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系譜

第三回かぐやSFコンテスト 選外佳作に挙げていただいたのが嬉しかったので、いそいそとアップします。最小限の手直しを施してあります。

 曽祖母の代からクマール家に伝わる爪は、おどろくほど軽くて笑ってしまうくらいに丈夫だ。二センチと少し。ゆるいカーブを描くステンレスの表面には無数の細かな傷があって、シルバーというよりはくすんだ白に見える。三世代にわたりこの山の木々を引っ掻いてきた爪が纏う、栄誉の白だ。紙のように薄いのに、大木の表皮をすばやく抉り取ることができる。
 ペリヤール国立公園の奥深くで陸上選手を営んでいる叔母は、目下のところ三人の生徒を抱えている。今年十六になる姪っ子のアニータと、同い年の友人ナイラ。一つ下のカヤ。カヤは「沈んだ町」から来た。四人の女の右手の中指は、岩のように硬く、しなやかで、樹液の匂いがする。
 あんたは好きに生きればいい、と折に触れて叔母が言うのを、アニータはいつも半分ずつの気持ちで聞いている。
 そう。
 そう?
 でもたしかに、爪は世襲制というわけではなかった。ごく稀に、陸上選手の系譜の外から「継ぐもの」があらわれる。そういう女はたいてい、ものすごく指がいい。誰にも習っていないのに、木肌の触りかたを知っている。時間に仕事をさせるということがどういうことなのか、たぶん、生まれたときから理解している。カヤみたいなのがそれだ。
 ホワイトウルムの若木の、すらりとした幹は軽く握る。卵を持ち上げるみたいな感じで。それから爪を滑らせる。これは、背中のできものを撫でるときをイメージして。慎重さの奥に苛立ちを込めるとうまくいく。
 アニータとナイラに走りかたを教えてくれたのは叔母ではなくカヤだった。カヤは身体で知っていることを、言葉にして取り出すことができる女だ。
 カヤがこの山を守る未来について、アニータはときどき考えてみる。叔母は決してそれを口にしない。でも、指がそう言ってる。カヤの骨ばった中指に爪をはめてやるときの手つきはあまりに事務的で、隠したいことがあると叫んでいるようなものだった。叔母の奥にあるのが歓喜なのか嫉妬なのかはわからない。どっちでもいい。あのこは天才だ。
 アニータは選手として生まれ、選手として生きてきた。これからもそのように生が続いていくことを拒む気持ちは、もちろん、ない。ない、と、思う。
 霧深い森を駆けていくときに肺を満たす青い匂いのことは気に入っている。競技そのものにだって思い入れがある。年輪に人間の営みを刻むこと。木と共にあること。触れるとかぶれる種類の葉っぱも覚えたし、キタタキやヒアリの邪魔をしない走りかたも心得ている。指も肘も、もう痛むことはない。
 走り、触れ、傷を残すこと。それが全てだと叔母は言った。十年後の木々の姿が、アニータたちの生を描き出すだろう、と。年輪の欠けや幹の歪み。繰り返し握り続けたことによって生まれる、梢の、かすかな窪み。そういうものが、中指の痛みと共にあって、時間のなかで、どんどん顕になっていくだろう。
 異議はなかった。ただ、半分ずつの気持ちで聞いていた。
 十年後、二十年後の木々の形を想像しながら爪を動かすことは、生き物としてあまりに「正しく」思え、アニータはときどき、息苦しさを覚えるのだった。その正しさを退けたいような心持ちは、カヤの後ろを走っているときにいっそう強くなった。短く刈った黒髪がまばらに落ちる、日に焼けたうなじを、とても長い時間見つめてしまうことがあった。左右で大きさの違う尻を飽きもせず盗み見たりもした。それから、何度も何度も質問した。すでに知っているはずのことを、繰り返し。カヤが自分のために取り出してくれる言葉が欲しくて、あの掠れた声をもっと聞きたくて、呆れたような目つきで見返されたくて。あのこは呆れるときだけ近くなる。
 アニータは自分のことを盗人みたいだと思った。盗人は正しくないから山を降りるべきだとも、思った。

 あたしらみたいなのは、だんだんよくなるんだ。
 だんだんね。
 ちょっと上達が遅いだけ。
 カヤよりかは。
 そう。
 そう、いつか追い越すよ。
 二百年後か、三百年後かに。

 ナイラとはよく軽口を交わす。選手の系譜に生まれた女であることの重苦しさを、互いの言葉でくすぐり合う。
 カヤが爪を継いだら、自分は山を降りるのだろうか。アニータは、そのことをできるだけリアルに想像してみようとする。木の幹を握らない日々。節くれだった中指に、不在の痛みが走る。木の根をまたがない暮らし。たとえば、平らな土地での生活。平らな土地! めまいを覚える。
 ずっと昔、まだ大きな氷が溶ける以前の世界では、陸上競技は山を必要としない営みだったという。山どころか、木すらも。選手は草のない平らな地面の上を、ただ、走っていたらしい。まるで神話みたいだ。
 その伝承を耳にしたとき、涙が出るほど笑った。それから急に怖くなった。年輪に傷を刻まず、幹の伸びる方向に力を加えることなく、「陸上」をする。山と共にあるためではなく、ただ、走るために走る。そんな自分を想像してみると、なんだかすぐに死んでしまいそうな気がした。
 アニータは速度を上げる。カヤの背中が眼前に迫る。汗と樹液の匂いに襲われる。目を伏せ、さらに足を動かす。隣に並ぶ。後ろを走るときよりもはるかにはっきりと、その息遣いを聞き取ることができる。想像していたよりも荒々しい。うなじはもう見えない。二人の目は木々を捉えている。

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