その綻を待っていた

 文学と音楽を人間がいつまで経っても手放せないのは容赦なくやってくる夜のせいなんだよ、と秘密めいた調子で私に教えてくれたのは高校時代の先輩だった。私たち以外誰もいない部室でなめらかに微笑んだ一学年上の彼女はチョコミントと安部公房とロックンロールをちょっとどうかしているんじゃないかというほど偏愛していた人で、だから私はしばらく思考を巡らした後に「また何かの歌の歌詞ですか?」と尋ねたのだけど先輩は「まだ見たことないんだねえ」と小さく笑ってそのまま会話を終わらせてしまった。
「見るって一体どういうことですか」と何故だか聞くことができないまま、彼女は卒業して私の前からいなくなった。
 私はその時の先輩が浮かべた妙に遠く隔たった笑顔を、大学を卒業する年のある日、夜行バスに揺られながらとある小説の美しい一文を読んだ瞬間唐突に思い出すことになる。

『その時刻の激浪に形骸の翻弄を委ねたまま、K君の魂は月へ月へ、飛翔し去ったのであります』

 鮮やかな火花が暗闇で弾け散ったみたいに、私はそのたった二行ばかりの文字の羅列が夜行バスに閉じ込められてぶよぶよと飽和しきっていた夜を切り裂く瞬間を目撃してしまったのだ。どんな炎より苛烈にどんなナイフよりも美しく夜を傷つけた閃光は瞬く間に立ち消え、私の目の前には暗闇よりも更に暗い色をした夜の裂け目だけが残されていた。
 先輩とは卒業以来一度も会っておらず、その行方は杳として知れない。彼女のSNSの更新は四年前を境に止まっていた。ただひとつ、今の私に分かっていることはきっと先輩が「見た」のはこの光景だったということだ。
 夜よりもはるかに深いこの中に飛び込めば、私はあの人に再び会えるのだろうか?
 そう思いながら、私はその裂け目の縁にゆっくりと手を掛けた。

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