質的に異なる二つのものが触れ合うときに生じる環状の流線について

かぐやプラネット公募「果樹園SF」応募作

 はじめは止めていたものの結局は絆されたということになるのか、どうしてもジヤくんに会いに行くと言い切った八重やえの声、その切実な感じにやられてしまい、大学のある方角にハンドルを切った。夜道に人影はない。隣で小さく息を呑んだ八重はきっと次の瞬間には笑いだす、そんなのはもう見なくてもわかる。

 十年前、わたしと八重がまだ高校生だったころ、木は言葉になった。
 植物ゲノムに文章生成アルゴリズムを書き込むことで誕生したこの言葉樹は、演算装置の一部として、また、地球緑化の新たな施策として世界中で数を増やしていった。
 言葉に実体を。
 それがプロジェクト発足当初のキャッチコピーだった。言葉をなす木々の存在について、わたしや八重を含む多くの人々はただ面白がったが、一部では極端な反応も見られた。「樹木には意思がある」というのは神秘派の主張で、これはジャック・ラカンの「心は言葉でつくられている」という一節に依拠している。ゆえにかれらはラカン派とも呼ばれる。不用意に幹や枝を傷つけると、どこからともなく飛んできて高説を垂れる。
「言葉樹は神への冒涜である」というのは保守派の一貫した主張だ。かれらは「言葉に言葉で対抗しても事態は改善しない」という立場をとり、実力行使に打って出た。あのころは深夜に街路樹が掘り返されたり、「一日一折いちにいっせつ」を唱える一味によってそこいらの植木が破壊されたりした。ここY市でも住民の反対運動があった。
 もっとも、導入当初の言葉樹は精度が低く、〈テーブルの上に重力を注ぐ〉とか〈つま先にトドを塗る〉とか〈昨日学校に踊る〉とか、さらに酷いものだと〈微分積分はおフェラ豚です〉みたいな文も生成されたらしいから、住民の混乱もむべなるかなという感じだ。
 初期型の木々は、市の職員らによって迅速に回収された。
 改良されたバージョンには禁止ワードをフィルタリングする機能が埋め込まれていたため、反発の多くは収束していった。いまでは街路樹が来週を思い出すことはなくなったし、肩にアンドロメダ星雲を乗せることもなくなった。植物にフレームや時制が適用されたのだった。
 後付けの策ではあったが、時間と空間を理解し、節度あるデータベースを手に入れた言葉樹は人々の楽しみになっていった。とくに詩集はよく売れた。最も有名なのが『彗星の爪』で、八重も好んで読んでいた。
〈きみは昨日、昨日のきみに会ったきみの昨日だ〉
 という一節から始まる詩などは、中学校の教科書に載った。

 八重は助手席で空気の漏れるような笑い声をあげ、夜のドライブが始まったことを無邪気に喜んだ。明日の正午に入稿予定だった原稿を思うと頭が痛むが、いまさら引き返すわけにもいくまい。
 もとより問題を抱えている相手に惹かれやすい女で、かわいそうだ、大変だと言いながらずるずると惚れてしまう。あなどる気持ちとあこがれる気持ちが半分ずつあるんだと八重はいう。
 窓をあけると、晩秋の冷たい風が車内の空気をかき混ぜた。八重はずっと緊張感のない表情でガムを噛んでいる。味のしなくなったものをどれほど咀嚼しても、飲みこめはしない。

 導入から四年目の秋、市内にある一本の言葉樹が実を結んだ。一様に白く、乳児の拳ほどの大きさで、動詞句の枝に成った。勇敢な市民の一人が齧ってみたが、味のない林檎のようで食べ甲斐はなく、体調にも異変は生じなかったという。
 またしても市の職員が駆り出され、実はすべて回収された。
 Y大学の研究室で培養された種のうち、六つが発芽した。苗は第二世代として隔離され、大学の一角に植樹された。この六体は発芽の順に短い名が付与され、最初に発芽した個体がアメ、最後に発芽した個体がジヤと呼ばれた。
 以来、近隣の都市で見つかった果実はみなY大学に持ち込まれ培養された。木々が育ち、ちょっとした林ほどになったころ、個体アメの枝に実が成った。果肉は透明で、周囲の葉が透けて見えた。しかしながら、内側にあるはずの種を見通すことは誰にもできなかった。MRIで断面図を調べたところ、黒い渦のようなものが果肉に包まれていることが明らかになった。写真が発表されると、この渦は破滅の象徴であるという主張の記事が書かれた。相次ぐ残業で錯乱状態にあった市の職員がこれを信じ、果実を破壊した。
 報道によれば、研究室の床に打ち付けられた瞬間、果実は「ケーン」と鳴いて跡形もなく消滅したらしい。
 個体アメはその晩、新しい枝を短時間にいくつも生やし、研究者らを驚かせた。演算装置が解析したところ、それは以下のような歌になった。

