寂しい、悲しい。でも決して「かわいそう」ではない。
去年の夏の終わりに友人が亡くなった。
35歳。
学年は一つ上だけど、同い年生まれで同じ学校に通い、同じ寮で寝食を共にし、同じ野球部で文字通り白球を追いかけた。
毎日、汗まみれで。
朝から夜までいつも近くにいた。
学生の頃から、彼女はいつも自分のことより周りのことを考える、想いやりが足はやして生きてるみたいな人だった。
だけど決して完璧な人間なんかじゃなくて、朝がすんごく弱くて。
「おはよっ!」って声をかけると般若のような顔で「朝からおはようとか、無理」って言ってくるような、そんなとこもあった。
それが面白くて何度も朝おはようって言って、本気で嫌われかけたりした。
本当に朝は機嫌が悪かった。
オシャレな皮肉とか、痛いところついてきたり、たまに「イジワル!」って本気でイラついたりもした。
だけど、社会人になっても何かあったらいつも報告して、何もなくてもアホな冗談をわざわざ連絡したりした。
久々に会ってもいつも「昨日も会った」みたいな顔して「よっ!最近どお?」って言い合った。
数年ぶりに会っても感動の再会とか、声の高い「久しぶり〜」って、なかった。
闘病も普通に報告してきた。
「そういえばさ〜
最近流行りの癌になってさ」
涙ひとつ、悲壮感ひとつ見せずにそう言った。
私たちの、いつのテンションで。
お見舞いにも行った。
退院中に遊んだりもした。
いつも、どこでも、私達の会話は「よっ!最近どう?」で始まった。
真っ直ぐ歩けなくなったときも。
「最強の痛み止め」を飲んでたときも。
「よっ!調子どう?」
「良くないから入院してんだよ!笑」って。
いつだって私たちの会話は「いつものテンション」だった。
亡くなる前に夢に出てきた時も普通だった。
「よ、永ちゃん」って。
亡くなった次の日、すぐ駆けつけた。
彼女の生前の希望で、最後のお化粧をさせてもらった。
「綺麗じゃん」って言っても、返事はなかった。
「おい、ちょっとはやいよ」って言っても、返事はなかった。
でもなんとなく、返す言葉が想像できるから頭の中で一人で会話してた。
信じられないけど現実なんだって、言い聞かせた。
悲しくて、悔しくて
身体中の水分が全部抜けるくらい、泣いた日もあった。
なのに…
彼女が応援してくれてた出版の報告をしようと
LINEを開いたり
表紙決まったよ!見てよ!って
インスタのDMを開いたり
あんなに泣いたし
あんなにお別れしたのに
ふと、そんな自分にびっくりする。
おいおい、あんなに泣いたのに
お前、忘れたんかいって。
自分に突っ込みを入れる。
まだ、普通にLINEの返事が来る気がする。
会ってないだけで、いる気がする。
そして、無性に寂しくなる。
あ、もう会えないんだ、と。
でもまだどこかで、会える気がして。
…いや、いつか会える日が来るんだろう。
たぶん次会ってもいつも通り「よっ!どう最近?」って普通な会話がイメージできる。
ただ、今すぐ会えない、だけ。
寂しさに襲われた日は、きっと同じように寂しさを感じてるであろう同じ野球部だったり、同じ学校の仲間たちを思い出す。
彼女のことが大好きで、一緒の想いを抱えてる友人たちが、この空の下に何人も、何十人もいると思うだけで、連絡しなくてもホッとする自分がいる。
1人で「きっとあの子も、寂しくて泣いてる日があるんだろうな、あの子昔よく泣いてたもんな〜」って、自分の涙は棚に上げて。
きっと、あの子も、その子も、あいつも、そんな日があるはず。
1人じゃないことが、こんな時に、こんなに力になるなんてと何度も思った。友達っていいな、って。
いつも一緒にいるわけじゃないけれど、この空の下みんな繋がっていて、また会える友達がいることは、とても幸せなことだなと思う。
その縁を繋いでくれたのも、今すぐは会えなくなってしまった彼女なのだ。
いなくなってしまった寂しさや悔しさを言葉にするよりも。
出会えたこと、同じ時間を過ごせたこと、彼女がくれたものへの感謝を言葉にしたい。
私が知る限りだけど。
私の目に映る彼女は…
最後まで、いつも通りで、彼女らしかった。
他の誰でもない、彼女らしい生き方をしてたように見えた。
短すぎると、悔しさがこみあげる時もある。
可哀想にと、言う人もいる。
だけどどうしても私の目に映った彼女は、可哀想な人ではなかった。
たしかに病気がもらした苦しみや痛みは、多かったかもしれない。
でも病気になってからも、彼女は自分らしく、生きてた。
たくさんの愛情や想いやりや、縁を残してくれた。
髪が抜け落ちたときも。
声がかすれて話ずらそうにしてたときも。
痛みで足を引きずるようになったときも。
彼女にふさわしい言葉は
「かわいそう」では、決してなかった。
あんなに自分らしく力強く生きた彼女が、可哀想な奴なわけ、あるか。と。
この数年間の彼女を思い出して、わたしは思う。
人間に生まれて「可哀想」なのは、病気でも、若くして亡くなることでもない。
自分らしく生きれないこと、だと。
私は
彼女のように、その時が来るまで自分らしく生きるんだ、と心に決めた。
自分らしくいられないなら、せっかく生きてても人間に生まれたかいがない。
そして、苦しいことや痛いことも生きてるからこそ感じることだ。彼女はしっかり味わって生ききったんだろう。
私も、嬉しい事も苦しい事もしっかり味わいきって、生きてやる。
自分らしく生きる。
それが今の私のテーマのひとつ。
次会うときに「永ちゃん、やるじゃん♫」って言わせると、決めている。
でもたぶん「永ちゃんにしては、まあまあやるじゃん?」ってちょっと厳しめって言うか、上から言われるような気がしてるけどね。
ああ、あときっと私だけ歳を取るのかなあ。
老けたな〜って、言われるのかな。
いつもの、私たちの普通のテンションで。
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