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日本で最初のタイ人サッカー選手、ヴィタヤ・ラオハクルを知っていますか?

今年1月に開催された東南アジアサッカーの祭典、AFFスズキカップ。タイ代表はグループステージを全勝で突破し、勢いはそのままに4年ぶりの優勝を果たした。

その大会のMVPに選ばれたのはチャナティップ・ソングラシン。
2017年からJリーグでプレーする彼はこの大会後、Jリーグ王者川崎フロンターレへの移籍が発表された。移籍金は国内史上最高額とも言われる。

チャナティップとダブルで得点王に輝いたティーラシン(元清水エスパルス)、横浜F・マリノスでリーグ優勝を果たしたティーラトン、ベルギー1部からコンサドーレ札幌へ期限付き移籍の経験があるカウィンなど、タイには日本と関わりの深い選手が多く、Jリーグでプレーをする選手というのはタイ国内でも憧れと尊敬の対象となっている。

彼らの存在はまさに日本とタイのサッカー界の架け橋といえるが、さかのぼること40年前、日本でプレーした最初のタイ人サッカー選手をご存知だろうか?

彼の名はヴィタヤ・ラオハクル。

Jリーグの前身、日本リーグ時代にヤンマーディーゼルサッカー部(現:C大阪)、松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)でプレーし、Jリーグ開幕後はガンバ大阪のヘッドコーチや、ガイナーレ鳥取の監督を勤めた人物だ。

ヴィタヤ・ラオハルクの経歴

ヴィタヤ・ラオハクルは1954年、タイ北部のラムプーン県で生まれた。兄2人もサッカー選手という家庭で生まれた彼は、18歳の時にタイのサッカークラブで選手としてのキャリアをスタートさせ、程なくしてタイ代表にも招集されるようになった。

日本で最初のアジア人選手に

転機は22歳のとき。
マレーシアで行われた国際大会・ムルデカ大会で2ゴールの活躍を見せた彼は、対戦相手の日本代表・釜本邦茂に誘われヤンマーディーゼルサッカー部に加入、タイ人としてだけでなくアジア人として日本でプレーした最初の選手になった。
日本リーグでの登録名は『ビタヤ』。ヤンマーに在籍したのは1シーズンのみだったが、中盤の選手ながら33試合に出場し14得点を上げた。

ヨーロッパで最初のタイ人選手に

その後、ヴィタヤは欧州スカウトの目にとまりヘルタ・ベルリンに移籍。ドイツ(当時は西ドイツ)へ渡り、ヨーロッパでプレーした最初のタイ人選手となった。日本と違いドイツでのキャリアは必ずしも順調な滑り出しとは言えなかったようだが、徐々にポジションを獲得しFCザールブリュッケンの昇格に貢献するなどした。

再び日本リーグへ復帰。指導者としてのキャリアをスタートする

ドイツで5年、タイで1年のプレーを経て、ヴィタヤは1986年に松下電器産業サッカー部へ加入。再び日本リーグへ復帰する。同チームではヘッドコーチを兼任し、1990年の引退以降も指導者として8年間に渡りチームに残った。
ちなみにヴィタヤは日本でのキャリアの多くを関西で過ごした影響で関西弁に堪能である。

ガイナーレ鳥取の監督に就任

帰国後、タイリーグ、タイ代表、アメリカやシンガポールで経験を積んだヴィタヤは、2007年に再び日本のガイナーレ鳥取(当時のJFL)の監督に就任する。成績不振で解任された前監督の後任という形で就任したヴィタヤは初年度こそ14位で終わったものの、続く2-3年目は5位でシーズンを終え、チームにポゼッションサッカーを根付かせた。

そして4年目。この年も続投予定だったヴィタヤは、オフシーズン中に交通事故で脊髄損傷の大怪我を負ってしまう。リハビリは長引き、クラブはシーズン前にヴィタヤの辞任を発表した。シーズン直前に監督が辞任という困難がありながらも、そのスタイルを引き継いだクラブはこの年悲願のJリーグ昇格を果たしている。

現在

ガイナーレ鳥取の辞任後、ヴィタヤは母国タイで監督として復帰し、タイリーグ1部・チョンブリーFC、そしてタイ代表のテクニカル・ディレクターを現在まで務めている。西野朗氏がタイ代表監督になった背景には、ヴィタヤの熱心な後押しがあったことはよく言われている。

ヴィタヤの功績

日本人を知り尽くした人材起用

日本リーグ時代からJリーグへの過渡期、そして日本サッカーが成熟期を迎える2000年代後半。ヴィタヤは日本サッカーの歴史を「当事者」として味わってきた唯一のアジア人と言える。

その影響は母国でテクニカル・ディレクターにまで上り詰めたヴィタヤの指導者選びにも現れており、日本人を高く評価する彼は西野氏のみならず数々の指導者を自分のチームに迎え入れている。

それと同時に、日本、タイ、ドイツ、アメリカと数多くの国を渡り歩いてきた彼だからこそ言える、日本人選手に対する鋭い洞察も忘れてはいけない。

ディシプリン(規律)はいいけれど、頭を使わないと。サッカーは目の前の絵がどんどん変わる、次の瞬間には違うことが起こるんだから。

https://number.bunshun.jp/articles/-/822111

これは2009年ガイナーレ鳥取時代の発言だが、今の日本サッカーにも同じことが言えるのではないだろうか。

タイサッカーへの貢献

また、タイサッカー界への多大なる貢献も忘れてはいけない。ドイツでのプレー時代、ヴィタヤはタイ代表に合流するたびに母国と世界とのサッカーに対する姿勢の違いに苦しんだという。

厳しい練習についていけない、時間を守れない、メンタルが弱い…タイでプレーする選手たちの態度はドイツでハングリー精神を持って戦っている自分とは大きなギャップがあった。

そういった背景もあり、指導者としてタイ・チョンブリーFCに復帰したあとの彼はコーチングに関する本の執筆や育成年代の選手の発掘に力を入れた。その甲斐もあり、2019年チョンブリーFCがリーグ優勝を果たした時の選手は8割が下部組織であるアカデミーの出身だった。
現在に至るまで、ヴィタヤは代表そしてクラブでその手腕を奮っている。

第2、第3のヴィタヤになる選手は?

タイ、日本の両国で活躍し引退後も双方の強化に尽力するヴィタヤ。あとに続く選手がアジアサッカーのレジェンドから学ぶことは非常に多い。現在日本で素晴らしい活躍を見せるアジア人選手たちの中から、ヴィタヤのような選手が誕生することに期待したい。

<了>



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