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選択と集中から対話的分散へ。

※これは毎月アサザ基金の会員さんに限定してお送りしていた
会報の一部を、みなさまに「特別に」公開しております。

今回の投稿を通して、
伝えたいメッセージはまさに…

「コロナ時代を生きる」上で重要な

「社会はどのように変わるのか」という問いに
向き合うための知恵の一つとも言えるでしょう。

飯島代表が、思想家だなぁと思うのは、
1995年のアサザプロジェクトを地域の方とはじめた時から、

「選択と集中から対話的分散へ」の転換を
社会に提案していたためです。

それは、アサザという中心を持たない植物を、
プロジェクトの一つのシンボルや指標に置くことで…。

さてさて、前置きはこの辺にして、
飯島さんのコラムをご紹介します。


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「選択と集中から対話的分散へ
  ~より小さくより深くより広く~」


 選択と集中から分散へと、私たちの文明は大きく舵を切らざるを得ない状況に立たされています。変動の時代を迎え、近代文明を支えていた集中化や画一化、均質化といった発想が抱えていた脆弱さやリスクが方々で露呈してきたからです。求められているのは、分散による混沌や混乱ではなく、新たな対話と創造をベースとした対話的分散です。そのような分散による社会のイメージを私たちは残念ながらまだ共有することができていません。そのような課題意識を基にアサザプロジェクトでは、発足当時から「自然のネットワークに重ねるための分散した多様な個によるネットワーク」の具体化を模索し続けてきました。

 自然との共存のみならず、過度の集中や集積が進む都市が抱えるリスクからの脱却も含め、私たちが求め続けてきた「分散した多様な個によるネットワーク」の実現がますます求められる時代になったと実感しています。分散をベースに思考を重ね、何か全く新しいものを創造する時代が、世界の様々な分野で始まりつつあります。分散の思想、あるいは脱集合の哲学は、AIやビッグデータ、情報管理による人間の情報化数量化に対抗するパラダイムとして、私たちの人間性を支え続けると思います。

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 アサザプロジェクトは、今年で25周年を迎えました。私達は、霞ヶ浦の再生を目指して様々な人達や組織と様々な取り組みや実験を行ってきました。その中で、気付いたことは、霞ヶ浦の再生には湖に現れた結果(現象)への対処や対策をいくら重ねていっても、根本的かつ持続的な解決には至らないということです。霞ヶ浦で起きている出来事(水質汚濁やダム管理による生物多様性の低下など)の原因は、霞ヶ浦の面積の10倍の広さを持つ流域、つまりそこに在る私たちの社会のあり方にあるという事実から目を逸らすことはできないという現実です。

 霞ヶ浦の流域は約2200㎢もあり、幾つもの自治体や省庁が管轄し、複雑な社会的要素(縦割り)によって覆われています。このような社会のあり方を大きく変えていくのは確かに簡単なことではありません。もちろん、環境という分野に留まっていては不可能です。様々な縦割りの壁を超える新しい発想を生み出すことが不可欠です。私はそのような場となるのが、真の政治だと考えます。(政治屋の政治では縦割りの枠の中で上手に泳ぐことしかできません。縦割りの壁は越えられない=現実的対応=諦めによる合意形成への誘導。今の政治はこのような諦めの意識によって支えられていませんか。)

 変革(真の政治=生きるための政治)は不可能だと諦めれば、霞ヶ浦で次々と起きる出来事への対処や対策を講じること(影響緩和や対症療法)しかできず、霞ヶ浦を本当に再生に導くことも望めません。そのような発想から生まれたのが、霞ヶ浦に那珂川の水を地下に造った50kmの導水管で送り、汚れを薄めるという導水事業です。このような諦め(総合化の断念、縦割りの限界の共有化)は、霞ヶ浦の問題以外にも多くの社会的な課題や問題への対応に反映されていると思います。社会の真の危機は、政治屋政治や官僚主義、専門家らが抱える(依存する)限界を、人々が現実的な対応と納得して共有してしまうことにあります。