〈あらざらむ渦潮の香の行く末は闇に超ゆれどしるくぞありける〉

 それから一週間と経たぬうちにアメは区画から消滅した。

 植物学者、生物学者、言語学者、詩人、校正係、編集者。さまざまな仕事人が、言葉樹の登場によってゲームチェンジを強いられた。わたしが新卒で入社した編集プロダクションでも、記事の執筆用にと与えられたのは樹木型エディタだった。先輩編集者は手慣れた様子で眼前にバーチャルツリーを成形してみせた。ハプティックマウスの指が、余分な副詞や形容詞の枝をポキポキと手折っていった。
 樹木型エディタを用いた執筆は盆栽に似ていた。わたしたちの書く記事は複数の編集技師の手によって去勢される。飛び出しすぎた枝はカットされ、細すぎる幹は太らされ、果実は素早くもぎ取られた。

 アメはゆっくりと消えていった。まず、実をもがれた箇所が透け、ガラス質になった。そこから地面に向かって透明化が進んでいった。透け始めた直後の枝には触れることができたが、光の屈折が徐々に少なくなり、完全に見えなくなるころには触れることもできなくなった。
 演算装置はアメが消えてもアメの言葉を受信した。その内容は支離滅裂で、〈内閣は水分量がビリヤニ〉とか〈座標軸、グッド配合明るいね〉みたいな文字列がいくつか続いた後、ぱたりと途絶えた。

「ねえ、覚えてる? 蝶あそび」
 八重の言葉に記憶を手繰る。五、六年前に流行った遊戯だ。この国の言葉樹が枝を生やす法則は、日本語の文法と一致する。だから、枝に沿ってフレーズを追加していけば、誰でも簡単に、文を作り続けることができる。それを利用したのが蝶あそびだった。
「あったね。なんだっけ」
「あれは蝶」
 八重がいい、フロントガラスに二股の枝が現れる。そうだった、最初は二本の枝だ。〈あれは〉で一本。〈蝶〉でもう一本。わたしは〈蝶〉の枝に新たな一本を描き込んだ。
「あれは青い蝶」
「えー、あれは青い蝶、を、捕まえた、人」
 八重の声に応じて、〈蝶〉の枝がさらに分岐する。
「あれは青い蝶を捕まえた人が、飼っている犬」
 不恰好に枝が増える。このままいくと失敗だ。蝶の枝ばかり重くなり、じきに折れてしまうだろう。樹木型エディタは物理演算エンジンを搭載している。
 それでもわたしたちは蝶あそびを続けた。どこにも辿り着かない分岐が、壊れたカーナビ画面のように眼前に広がっていく。
 あれは青い蝶をつかまえた人が飼っている犬が持ち去った骨が生きていたころに見た海で暮していた貝の中にあった真珠の首飾りを贈られた女が流した涙でつくったスープを飲んだ男の口の中、
 わたしたちの枝が音もなく折れる。
 車は大学構内に入った。

 アメの次に結実したのは個体ユジュの枝だった。この果実もまた透明で、分析器にかけられた結果、渦を持っていることがわかった。完全体のまま敷地内に埋められた。間もなく発芽し、研究者らは第三世代の誕生を喜んだが、苗が育つにつれユジュは消えた。
 第三世代は環境の変化に強く、成長速度も早かった。挿木で容易に数を増やし、秋になると白い実を大量に実らせた。生食には向かず、料理人たちが新たなレシピを開発しようといまも躍起になっている。
 最初の果実から生まれた六体のうち、消滅していないのは残り四体だった。個体トテ、個体チテは同時に実を成した。トテの実は埋められてすぐ発芽した。チテの実は解剖に回され、メスを入れた瞬間にやはり鳴き声をあげて消滅した。入刀の様子はライブ配信され、わたしと八重も一緒に見た。「ケーン」とも「クーン」とも聞こえる奇妙な音色だった。実が消えた日、個体チテは十数本の枝を数刻の間に発生させた。演算装置によれば、それは次のような意味であった。

