恋を知らないあなたでも
私は、姉と血が繋がっていない。
そんな風に見えないように努力して、ネガティブな自分を吐き出さないようにしている。
それが、役者でありアイドルである私の仕事だから。
アイドルユニット、「Lシス」ことLively Sisters(ライブリー・シスターズ)のオファーは、まさしく本領発揮する場を獲得できたというわけだ。
でも、それを姉は快く思っていない。
彼女は正直者で、生真面目なのにどこか頭が悪いせいだろうか。
おかげで、私とは心の歯車が合わない。
本当は合わないのを、私が彼女に合わせようとしている。
プライベートではそうだというだけで、私はむしろ仕事中の方が正直になっているような気がする。
その変な口ぶりはどうなんだと言われた時も、私は、おウチに帰るまでが芸能界ですみゅん、と返すのだ。
二十歳をとうに過ぎても芸能人を辞めなかった、ということは、彼女はその道を選ぶことを覚悟したのだから。
厳しいだろうけど。
私は、姉のことが愛おしいからついそうなってしまう。
彼女からはあまり愛されていないだろうなと感じながらも、私は姉からの愛を求めているのだ、本当は。
毒親ならぬ、毒妹かもしれないという怖さはうっすらと覚えている。
ところで。
私はいつもこんな様子なので、芸能人なんて疲れないか、と姉から聞かれたことがある。
しかし……あんなもので疲れるなんて、私は馬鹿らしいと思うのだ。
あの頃の生活の方がよっぽど狼狽(ろうばい)する。
よっぽど……希死念慮を抱く。
だってあの頃の私は、両親からの愛なんてちっとも受け取れなかったもの。
久保田さんの家に引き取られる前の私は、心が壊れていた。
幼い子供というのは新品のスポンジみたいなもので、何でも吸い込む。
吸い込んだそれが淀んだ水であるのなら、私は壊れる他になかった。
生みの両親の間にはいつも張り詰めた空気が流れているのに、喧嘩をしないというところがとても違和感を覚えた。
何がどうしてそうなったのか、幼い私にはさっぱり想像できない。
何とかしたい。
私、早く大人になりたい。
大人になったらパパとママを助けたい……常々思っていたのはそんなことだった。
……そんな矢先、いつもと違うことが起こるのだった。
生みの父は、一人娘だった私を抱きしめた。
そこまではいつもと同じだったのだが、問題はそれが私の部屋で、母のいない時だったというところだ。
可愛い、可愛いね、明里。
パパだけの可愛い明里だ。
大好きだよ。
だから明里も、パパが大好きだと言ってくれ。
あの日の後にも、このようなことはあった。
父とは何度交わっただろう、それは覚えていない。
首筋にキスをされ、胸を揉みしだかれる幼い私は、映画のスクリーンの向こう側にいるような存在にしないと今でも嘔吐しそうになる。
目眩がする。
そう……あの私は、きっと私じゃないのだ。
同じ顔をした、別の世界の人間なのだと思い込ませないといけなかった。
色も、音も、温度も失くさなければならなかった。
私はあそこにいない。
だから大丈夫だ、と。
離婚届に名前を書いたのは、私が初潮を迎えたその晩だったらしい。
今どき、娘の初潮を赤飯で祝う家庭なんてないだろうが、家族の形がもろもろと崩れ落ちる家もないだろう。
その時の私はまだ十歳だ、クラスの他の子たちよりも早く大人になれたのだと安堵感を覚えた。
何故だろう、家族が家族でなくなるはずなのに。
母は何かを察していたのだろうか、明里は私が引き取ると断言していた。
だから、安堵感の他にも申し訳ない気持ちを抱えていた。
ママを心配させたくないからずっと我慢してたのに、明里はきっとどこかでバラしていたのだろうと思った。
