夏の庭

 じわじわと照りつける太陽。べっとりと肌にはりつくワイシャツの感覚が気持ち悪かった。右手に持ったラムネの瓶を傾けたり戻したり、同じ動作を何度も繰り返す。カラン、カランと瓶の中でビー玉が軽い音を立てて鳴り続けている。
 何かが足りない。
 青々と茂った雑草が微かな風にあおられてざわりと音を立てる。大川の黒い髪が風に流され視界を遮る。言いようのない不安につつまれて、背中に汗が伝っていく。
 「おーい」
遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえる。その声に誘われるようにゆっくりと歩いていく。どこから聞こえたものだろうか。ゆっくりと首を左右に動かし辺りを見渡す。目を細め、何度も瞬きを繰り返すが視界に写るのは変りばえのしない緑の草ばかりだ。
 どこか懐かしい感じのするその声をもっと聴きたくてゆっくりと目を閉じて耳を澄ます。
 カランとまたビー玉の鳴る音がした。

****
 扇風機がふわふわと生暖かい空気を送ってくる。窓から差し込む光につられて、まだ仲良く引っ付いている瞼を無理やりこじ開ける。すでに寝る前に着ていたシャツは汗でベタベタになっていて気持ちが悪かった。
最近の気温の上がり具合には参ってしまう。
 大川はまだぼんやりとした頭のままのっそりと起き上がると、欠伸がひとつ零れ落ちた。ぼやける視界の中、手探りで枕元に置いていた眼鏡を手に取ると緩慢な動作で耳にかける。起き抜けの頭では、思考が上手くまとまらない。ただ、何となく懐かしい夢を見たことは覚えていた。
ぼぅとしたまま携帯の画面を眺めているとそこに表示されていた時刻に、大川の意識は途端にパッと覚醒する。
 このままでは遅刻してしまう。バタバタと慌てて出かける準備をしながら、知らずにため息が漏れる。いつからこんなに朝起きることが辛くなったのだろうか。
昔は、学生時代は朝早く起きることが得意だったはずだ。そもそも駅からすぐ近くのアパートを借りてしまったのも敗因の一つだったと思う。遠くに住んでいたとしても今の生活と大して変わらなかったかもしれないし結局は良いように環境に慣れてしまうものだ。

 絶対に暑いことが分かっているが、ワイシャツに腕を通す。この時点で既に肌に纏わりつくような生暖かさを感じるが仕事だ。仕方がない。何着かハンガーに掛かっているスーツの中からストライプ模様の物を手に取る。ズボンだけ手早く履くと上着は片手にかけて、床に置きっぱなしにしていた鞄をそのまま抱えて走り出す。
 いつもと変わらない朝だった。
 電車を待つ間も容赦がない夏の日差しに首元までしっかりと留めていたボタンを一つ外す。反対側のホームに電車が入ってきて生暖かい風が顔をなでる。
――カラン。
 懐かしい響きを感じさせる音が耳元を掠めて、思わず振り返るがそこには自分と同じように電車を待つ人の姿が見えるだけだった。
 喉元を通るしゅわしゅわとした炭酸の感覚。瓶を傾けた時に鳴るビー玉の音。夏の青さを映したようなラムネの瓶に浮かぶ光の雫。
 夏が来るたびにふと思い出す光景だ。そして、太陽の光に反射してキラリと輝く薄茶色の髪の毛。いつだって大川の前には彼の背中があったのだ。
 自分の待っていたホームに電車が滑るように走ってくる。

 あの夢の中で自分を呼んでいたのはあの人だったのかと思い至った。携帯の画面から連絡先を開くと、あの人の名字を探す。電車がホームに止まり、次々と人が降りてくる。スーッと親指で画面をスライドして文字を流す。その間に降りてくる人は途絶え、電車に乗るために待っていた人たちの群れが大川を押し流す。ぐいぐいと押されるままに乗車する。息を吐く暇もないほどぎゅうぎゅうに詰め込まれた空間に、画面を眺める余裕はなかった。大川は小さく息を吐くと携帯をポケットにしまう。
そしてまた何事もなかったようにあの日の夏の記憶はどこに置き忘れてしまうのだ。

