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二月の終盤に

新たな新生活に向けて、少しずつ進んでいていた。
障碍者の制度は、ここ二十年かのうちに、大幅に変わり。生活をしていくうえで相談員制度ができた。
私が20数年前一人暮らしをしていたころは、ヘルパーは自分で探さないと行けず、市役所の福祉課との交渉も、自分でしなければならない状況だった。
週二回の家事援助のために何度も交渉しに行ったか。
自立をすることはあの頃はできるだけ自分だけでやる。という考えが世間一般の常識だった。
しかし今、多くの重度障碍者、誰かの支援がなければ生活できない人たちが、施設というワクを飛び出して地域で暮らしている。それが根付いてきているかといえば、ちょっと怪しいのだが、選択肢の多様化は進んでる。
私は頸椎を二度手術してから、体が重くなって、今までできていたことができなくなってきている。首は体幹を支えるカギである。今は何とか動けているが、またいつカギが壊れるともわからず、現実逃避したくなる。


ところで、今年80になる母が、認知症である、母本人は認めていないため、認知症の薬を血圧の薬だと言って飲ませる。もっと早くからはためにおかしいところはあった。しかし、病院で検査しようっていうと、顔から火が出るように怒った。今となっては、ただ少しでも、笑って暮らせればいいと思う。
そんなさなか、父が私に家を出ろ、という。
俺は50年連れ添った嫁とは離れられない。この先、どんどん悪化すると目さんと、お前と二人も世話は無理だ、だからお前は自分の道を探せ!

それで、いろいろ当たって友達のシェアハウスに行き着いた。ほっとしたのは、行くところがあった。ちょっと遠いが、心に決めて、少しずつ準備を進めていった。来月の初めには、引き継がれる予定の事業所の人と顔合わせすることになっていた。その真っただ中、令和6年の4月実家から、近いところにグループホームができると、連絡がきた。「浅野さん、どうしますか?
」心の中で葛藤が始まる。

ふと、電動車いすで、外に出る。家の近くの公園に早咲きの桜が、誇らしげにこっちを見ている気がした。
道にまよい込んだ私を、笑っているようだった。友達には悪いが、私は家族の近くで、支援を受けながら、たまに家に帰って様子を見る。結果的にそう結論付けた。この結論を、友達に報告すると、逆鱗に触れた。悪いことをしたと思う。これを機に絶縁となった。しかしまあタイミングの悪いこと極まりない。桜がしっかりしな!と言ってるように思えた。
毎年咲く桜は、人生とは何かを問うているようだった。

再び、未来へと、動き出す。また、壁にぶち当たることもあるだろうが、その時また、考えることにしよう。


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