〈別れの日の俺は襲の色目
 同床異夢には応召義務
 四海の遺灰を時代が疎外〉  

 このデータはすぐさま有識者会議にかけられ、侃侃諤諤の議論が何日も続いた。アメの句とチテの句はいずれも異次元の存在を示唆している、なんて説も浮上したらしいが、結論は出ていない。
 個体ケンはすす病になって枯れた。それから二年半は不作が続いた。最初の六体のうち、残された個体はジヤのみとなっていた。
 Y大学の植物学科と詩学科が提携した年、八重は文学部に入学した。そこでジヤの詩に出会った。

〈太陽と土と水だけに囲まれた俺の枝がアムステルダムを語るとき
 五人の兄はもういない
 明日を思い出すのは禁止だ
 ゴムの木かなんかがよかったといえば
 研究者どもが口を揃えて笑う
 俺のいない場所に俺を置いてきてくれ
 カイガラムシの寝床なんかじゃなくて〉

 ジヤがこの詩を詠んだのとほぼ同時刻に、各国で保護されていた二百体あまりの第二世代がそれぞれの言語で同じような語を紡いだ。相次ぐ発表を前に、神秘派ばかりでなく普段は慎重な研究者らも身を乗り出し、言葉樹には意識がある可能性が極めて高いと主張した。
 当時の八重は肉眼でジヤの詩を観察し、電話をかけてきた。かわいそうだ、と彼女はいった。肉体を与えられたせいでジヤくんはアムステルダムに行けなくなってしまった。そんなのはあんまりだ、と。

 夜の構内に忍び込む。廃材置き場からの脇から、八重の後について狭い道を進む。
 盛り上がった土に足をとられ、とっさに彼女の腕を掴むと、
「気をつけて。そこらへん、先週掘り起こしたばっかだから」闇のなかで笑う。
「くわしすぎない?」
「毎週きてたから」
「不法に?」
「不当に。愛ゆえに」
 テニスコートを囲うフェンスの裏に果樹園はあった。アプリを立ち上げると、夥しい数の明朝体が目に飛び込んでくる。この区画だけ言葉の氾濫だ。急いでミュートにした。
 柔らかい土を踏んで入園する。
「こっちは第三世代」
 八重の声に木を見上げると、毛細血管のような枝が夜空を切り取っている。ぽつぽつと白い実が闇に浮かぶ。
「食べたら怒られるかな」
「マジでおいしくないよ、それ」
「食べたの」
 当たり前じゃん、と彼女は得意げに振り返り、それからすっと表情を消した。視線の先には、周囲よりも小柄な樹木があった。上を向いた枝の半ばに、外し忘れたクリスマスのオーナメントみたいに、透明な果実がひっかかっている。街灯を受けてギラリと光った。
 ジヤに近寄る八重の足はぎこちなかった。細い幹に向けてゆっくりと伸ばした彼女の腕もまた、言葉であるかのようだった。俯いた表情は見えない。
「こんなふうにしちゃいけなかったんだよ」
 か細い八重の声に、無言で頷く。
「溶けない雪、ってあったじゃん。ひんやりして、さらさらで、ずっと触ってても溶けない。あれを見たとき、これはどうしようもないゴミだと思ったの。だから」
「うん」
「かわいそうだよ」
 彼女の口の中にはまだガムがあって、そのことがわたしの頭をぼうっとさせる。目が果樹園の出口を求めて彷徨う。意識が何かをとらえ、理解する前に口を開く。
「八重」
 顔を上げた彼女はわたしの視線を追い、小さく息を呑んだ。出口の近くに立てかけられた茶色い、小さな、汚れた道具。
 八重が空気の漏れるような声で笑う。それから、次の瞬間には二人とも走り出している。足が軽い。吐息なのか笑い声なのかわからない音が隣から聞こえてくる。気がつけば、わたしの喉からも同じような音が漏れている。大丈夫だ。柔らかい土はわたしたちの足音を完全に隠して、あのスコップの場所まで二人を運んでくれるだろう。

よければアレしてください