いま、ふたたびを
レシピは思いを連れてくる。
自分の中で明確になっているレシピほど、そう思う。
わたしの中では、今井真実さんのこちら。
ほたるいか、そら豆、新じゃがの炒めもの
ほたるいかのプリっとした歯ごたえ
ワタの旨み、ちょっとしたえぐみ
そら豆のさわやかで豊潤な香り
オイルで揚がった新じゃがのねっとりとした歯ざわり
にんにくの良いところだけが残った状態
すべてが調和して、おうちの中で至高を感じられる。
今井さんのレシピは、ありふれた材料に的確な手間と時間をかけるとこんなに美味しいんだよって教えてくれる。
手間も時間も、美味しさに直結するから惜しくない。だから、みんな作りたくなる。実際に作る。感動するから、また作る。
ただ、このレシピは去年の3月以来作っていない。
ちょうど、ほたるいかやそら豆のシーズンが過ぎたということも理由のひとつだけど、他にも理由がある。
発熱したのが3月7日
確定したのが3月8日
嗅覚が曖昧になったのが3月9日
3月8日の夜も発熱していて、ご飯らしいご飯を食べていなかった。そのため、実質わたしが万全な嗅覚で食べた食事は、3月7日の晩ご飯が最後。
3月7日の晩ご飯は、ほたるいか、そら豆、新じゃがの炒めもの
そう、これが万全な嗅覚で食べた最後のレシピなのだ。
個人差があるものだし、自分を悲劇のヒロインだとは思いたくない。
けれども、わたしの嗅覚はイカれたまま
治る気配がない。
おかげさまで
銀だこの匂いに誘われてたこ焼きを衝動買いすることはなくなった。
ステラおばさんのクッキーの前でバターの匂いにむせぶこともなくなった。
もともとそんなに持っていなかったけど、香水だって最小限に減らした。
つけても香りが曖昧なんだもの。いま嗅いでいる匂いは、わたしの知ってる香りじゃない。
仕事にも影響が残ってる。
患者さんの血液や便の匂い、前は敏感過ぎるほど敏感で、廊下を歩いていたらすぐにわかった。
嗅覚の力を借りて、いかに吐血や下血を発見してきたか。
今じゃ、ベッドサイドで思い切り匂いを嗅がないとわからない。血液の匂いも、あんまりわからない。患者さんが血まみれになっていても、気づけない。
自分が看護という仕事において、いかに嗅覚に頼っているかを痛感した。
もちろん、後遺症の外来があるのは知っている。いろんな同職者から情報はたくさん入ってくる。
でも、受診して治らないとわかってしまったら、どうしたらいいの?
このままで生きていきなさいってことが、決まっちゃうじゃない。
だから、現時点では受診しないと決めている。
治るかもしれないという希望を残しておきたいのだ。
その希望が、偽物であったとしても。
7割くらいの嗅覚で暮らしていたら年が明け、また春がきた。
いつものようにOKストアに行く。
あのレシピの材料が全部ある。困った。
頭ではなく手が勝手にあのレシピの材料を、カゴにいれていく。
家に帰って、作って食べる。
うん、ほたるいかの味。
そら豆の味
新じゃがの味。
香りはするけど、あの混沌とした風味は感じられない。
おいしいけれど、感動はない。
それもこれも、レシピが悪いんじゃない。
悪いのは、あの感染症のせい。
なんでまた、嗅覚を奪うというタチの悪いこと。
まだ30代なのに、老いを受け止めることの難しさを疑似体験しているような感覚に陥る。
聴覚や視覚も、こうやって衰えていくんだろうか。
時間の流れは止められない
身体機能の低下も、老いには逆らえない。
でも、受け止めるには時間がかかる。
正直、わたしはいまだに受け止められていない。これから先、受け止めきれるかもわからない。
けれども、毎日は続いていく。
ミスチル桜井さんの言葉を借りるなら、受け入れることができなくても、それを引き連れて暮らしていくしかないのだ。
今日も、わたしはきかない鼻を引き連れて歩く。
そして、あのレシピを作っておいしく食べる。
こういうものを、日々と呼ぶのだろう。
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