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二人の巨人

大江健三郎さんと会ったのは、大学三年の頃だったと思います。当時はまるで紙の鎧を身につけているような、今思えば恥ずかしいほどの隙だらけの文学青年でありました。それでも教授や友人の影響で言語学に興味を持ち始めていましたので、卒論の参考になると考えて、友人の誘いを二つ返事で答えると、早速大学地下の本屋で大江さんの著書を探して読んでから、講演会に参加しました。

講演内容がどうであったか今では覚えていませんが、講演の最後にサインをもらいに文庫本を携えて列に並びました。そして自分の順番になると、大江さんは、静かに私に名前を聞きました。もちろん大江さんのサインと一緒に私の名前を書くためでした。私の旧姓は、聞き慣れない珍しい苗字であったために、その出身や先祖の事に興味を持ったらしく、「ほーっ」と言って眼鏡の奥の目を細め、漢字を確かめながら丁寧に私の名前の横に自分の名前を書き入れてくれました。

たった数分の会話でしたが、未熟な私に突き刺さったものは大きかったようで、その後、大江作品を読みあさったのを覚えています。友人からは文庫本にサインをもらうのは作家に失礼だと言う叱責を受け、そんなものかと思いましたが、それから十年ほどして、大江さんがノーベル文学賞を受賞し、彼の難解な文学に少しでも触れていた事を喜びました。

大江健三郎さんの名言を紹介します。

僕が話すことの原理は、おとなと子どもはつながっている、続いているということです。子どものときの自分につながっていることで、過去につながっているし、これからの子どもにつながっていることで、未来に、つまり人類の全体の歴史につながっているということです

自分たちは人間なんだから、人間のやることとして、それが、いい方向に行くと信じて、そのことを心から望んで、できるだけのことをする

もう取り返しがつかないことをしなければならない、と思いつめたら、その時、「ある時間、待ってみる力」をふるい起すように!

僕には希望を持ったり、絶望したりしている暇がない

見る前に跳べ


大学では田舎者で友人がいないさみしさもあったのか、音楽のサークルに入って活動していました。ギターを趣味にしていましたが、バンドで空いているパートがなく、キーボードが自分の担当となり、シンセサイザーを買って練習に明け暮れました。特に意識はしていなかったのですが、80年前後からは日本にYMOなどの新しいテクノポップが台頭してきました。特に坂本龍一さんの音楽活動は、我々のような目的の定まらない学生の考え方や将来にも大きな影響を与えたのだと思います。そしてご存知のように、坂本さんはその後、アカデミー作曲賞を受賞します。

坂本龍一さんの名言を紹介します。

自分の思い通りに生きたがどうかが大事。長さではない。どう生きるかどう死ぬかっていうのは個人が責任を持って選んで下さい。

父は僕に、簡単に何かになろうとするなと言ってくれていました。30歳までは遊んでいろと。自分が分かるまでは仕事なんて選べないということだったのでしょう。そして今は僕もそう思うのです。

僕は与えられたチャンスには挑んでいったけど、自分の背中を誰かに押してほしいと思ったことはまったくありませんでした。若いときには、たとえ一歳でも年上の人間は全部敵だと思っていて、その人たちの言うことは絶対聞くものかと思って生きてきたからです。それくらいの気概を持っていないと、本当に何もできないのです。

息苦しい社会に対しては「引きこもるかアウトローになるか、外国に出るか」が有効な手段だ。

自分の居場所なんて、自分で決めればいいんだよ。


大江さんは米ソの冷戦の頃から核戦争による危機を訴え続け、坂本さんも生涯をかけて反戦、反原発を訴え続けました。そして東日本大震災の後には、大江さんと坂本さんが共同で「脱原発基本法」制定を目指す団体を設立したのでした。二人は、思想家であり社会運動家でした。ですが大声を張り上げるのではなく、文学と音楽で、生涯にわたり原発の廃止、戦争への反対、地球環境への配慮を訴え続けたのです。


奇しくも、今年三月に世界の癒しを願う「二人の巨人」がこの世から去って行きました。私たちは、二人からの宿題を授かったのかもしれません。彼らの意思をどのように今の社会に反映させて、どのように次の世代に伝えれば良いかという宿題です。


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