****
「届け物でーす」
 じわじわと体を蝕む暑さにいい加減嫌気がさしていた頃だった。窓の外から絶え間なく聞こえる蝉の声に混ざって、トントンとドアを叩く音の後にのんびりとした声が続いた。
 その声にキャンバスに青い絵の具を塗りたくっていた烏(う)梟(きょう)の手が止まる。
 ――黄色だ。
続けて、おーいと先ほどより少し大きめの声が聞こえた。その声はキャンバスの青色に混ざって緑になった。
集中力の続いているうちに、もう少し進めたかったが仕方がない。木机の上に置かれた小皿の上に筆を置く。重たい腰を上げると烏梟は、すっとカーテンを閉め切っていた薄暗い部屋の大きな窓を開けた。途端、鋭い日の光が目に入り、思わず手を顔の前にかざす。そこから少しだけ体を乗り出すと、階下で暑そうに服の首元をパタパタと仰いでいる男の姿が見えた。日の光に照らされた男の明るい髪色がキラリと光っている。烏梟はその男の姿に向かって今行くーと手を振る。その声はきちんと外にいた相手に届いたようで分かったとでもいうように手を振り返された。烏梟はそれを見とめると窓を閉めて絵の具で薄汚れた作業部屋を後にする。別段急ぐ様子もなく階段を降りると急かす様にドアを叩かれた。一階は絵画や彫刻、古めかしい小物などがごちゃごちゃと置かれている。一応、骨董品店というお店の体をしているが烏梟はあまり商売としては考えていないので、お店として開けていることはほとんどなかったが。
 烏梟がドアノブに手を掛けて押し開けるのと同じタイミングで外にいた声の主はスッと部屋の中に体を滑り込ませた。
「ちょっと勝手に侵入してくるの止めてくれませんかねぇ」
 それに小言を一つお見舞いしてやれば、相手は気に留めた様子もなく両手に抱えた向日葵を掲げて見せた。
「結構、量あるけど自分で運ぶかい?」
にこやかに笑ってそう言うので烏梟は口をつぐむ。自分が極端に面倒くさがりなことが分かっていてのことだ。こう聞けば烏梟が頷くしかないことが分かって聞いているのだ。
「こんな大量の花どうするんだい」
「次の作品に使うんだよ」
 烏梟の指示で二階の作業部屋まで男は花を運ぶ。彼とは大学時代に知り合ってから八年か九年か……それくらいは経っているはずだ。植物のことになると目がない彼の言動は見ていて面白かったのもあり、気づいたら長い付き合いになっていた。男が玄関の前に止めた車と烏梟の作業部屋と行ったり来たり、作業をしている間に烏梟は飲み物を用意する。だいぶ前に貰ったきり冷蔵庫の中で眠っていた瓶の乳酸飲料だ。ガラスのグラスに氷を入れるとカランと軽い音が鳴る。瓶を傾けると白い濃厚な液体がグラスの中へ注がれる。水で薄めるとデザート用の小ぶりのスプーンでくるくるとかき混ぜる。カラカラと氷が小気味いい音を立ててグラスの中で回っている。
「目黒、終わったよ」
 名前を呼ばれ振り返ると作業を終えたらしい男がひょっこりと顔だけのぞかせていた。
「少し休憩しない?」
 飲み物の入ったグラスを見せて烏梟は笑った。男は少しだけ迷う素振りを見せたがすぐにグラスを受け取った。男は仕事中だからと烏梟の勧めた椅子を律義に断るとグラスに口をつけた。喉が渇いていたのだろうか。男は一気に中身を飲み干した。ゴクゴクと喉を鳴らして飲むのが気持ち良いと烏梟は思った。男とは対照的にちまちまと飲んでいると、男はおもむろに口を開いた。
「ところで目黒くん、今日は仕事が終わったあと一杯どうだい」
「別に僕は今からでも全然かまわないですけどね」
「それはこっちが困るんだけど……」
 くいっとコップを煽るような動作をしながら男―加藤は笑った。加藤の言葉に烏梟は軽く目を丸く見開いた。いつも鮮やかな黄色い声を出す男の声が茶色く濁っていたからだ。すぐに烏梟は表情を取り繕うとあえて茶化すような言い方をした。加藤が烏梟に対してそんなことを言うのは珍しかった。加藤は困ったような笑みを浮かべると、トントンと腰のあたりを軽く叩いた。ごちそうさまと空いたグラスを烏梟に手渡すと、彼は終わったらまた連絡をするからとにこやかに手を振ってまた配達に戻っていく。烏梟はそんな加藤の背中を見つめながら小さく手を振り返した。
 何か彼にごちそうできるものがあっただろうか。
 ぼんやりと考えながら流しに飲み終わったグラスを二つ置く。蛇口からはポタポタと水滴が滴り落ちていた。
作業部屋の戻ると彼が置いていってくれた花がきちんと並べて置いてある。ひまわりの花を多めに入れてくれているのは、夏だから、ということだけでなく彼の好みもあるようだ。
 ひまわりに格別の思い入れがあるようだが、目黒はあえてその内容を聞くつもりはなかった。目黒はグッと伸びをするとまだ午前中の間に少しだけ作業をしようともう一度キャンバスに向き合った。

