて、その全部が宝物なんだけど、まだまだ足りない」
 月へと手を伸ばす。はるか遠く、一握りの人しか辿りつけないあの場所に手をかざし、空をつかむ。
「『その日』って、きっともっと先。たくさん走って、土地を知って、カブを知った後なんだと思う」
「もっと先……」
 きりたんもつられるようにして手を伸ばす。ふらふらと掴みどころのない手だった。
「これ以上カブで走れないよ! ってなった日が『その日』なんじゃないかなって」
「難しいですね。今日だって限界を感じてたのに」
「カブの一側面が見えた! って感じかな。それに……」
 きりたんが座っていたシートを撫でる。
「これが用意されていた意味も、今日ようやく知れた」
「どういうことです?」
「それは内緒だよ」
 こういう繋がりが、私を駆り立てたのかもしれない。きりたんを背中に、わけもわからずただひたすら道を走っていく。私一人だったら辿りつけなかったかもしれない場所がここだ。
 目的地なんてない。通ってきた道が全部目的地のようなもので、後になってからじゃないと気づけないものなのかもしれない。
「そろそろ走り出そうか」
 立ち上がって、ズボンについた砂利を払い落とす。
 いい加減夜も更けてくる頃だ。あまり山奥に行っても迷子になってしまいそうだし、切り上げるには丁度いい頃合いだろう。
「また長丁場になるよ、きりたん」
「望むところです」
 きりたんのヘルメット姿がだんだんと様になってきて、私はヘルメットの中でくすりと笑った。

 青看板に見覚えのある名前を見つける、北への帰り路。
 道路は閑散として、幾分ゆったりと走ることができそうだった。
「ねぇ、ゆかりさん」
 ヘルメット越しにきりたんが話しかけてくる。
「どうしたの?」
「私、ずっと後ろで揺られっぱなしだったけど」
「あ、ごめんね。退屈だったかな……?」
「いや、そうじゃなくて……」
 風切り音が邪魔をして、きりたんのこもった声まで聞き取れない。
「なに、きりたん?」
「今日、楽しかったですか?」
「私は楽しかったよ! いっぱいきりたんと遊べたし!」
「そうですか……」
「きりたんは?」
「お尻が痛いです。割れそうです」
「あー! ごめん! それは本当にごめん!」
 カブのタンデムシートはどうしようもなく固いことを忘れていた。
「……けど。きっと、これも旅ってやつなんでしょうかね」
「旅というには少しお粗末かもしれないね、次は計画立てるから」
「次、ですか」
 風切り音が大きくなって、きりたんのボソボソ声はかき消されそうになったけれど、
「……また、連れてきてくれますか?」
 わずかに、けれど確かに、その声は聞き取れた。
「……もちろん!」
 青看板に地元の名前が出てくる。まもなくこの夜行は終わる。
 そして、それからが始まる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?