広大な流域全体を覆う社会全体から、自然が作る複雑なネットワーク(水系)を通して様々な汚れや矛盾(広域に分散した多様な問題課題)が一カ所に流れ込み、環境問題(深刻な結果)として顕在化する場こそが、霞ヶ浦です。

霞ヶ浦の抱える問題の本質は、まさに集中と分散という二つの構造の間における意識の分断と政策の分離にあります。霞ヶ浦の再生には、集中と分散を繋ぎ新たな構造変革(壁を溶かし膜に変える)を促す発想や取り組み(真の政治)が必須です。

 アサザプロジェクトは霞ヶ浦に集約され顕在化される問題の解決に向け、流域に分散する多様な水源地谷津田のネットワークに着目した取り組みを行ってきました。25年間の経験を経て、私たちは更にこれらの谷津田に面した農村集落のコミュニティ機能を生かした霞ヶ浦再生のネットワークを展開し始めています。谷津田に面した集落の多くは、過疎化が進み空き家や耕作放棄地、放置竹林、森林荒廃などが増加の一途をたどっています。谷津田や里山の維持管理を行ってきた集落コミュニテイの崩壊は、そのまま霞ヶ浦の水源地ネットワークの崩壊にも繋がっていきます。集落の機能を維持するためには、新たなコミュニティ(共同体)の創造が必要です。そのために不可欠なのは、新たな人と人との繋がりのあり方の模索です。

 アサザプロジェクトでは、これまで多くの企業や各種団体と協働で、これらの谷津田に位置する集落の人達と都市住民との交流の場を作り、霞ヶ浦の水源地再生事業を行ってきました。これらの取り組みから更に、集落が抱えている問題や課題にも積極的に関わり、コミュニティの再生と水源地の再生が一体化した取り組みへと発展させていきたいと思います。空き家になった古民家を地域の中学生や住民と協働で再生して、コミュニティと水源地の再生を行う拠点にする取り組みが、すでに動き出しています。このような取り組みを「より小さくより深くより広く」流域全体に広げていきます。

 集中と分散という二つが隣接する構造は、首都圏でも顕著です。一極集中が進み過密化の極に達した都市部とその周辺を囲む自然条件をベースに立地し分散する農村部(過疎地)がそれです。集中によって引き起こされる問題やリスクを、分散した構造とリンクさせることで緩和させ、さらに解消していく構造変革を、都市と農村を結び付ける発想や取り組みによって実現することはできないか。しかし、集中と分散という二つの構造の間における意識の分断と政策の分離がここにもあります。集中と分散を繋ぎ構造変革を社会に促す発想や取り組み(真の政治)がここでも求められます。

・都市と農村を繋ぐ、
 分散した多様な個によるネットワークで都市災害に備える

 今後30年以内に70パーセントの確率で、首都直下型地震が起きることが想定されています。最悪の場合、死者2万3000人、全壊または焼失する建物は61万棟、避難者は720万人と予測されています。都心部では電気や上下水道などのライフラインや交通への影響が長期化することも想定されています。その場合、大規模な避難者の受け入れはどうなるのでしょうか。地震だけではなく、巨大台風による大規模洪水や感染症蔓延による大規模な避難も想定もされています。

 私は、このような災害が発生する前から、都市の周囲に分散して存在する農村集落との交流を都市住民が積極的に行い、都市住民が農村の抱える問題や課題と一緒に取り組むことで関係を深め信頼を育みながら、空き家などを活用した避難場所の確保を進めていく政策を実現していきたいと考えています。空き家を拠点に、化石燃料や電気に頼らず水や燃料、食糧等が災害時にも安定的に確保できる里山の循環的な暮らしの場を、都市と農村の人達が恊働で、霞ヶ浦の水源地谷津田や森林の保全再生活動を行ないながら作っていく計画です。