****
「お先でーす」
 次々と帰宅していく人に大川は、パソコンから目を離さずにお疲れ様ですと返事を返す。画面に並ぶ無機質な文字を眺め続けていると気が滅入ってくる。小さく痛む米神を親指でグリグリと揉み込むと少しだけ痛みが和らぐ気がした。別に急ぎの仕事ではないから、帰っても問題はないのだ。ただあの部屋に帰ることに気持ちが進まないだけだ。胸に詰まった重たい空気を吐き出すように大川は大きくため息をつく。これ以上続けていても成果は上がらないだろう。重たい体を引きずるように大川は席を立つと、自然と大きな欠伸が出た。
「帰るのか?」
 向かいの席で同じようにパソコンに向かっていた男が大川に声をかける。大川より一年先輩の彼は物静かで仕事の時以外では自分から話すところを見るのは珍しかった。大川もあまりおしゃべりなほうではないので、彼の間というか雰囲気は嫌いではなかった。彼の問いに大川は、簡単に返事をすると逆に男に向かって聞く。
「先輩は、まだ帰らないんですか?」
「んー、まぁ、今やってるのだけ終わらせようかと」
 歯切れの悪い男の答えに大川は静かに笑った。
 時々思うのだ。いつから自分はこんなにつまらない人間になってしまったのだろうと。いや、もっと前から自分はつまらない人間だったかもしれない。電車には乗ったものの真っ直ぐ帰る気にもなれなくて、大川は自分の自宅がある最寄り駅よりも一つ手前で下車した。気分のすぐれない日はいつもそうするのが、決りごとのようになっていた。
 すっかり日の暮れた空が真っ黒に塗りつぶされている。いくら空を見上げても星は一つも見えなかった。別段なにがあったわけではないのだ。仕事で失敗したとかプライベートで落ち込むことがあったとかそういう何か特別なことがあったわけではないのにたまに無性に寂しい気持ちになってしまう。ぼんやりと空を見上げながら歩いていたからだろう。肩にドンと軽い衝撃が走った。
「すみません」
 謝られた声で、誰かにぶつかってしまったことに気づいた大川も慌てて頭を下げて謝罪をする。
「ぼんやりしていたので、すみませんでした」
 そう言って顔を上げた時、腰までもある長い髪が目についた。女の人かとも思ったが、かっちりとした体格を見るに男性のようだった。大川が不思議そうにしているのを気づいたのだろう。男は両手を広げて、なにか付いているかとこちらに聞き返した。その時に、男の持っていたビニール袋がカサリと音を立てた。
「いや、そういうわけではなくて……すみません、ジロジロ見てしまって……」
 大川が慌てて両手を振って弁解するのを見て、男は可笑しそうに笑った。
「何か悩みごとかい?」
 不意に聞かれて大川は、間の抜けたような声を漏らす。こんな道端で偶然ぶつかった他人に心配されるほどに思いつめた顔をしていただろうか。自然と目線が足元に下がる。唐突に訪れる沈黙が耳に痛かった。ふっと息を漏らす音が聞こえ顔を上げれば、男が肩を震わせて笑っていた。これは、からかわれたのかと大川は分かりやすく不機嫌な表情を浮かべる。
「ごめんね、いや、ほんとに悩んでたんだなぁと思って」
 目元に浮かべた涙を拭いながら男は謝るが、大川には少しも悪いと思っているようには見えなかった。
「人のことをからかうのはやめていただけませんかね」
「うん、うん、ごめんね」
 男はまるで大川のことなど気にしていないとでもいうようにひらひらと片手を振った。フッと鼻を掠めるタレの匂いに大川はごくりと喉を鳴らした。彼の下げているビニール袋から香ったものらしい。この男と会うことは初めてなはずなのに、どうしてか懐かしいような気持ちになった。ぐぅと小さく鳴った大川のお腹の音を聞きつけたのだろう。男はふわりと笑うと一緒に食べるかと言った。
 まさか。大川は、会ったばかりの人間と食事を共にすることなど考えられなかった。丁重に誘いを断れば、男は眉を下げ、残念そうな顔をする。けれどすぐに表情を変えると男は懐から名刺サイズの小さな紙を大川に向かって差し出した。
「気が向いたら、いつでも遊びに来てちょーだいな」
男は軽く片目をつぶるときっと面白いものが見られるからと楽しそうに笑って言った。
 するりと男は大川の隣を抜けると軽やかな足取りで歩いていく。男の長い髪が歩く度に左右に揺れるのを見つめる。まるで、術にでもかけられているようだ。男の姿がすっかり見えなくなった後、大川は手元に残させた名刺を見た。フクロウの絵が描いてある可愛いデザインが施されていた。
「なんだったんだ……」
 大川はパチパチと瞬きを繰り返し、何度もその名刺を見返す。別になんてことはない。お店の名刺だ。けれど大川はそれがなぜか特別なもののように感じた。手触りのいいそれの感触を何度も確かめるように指でなぞる。
 はぁ、と息を吐くとふと視線が上に向く。どれだけ見上げても見つけることが出来なかったはずなのにいつの間にか星が一つ出ていた。大川は片手を顔の前にかざすとその小さな星を掴むように手のひらを閉じた。結局、その小さな光は手のひらをすり抜けていくのだけれど。それでも先ほどよりは寂しくないと大川は思った。

#小説

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