平成の終わりに、私は新しい世界に行きます

天皇が生前に退位し、平成が終わる。明日からは令和元年になるのだ。そんなめでたい時に私は約2年間パートタイムで務めた会社を退職し、社会復帰を果たした。2015年7月23日、この日は私の中で最も辛い日であることを記憶している。

どういうわけか右側の足と手が動かなくなり、痙攣発作が起こった。休憩に行く時だった。あんまり覚えていなかったが利用者も他の人たちも驚いた中で救急車に乗ったことは覚えている。気づけば病院で管に繋がれていた。

家族の誰も手術歴はなく、入院したのは妊娠の時くらいという母にとって私の緊急搬送など予想もしなかった。そもそも朝なんて呑気にサンホラのMoira序曲「冥王」を歌いながら職場に行った位で、私の変わりようを見て真っ青な顔をしたのは覚えている。

右半身がまったく動かず痙攣を起こし喋ることも出来ない私の初見は「脳梗塞」だった。搬送先は脳外科だった。母の前に出されたのは「MRI検査の同意書」と「入院の同意書」だった。脳梗塞の初期段階、もしかしたら後遺症は残るかもしれないみたいな事は言われたらしい。母は絶句しながら書類を書いていた気がする。

MRI検査では異常なしだった。しかし痙攣発作は止まらずステーションのすぐ近くの部屋に搬送された。もちろん要見守り/要注意患者として私は強制的に個室に入院する事になった。神経外科の先生が来るまで入院の運びになった。社会人としてスタートを切った1年経った頃の話だ。

その神経外科でも異常なしで、此処からは地獄のような日々が続いた。

体が動かない。鉛のように重い。朝も起きられない。起きてすぐ倒れる。車の運転がままならない。とうとう嘔吐症状まで出るようになった。

どの科に掛かっても長らく原因不明なまま、最後の頼りは心療内科だった。紹介状を書いてもらい、心療内科に駆け込んだ。

神経外科によると「てんかん」に物凄くよく似た、専門家でもてんかんと誤診しやすい「心因性似非てんかん」通称「PNES」だと判明した。てんかんとよく似て発作が発生し意識を喪う症状がメインだが、違うのは神経外科では異常が出ない。だから正式に判断が下るまで時間がかかるようだった。その原因はストレスによるものやトラウマ、らしい。

しかしてんかんとまったく一緒なのは、この症状は原則治らない、という事だった。いくら病気に理解があれど発作がいつ起こるか分からない人間を雇う人はそういない。半年耐えたが日に日に症状は重くなり、退職せざるを得なかった。しかし、休職するにはお金が無い。働くしかない。しかし治らない。

身嗜みは雑になり、清潔さには興味が薄れ、家はゴミだらけになった。来客がいようと片付けする気力もわかず、辛うじて食べた食器は水道に持っていく、という堕落っぷりだった。

それでも絵は描いた。本は作った。同人誌は作った。私をつなぎ止めていたのは創作活動だった。働き、遊び、楽しむ周りを憎らしく思い、健康な人間には戻れないという絶望を嘆きながら、それでも私は健康な人間と同じように生きる事を選んだ。

健康な人間からは「そんなことも出来ないの?だらしない」と蔑まれ、理解があるはずの障がい者からは「世に出て働くお前は幸せなんだ」と排斥され、どこにいっても私の居場所はなかった。誰からも理解されず、職も失い、歳と借金だけが膨らんだ。転機がきたのは、これまた不思議なことに2016年7月10日。長年住んだ借家の取り壊しが決まり、立ち退きを余儀なくされた。そして引っ越したのは今のマンションだった。母はこう言った。

「ここは絶対に守る」と。

母の好みのインテリア、配置、小物までこだわり、徹頭徹尾綺麗にする事を心がけた。私は相変わらずゴミだらけの部屋で過ごしていたが定期的に部屋に手を入れられた。私も要らないものは捨てた。着れない服も破れた下着も全て捨てた。

そしてコンビニでバイトし、私は自分には販売員の適性があることを知った。

そして、気づけばよく買い物に行くスーパーで働きながらそこを社会復帰の場にしよう、と決めた。

それからも発作は治らなかったが朝起きる事は出来るようになり、発作は止まらなかったがとにかく通ってレジを打つために踏ん張った。

そして、2017年7月、飲んでいた薬が全て外れた。

Twitterでも新たな関わりが増え、楽しく日々を送っていた。

それでも人間関係は上手くいかず傷ついたが、前みたいに人を妬むことはなくなった。

激怒するくせは未だ治らず感情表現の下手さは相も変わらずである。相変わらず人の無理解さを恨み、引きずる人間だが感謝の気持ちは忘れないよう戒め直している。まあよく失敗するけど。

そんな令和に、3年半振りに正社員としてスタートを切ろうとしている。3年半、気づけばアラサーに片足を突っ込んでいる。誰に理解されなくとも構わない。誰の理解も求めない。私だけが私を信じていれば。それも時々忘れがちだけど。

完治しない、治らない、そう言われたあの日からはや3年。気づけばいろんな人が私の傍らにいたような気がする。気づけば創作活動も2桁代を記録し、絵もそれなりにうまくなっていった。

好きなものを好きでいる為に、私は仕事する。人とそんなに付き合わなくていい。人付き合いがそもそも苦手で他人に興味が無い。これが、もっと普通だと知っていればよかった。そうしたらもっと早く終われたかもしれないが我を張ったから得たものがある。

さよなら、平成。ようこそ、令和。

そんな令和に、私は新たな世界に旅立ちます。