シングルマザーとなった母にはいつも、ごめんなさいとか、明里は大丈夫だからとか、そんなことを言っていた気がする。
母子家庭で経済的に困窮してしまったのは、もしかしたら我慢の足りない自分のせいだろうか。
あの頃のパパは何だか苦しそうで、それを娘の自分が慰めてやらなきゃ駄目だったろうに。
なのにどうして、あの場で気持ち悪いと、怖いと思ってしまったのだろう。
あれを……あのおぞましい欲望を向けている人間が、実の父親だったからだろうか。
などという感情を、その当時は言語化の難しい状態で背負っていた。
次第に、私は窮屈になっていった。
笑うのが辛い。
ねぇどうして。
こんなに明里はママの為に頑張っているのに、我慢しているのに、ママは笑わなくなったのだろう。
母の救いだった部分は、彼女の職業が芸能関係だったというところだろうか。
それが分かったのは後からだったが。
新しい父親の連れていた娘が、今の私の姉だというわけだ。
あの子は遊園地で私と初めて会った時、母親と妹ができるんじゃないか、ということに心の底から喜んでいた。
その様子を見た私は声を上げて泣いた。
当然ながら、周囲はうろたえたものだ。
明里ちゃんどうしたの? と、不安そうな声で姉は言ってものだから、私は声を絞り出した。
明里もそんな風に笑いたかったの、と。
……笑えるよ、きっと。
だって私たちは家族になるんだから。
抱きしめられたその瞬間、姉の黒髪からはふわりといい香りがした。
そして、スクリーンの向こう側にいた私が、涙を流しながら微笑んでくれた気がした。
色を、何もかもを失っていた私はきっと、姉に恋をしたのだろう。
恋という言い方はきっとどうかしているのだろうが、私はそうだとしか言いようがなかった。
今でも、きっと。
抱きしめてくれてありがとう。
私はきっと、父が相手じゃなかったとしても男性の欲望は受け取れない。
そう悟ったのもその時だった。
……私はあっという間に成人して、同性への片想いの数を数えながらも胸のうちに収めている日々を過ごした。
しかし……
振り返ると結局、その想いは姉の元へと向いてしまう。
私はその様子が段々と、あの男と同じようにも思えてきてしまった。
共学校で男友達が何人もできたし、仕事でも男性ファンが多いから、その時によく自分は無理だとか思っていたが。
その、無理だと思う男のような言動をしていないか、怖い。
例の新しい仕事が入ってから少しして、姉はあからさまに悶々としだすようになった。
私は天野みたいな恋愛感情が分からないとか、夏樹ちゃんの心が何なのか分からないとか、そんな話をするようになった。
それから、私には何もないのだと。
とりわけ姉は、飲み会のノリで性的な話をされるとついて行けないという。
少し前までは紛れもない男性だったはずの夏樹ちゃんが、みるみるうちに美人になっていって、女の色香を自分のものにしていく様を見るのが辛いのだと、よく言う。
……その胸元がたとえ、衣服に覆われていたとしてもまともに見ることができない……
姉の心境が垣間見えると、私はいつも辛くなる。
私、お姉ちゃんのことが好きだよ。
本当は私、パパに虐待されていたの。
レイプされてたの。
だから分かるの、お姉ちゃんは私を好きでいてくれてるって。
お願い、私のそばにいて。
私のこと、きっと気持ち悪いだろうけど……離さないで。
お姉ちゃんが誰にも、恋愛感情を抱けないのは知ってるよ。
そういう話、いっぱい聞いてきたから。
でも、私の片想いは……女で、家族のクセに片想いっていうのは……それだけは許して。
キスしないよ!
レイプなんかしないよ!
手を繋いでデートするのもきっと、しないよ!!
お姉ちゃんが好きだから!