 都市と農村に暮らす人々が、互いに抱える課題やリスクを持ち寄り、互いの違いを生かし、協働で問題課題に取り組む。そのような関係づくりを霞ヶ浦流域の水源地に位置する多くの集落と都市の間に実現できれば、それらの繋がりが自然のネットワーク(自然との対話)上に展開し「集中の世界」に変化を及ぼし、分散の思想へと発展するかもしれません。


・共同体という問いに向けて開く

 アイデンティティを軸にした回顧的な共同体へでなはく、生存の基盤である「生きること」「対話すること」をベースにした新しい共同体の潜在的可能性「到来する共同体」(ジョルジョ・アガンベン)へと、世界は模索を始めています。災害という緊急事態に置かれた人々は、様々な所属や違いを越えた「生きる」という最もシンプルな基盤の上で繋がる共同体を意識するようになります。しかし、非常事態における共同体意識は、政治に利用される危険を孕んでいます。私たちは二度とファシズムや全体主義といった「集中の思想に陥った過去の誤ち」を繰り返してはなりません。

 共同体は、私たちにとってひとつの問いです(ナンシー「無為の共同体」)。共同体にも、集中(同化)と分散(多様化)というふたつの構造が拮抗し合い併存しています。過度の集中は独裁政治に、過度の分散は無政府状態に陥ります。しかし、集中と分散をめぐる選択や折り合い、バランス取り、調整といった従来の政治的発想では、世界は「失われた共同体」(偉大な○○)への回帰運動や、テロリズムのグローバル展開によって顕在化した閉塞状況混乱状況を打破することはできないでしょう。

 そのような中でも、環境問題への危機意識の広がりによって、人々は地球規模での共同体を意識し始めました。ひとりの少女の声(雄弁に語られる言葉よりも切実な、生きるために発せられた声)が、世界中に響き渡り大きな共感を生みました。そして、大国の指導者や有力政治家が彼女を次々と批判しました。
 世界は深い所で大きく動き始めています。より小さく(ひとりひとりの掛け替えの無い生に帰り)、より深く(ひとりひとりの実存に帰り)、より広く(ありのままの生で人々が繋がる対話へ帰り)、そのように人が在ることで、集中と分散が結び付き、共同体という問いに向けて開かれた、生きるための政治が、そのための哲学がいま必要です。

 重要なことは、巨大な問題や危機と向き合うに当たって、選択と集中、組織やシステムへの依存という発想から脱却し、一人一人の人の実存や人と人との対話に場を戻す意識転換です。より小さくより深くより広く。それこそが、複雑かつ巨大な問題を解決へ導くのに必要な鍵「分散した多様な個によるネットワーク」の持つ意味だと確信しました。

 集中から分散へ、けれども決して混沌や混乱には向かわない。世界には対話的分散と自然のネットワークに重なる分散の思想が少しずつ芽生え始めていると信じるからです。

分散の時代を創造的に生きる新しいひとびとよ、目覚めよ!

2020年1月31日
認定NPO法人アサザ基金代表理事 飯島 博


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いかがでしたか?

私は、昨日黒澤明監督の『生きる』という映画を観ました。
そこで「何をもって生きるのか」について考えたことがあったので
共有させてください。

映画の簡単なあらすじは、
市役所の課長が自身が癌であることを知り、
余命を知ってから「生きる」ことを意識し始め、行動を起こしていく、
というような内容です。

映画に、

「不幸は人間に真理を教える。
 あなたの胃がんはあなたに人生に対する目を開かせた。」


というセリフが出てきます。


現代には、環境問題も含めた社会問題が多く存在しています。

『生きる』でも明らかだったように、
多くの人間は不幸にならないと、真理に気づくことができません。

しかし、社会問題がたくさんある社会であるからこそ、
これを逆手にとって、
それに気づく、なんとかしようとする人同士で新たな共同体をつくる。

そして、その共同体を中心に
社会問題に向き合う、
日常を問いただす、
それができる「時代」に到来しているのだと考えました。

みなさんは、このコラムを読んで
どのような考えを思いつきましたか?

考えたことや思ったことがあれば何でも、
コメント欄に書いていただけると幸いです。

【編集者】アサザ基金広報担当 清水回

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