社宅の水道

夏に雨が降ると、旭小学校からの帰り道には楽しみがあった。南本町と東本町の間を流れる小川でフナをとるのである。フナは上流のスイゲンチという池から流れてくる。今、池は住宅地に変わり、小川は暗渠になってしまった。

社宅の北、子供たちが幽霊山と呼んで遊び場にしていた小山にコンクリートでできた直方体の構造物があった。私たちは「機関砲の陣地」と噂していた。本当は、トーチカは磯際山にあり、幽霊山にあったのは水道の貯水槽である。水源地から中央小学校の山を経て幽霊山の浄水施設に水が流れ、山頂の貯水槽から社宅街に水が供給されていたらしい。

教科書には「社会保障は、社会保険・公的扶助・社会福祉・公衆衛生からなる」と書いてある。現在、公衆衛生は当たり前になっているが、昭和三十年代まで衛生状態の改善は緊急の課題であった。有年考古館に隣接していた松岡医院の待合室で「トラコーマの罹患率三割」という表を見たことがある。戦前、トラコーマと赤痢は日常的な伝染病で、避病院が各地にあった。こうした感染症が激減したのは水道のおかげである。

相生の公設水道は昭和十四年に相生町が設置した水道に始まる。旭の水道はいつ作られたのか。古老は「昭和六年に引っ越してきたとき水道があった。十軒くらいの共同で、炊事・飲用は水道、雑用は井戸水。播磨造船は社宅を大切にしていた」と話す。今年は鈴木商店の相生進出百周年。鈴木商店がもたらした近代化の一つとして水道を記録しておきたい。写真に撮っておかなかったのが、かえすがえす残念なことである。

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