その青は、かくも遠く美しく

※ワンライで書いたssを書き直した作品です。

「先輩、これ何ですか?」
 私は足を止め、そのショーケースを指さす。そこには黒と白の、恐らく何らかの生物をかたどった二対の陶器が展示されていた。質問を受けて振り返った先輩の、咎めるような目が私を射抜く。閉館間際の文化資料館に人の姿はまばらだったものの、私の声はちょっと響き過ぎたらしい。
「これ、何ですか?」
 わざとらしく一段声を落とし、もう一度尋ねる。
「知らないの? 二匹のハリネズミ伝説」
 僅かに右の眉を上げた先輩は、そもそもハリネズミって何です? と質問を重ねる私に向けて今度こそ大きく溜息を吐く。けれど私の先輩はやっぱりやさしい。ホログラムで出した掌サイズの生物を「これがハリネズミ」とこちらに差し出してくれた。
「いやはや持つべきものは博学な先輩ですね……って、うわっ本当に針まみれ。痛そう」
「そこまで鋭利なものではなかったみたいだけどね。愛玩動物としての人気も高かったらしい」
 半透明のハリネズミを撫でる素振りをする指先を眺めながら「それで、その伝説っていうのは何なんです?」と私は聞く。あぁそうだったと答え、先輩はようやくホログラムから目を離した。
「ある時、神に飼われていた双子のハリネズミが天国から脱走したんだ。弟の方がある日『海を見に行こう』と兄貴を唆したんだよ。その二匹をかたどったものがこの展示品」
「あれ? 双子の兄弟なのに色が違うんですね。ほら、黒と白」
「おっ、珍しく目の付け所が良い。そう、元々この二匹はどちらも綺麗な銀の毛並をしていた。だけど海を目指して走っている最中、弟の方が雷に撃たれるんだ──神の雷にね。その時、毛皮の色が変わってしまったのがこちらの白いハリネズミ」
「ありゃ」
「けれど、不思議なことに弟は死なず、そのまま走り続けることが出来た。帯電した状態で、白く光り輝きながら。そうして気の遠くなるような距離を駆けた二匹はとうとう海へと辿り着く。彼等はそこで、朝の光に波打つ黄金の水面を見たんだ。その光景に心を震わせ、二匹は海に足を踏み入れた……けれど」
「けれど?」
「その瞬間、兄は死んでしまった」
「はぁ? 何で」
「感電死だよ。弟の身体から流れ出た神の雷電は海水を伝って兄の心臓を貫いたんだ。その時黒く焦げてしまったのがこっちのハリネズミ」
「何で片方だけ? というかそもそも言い出しっぺは弟だったんだから、神罰を下されるとするならそっちの方がまだ妥当なんじゃないんですか?」
「まあ聞きなって。兄はそのまま天国に召されたんだけど、弟は兄を死なせてしまった罪の重さに耐えきれず自ら命を絶ってしまうんだ。海で溺れてね。そうしてその魂は神の国へは迎えられず永遠に地上を彷徨うことになった……神は正しく罰を与えたんだよ。かくして兄弟は引き離され、その後二度と会う事は無かったとさ。めでたしめでたし」
「微塵もめでたくないじゃないですか」
 ショーケースの中。寄り添うように並べられた二匹のハリネズミを見下ろし私は憤慨する。天上と地上に引き離された黒と白の兄弟。手本の様な悲劇。
「ただ海を見たかっただけなのに」
「神をキレさせると碌なことにならないってことだね」
 雑なまとめですねと私が言うと先輩は微かに口角を上げる。
「ところで一説によると『天国では皆が海の話をする』ってのはこの伝説が元になっているんだと」
「何ですそれ」
「……君はもう少し地球文化に興味を持った方が良い。まぁ何にせよ、天国で兄は海の素晴らしさを語り続けている──かつて目にした美しい海の底を彷徨い続ける、魂の片割れを偲びながら。永遠に」
 そうやって先輩が言葉を締めくくると同時に閉館の音楽が流れ始めた。私たちは文化資料館を後にする。
「ねぇ、先輩」
「ん?」
「もしもですよ? もしも、私たちが生きている間にこの船が地球に辿り着いたら、一緒に本物の海を見に行きましょうよ」
 ハリネズミが神に背いてまで目指したという海。天国で誰もが噂するというそこは、一体どんなに特別な場所なんだろう。
「ホログラムでいつでも見られるのに?」
「野暮ですねぇ。セザンヌの描いたリンゴがどれだけ素晴らしくても、まさか頬張ることは出来ないでしょ」
「あっ、セザンヌは知ってるんだ」
「先輩の好きな画家だから」
「……ふっ、海ねぇ。神の怒りを買うかもよ?」
 冗談めかした口調でそう言う先輩に、私はこう返す。
「この一千年、誰がいくら窓の外に目を凝らしても神なんて何処にも見当たらなかったそうじゃないですか」
 だから大丈夫ですよと言い切る私に、そうかもねと先輩は歌うように呟いた。
 文化資料館を出た私たちの眼前には、すっかり見飽きた宇宙の星々が広がっている。この巨大な宇宙船で生まれ育った私たちは、その窓の外──果てのない暗闇のどこかに存在するという、遠い祖先の故郷の神話に、暫くの間思いを馳せた。

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