そんな風に言えたらいいのに、私は言葉を喉の奥にしまった。
今まさに、Lシスの大人組による飲み会なのだ。
これも仕事のうちだと思って、いつものツインテール姿になっている自分が情けなくも映る。
「……そういえば……去年の合宿のお風呂ってどうしてたのかなぁ……?」
なな子さんのフリを受けて、「ちょうど一年前か」と懐かしむ姉。
「あれは、性別不明のグラビアアイドルなんて聞いたことなかったから相当怖かったみゅん」
「弓琉(ゆみる)な!? あいつの設定は心臓に悪かったわ。確かに」
「馬鹿ねぇ、そっちじゃないわよぉ」
苦笑するなな子さん……あぁこれは嫌な予感がする。
彼女は酒が入ると下ネタしか喋らない。
「竿付きのことに決まってんじゃん。あれ、本人には悪くて聞けなかったけどさー、あの時点でもう男湯無理だったのかもねぇ」
ズケズケと滑舌のいい声で喋るものだから、周りのメンツはみんな揃って恥ずかしがる他にない。
しかしその「竿付き」という呼び方、あからさまな蔑称に聞こえるのは私だけだろうか。
「いやぁ、だからねぇ、もしかしてもしかしたらとか思ったのよぉ〜。Dちゃんと貸切風呂でチョメチョメしてたんじゃないかってさぁ」
「え!? うっそぉ」
パインサワーを飲んでいた天野セナが目を丸くした。
「Dちゃんさんとですか?」
「そーよ、Dちゃんとよ」
「え? でもなっきゅんセンパイは男だし……ああ見えてセンパイ、童貞で処女って話じゃなかったっスか?」
「ね。あんなアラサーおっさんなんて、普通ならオタク丸出しでダメダメのダメ子ちゃんよ。でも相手は天使のDちゃんよ?」
「はぁ。ってことは……」
さすが、吉良なな子である。
ゴシップ集めが趣味である彼女は、自らの手でゴシップを作り上げることも大好きなのだ。
「あーでも、センパイのことだから感度が鈍そう」
「ひっどいよねぇ。そんなねぇ、三十年も暇があるんならケツまんこでメスイキする練習くらいできただろーよってさぁ」
「うひゃぁーっ!! やめてくださいみゅん!!」
私はこの世の終わりみたいな気分を味わった。
「そ、そういう話、おねーちゃんはとっても苦手ですみゅん! たとえオブラートに包まれてたとしてもやめてくださいみゅん!」
酒でいい感じに緩んでいたはずの体は、一気にこわばった。
「えー? 駄目なのぉ? ボクだってその……ひ、秘められた……愛と薔薇の花園? が男の人にもあることくらい知って……いや、あの人は男なのか?」
「あーもうセナちゃんもやめなさいみゅん!」
「く……くっそ……天野、天野っ……オブラートの包み方が下手くそすぎ……!」
姉は声を押し殺しながら笑っていたが、その内心で傷ついているのだろうなと思うと複雑だ。
「あぁでもいいよねー、朝比奈くんみたいな処女感のあるエロい子って。育てがいがあってモテるでしょうね。男に。でも、おっぱいあるのに竿付きじゃあお風呂に困りそうよねー」
普段よりも飲む量が多いのか、この人妻は私の言うことを聞かない……!
「あの竿、Dちゃんの前でおったったらどうす……」
「あー、あー。めんごですみゅーん!」
私は無理矢理なな子さんの言葉を遮り、姉の腕を掴んだ。
「おねーちゃん気持ち悪そうなんで、ボクちゃん連れて帰りますみゅん!」
あぁしまった、しくじった。
こういう場所にはそもそも、行かない方がよかったのだ。
「クッソあの意地汚いババアめ」
店を出た途端、私は吐き捨てるように言った。
「明里……何も吉良さんのことそこまで言わなくても」
「全く、お姉ちゃんはお人好しすぎなの!」
姉はため息をついた。
「お人好しはどっちだよ。何でこんなデートしてるみてぇな格好になってるんだ」
思わず私は、あっと声が出た。
「……いい大人なんだからさ、あれくらいの話できないと情けないよね」
私が腕にかけていた手を緩めると、姉は苦笑いを浮かべていた。
「オタク丸出しの、アラサーのおっさんって……むしろ私のことだよな。本当……私って何もないな……」
愛とか欲とか、何も分かっちゃいない。
そう言って彼女は、笑いながらも泣きそうな顔をしていた。
「違うもん!」
その様子がどうしても見ていられなくて、私は姉のことを抱きしめた。
家族になってくれると誓った、あの日の姉の真似をして。
「お姉ちゃんは……確かに、他の人と違って恋愛がどうとか鈍いよ。鈍いままだよ。でも優しい人なのは知ってるから! 私のことだって大事にしてくれるの知ってるから!」
「明里?」
「私……お姉ちゃんのことが好きなの!」
でも、本当はお姉ちゃんのことを考えもせずに、手を繋ぎたいとか思っている。
ごめんなさい。
こんなことを姉に望むのは間違っている。
そんなのは痛いほど分かっている。
「……なぁ、手ぇ繋いでみる?」
「え?」
繁華街の光を受けて、彼女の黒髪が揺れた。
「何びっくりしてんの? 手を繋いでデートするくらいはいいじゃないか」
「えっ!?」
「いいじゃん、それくらい。だって、明里は本当の妹だから」
私は涙ぐんで、右手を姉に差し出した。
「明里。抱きしめてくれて、ありがとう」
うん、と、私はただうなずくしか出来なかった。
今だけは。
今のうちだけは。
私たちは両想いなのだと信じていたかった。