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恋愛伴侶規範(の有害さ)について

 こんばんは。夜のそらです。
 今回は、以前ご紹介した「恋愛伴侶規範(amatonormativity)」について、より詳しくご紹介したいと思います。
 ちなみにこれが前回の記事です。↓↓

 いま読み返してみると、この記事 ↑ は少し欲張りすぎたかもしれません。ブレークさんのブログを参照しながら、『結婚を最小化する』での定義を紹介して、さらに amatonormativity を「性愛規範性」と訳すことがなぜ間違っているか指摘したりなど、中身がてんこ盛りでした。
 その反省を生かして、今回はもっとシンプルに「恋愛伴侶規範」の紹介をしたいと思います。そして同時に、なぜそれが有害なのか、またどのように有害なのか、順を追って説明したいと思います。

0.恋愛伴侶規範とはなにか

 今回の記事でも、ブレークさんの公式ブログの「Amatonormativity」の項目に基本的に準拠します。そして今回は、論文や著作の引用(翻訳)は控えたいと思います。詳細で厳密な定義は、先ほど ↑ の記事で解説したので、わたしの「まとめ」ではなくブレークさん自身の精確な説明が読みたい方は上の記事をご参照ください。
 まず、これが公式ブログです。

 このブログによれば、「恋愛伴侶規範」とは、「長くつづく二人っきりの恋愛関係を誰かと構築することで、人間は人間として花開くのであり、それこそが万人の目指す幸せだ」という、広く行き渡った考え方、またその考え方に基づく圧力のことを指します。
 この「恋愛伴侶規範」の説明は、いくつかの要素に分解できます。

1.恋愛関係は特別なものである
2.恋愛関係は1対1のものでなければならない
3.恋愛関係は長く続かなければならない
4.恋愛関係は人の成長の証である
5.恋愛関係こそが人間を幸福にする

 これから、この5つの要素について、それぞれブレークさんのブログ記事を土台にしつつ、解説していきます。ただし、わたしはブレークさんの『結婚を最小化する』という本を読んでいますし、恋愛伴侶規範という言葉によって積み重ねられてきたAロマ(+Aセク)コミュニティの考え方にも長く親しんできました。そのため、必ずしも公式ブログの記載の範囲には収まらないことも書くと思います。ご了承ください。

1.恋愛関係は特別なものである

 みなさんは、誰かと恋愛したことはありますか?また、誰かと恋愛関係を構築したことはありますか?例えば、付き合ったり、結婚したり。
 それではみなさんは、誰かと友達になったことはありますか?親友と呼べるような人は、いますか?いたことはりますか?
 では、聞いてもいいでしょうか?「恋人」と「友達」って、どっちが大切ですか?? 

 ……ひどい質問だ、と思うかもしれません。人間関係に序列をつけるなんて。大切な人たちにランク付けするなんて。そんなのひどい、と思うかもしれません。恋人も友達も、どちらも違った意味で大切なのだ、と皆さんは考えるかもしれませんね。
 でも、落ち着いて考えて欲しいのです。私たちの社会には、恋人との恋愛関係こそが他のあらゆる関係/あらゆる活動よりも優先されるべきだ、という考えが満ちていないでしょうか?
 例えば、あなたが友達と映画を観に行くとします。その友達は恋人と同棲しています。あなたは、ふと尋ねます。「今日は同棲してる恋人は大丈夫なの?」と。こうした質問は、ごくありふれたものだと思います。しかし、よく考えてみてください。どうして、友達と同棲している恋人のことを、あなたが気にしなければならないのでしょうか?
 あなたはそこで、本当は「恋人のことを放っておいてわたしと映画なんか観ていて大丈夫なの?」と尋ねているのです。そして、あなたはそこで、知らず知らずのうちに、恋人の方が友人である自分よりも大切でなければならない、そうであるはずだ、という考え方を内面化してしまっています。これが、恋愛伴侶規範です。
 そこで友達が「恋人は家で退屈しているよ。わたしと映画を観たいと言っていたけど、あなたを優先したよ」と答えたとしましょう。あなたは一気に自責の念にかられるかもしれません。申し訳ないことをした、と。あるいは逆に、「友達の恋愛関係はうまく行ってないのかも…」と考えたりもするかもしれませんね。しかしどちらも同じ、そこには恋愛伴侶規範が隠れています。
 もう1つの例を考えてみましょう。あなたには成人した息子がいて、その息子が大みそかに自分の家に帰省して来るとしましょう。あなたは息子の帰省をとても楽しみにしています。そして今年は特別、あなたの息子は「大切な人を紹介してもいいかな」と言うのです。息子は、ひとりではなく大切な人を連れて、親である自分に会いに来てくれるのです。
 そうして息子が連れてきたのは、息子のゲーム友達でした。オンラインゲームで知り合って、今ではリアルでも毎週のように遊んでいるようです。すっかり意気投合しています。
 あなたは、びっくりするかもしれません。なぜ、わざわざ「友達」をわたしに紹介するのか?と。「大切な人」というのだから、恋人だと思っていたら、なぜ「友達」なのかと。息子はその友達が実家に泊まるものだとすっかり信じていますが、あなたは息子の気が知れない、と思うかもしれません。どうして「友達」を、それも「ゲーム友達」を、うちに泊めてやらなければならないのか、恋人ならともかく……と。
 これも、恋愛伴侶規範です。「大切な家族」に紹介するに値するのは「大切な恋人」であり、「大切な友人」はそれには値しない、と。私たちの社会の多くの人は何となく考えています。
 ここでは、恋愛関係と友情関係を比較しました。しかし、恋愛関係が大きな顔をして他のものを押しのけるのは、友情関係に限ったことではありません。
 例えばあなたはとても疲れていて、自分の好きなミュージカルの舞台のDVDを観てメンタルを回復させる必要があります。そこにあなたの恋人が連絡をしてきて、今から会いたいと言います。あなたはDVDを観たい。でも恋人は「自分とミュージカルDVDどっちが大切なの?」と不機嫌になっています。困った恋人だと思います。でも、そうした「恋人である自分と…どっちが大切なの?」という話法は、とてもよく目にするものです。
 そう、これも恋愛伴侶規範です。恋愛のパートナーは、自分にとって他の何よりも大切にされるべきであるという困った規範が、世の中には満ち溢れているのです。
 恋愛伴侶規範は、私たちが大切に思うさまざまな人間関係や、私たちが生きていくうえで欠かせない色々なものを、ブルドーザーのように蹂躙していきます。恋愛さまのお通りだ、というわけです。これが、恋愛伴侶規範の1つ目の有害さです。

2.恋愛関係は1対1でなければならない

 日本では、重婚って禁止されていますよね。「先進国」と呼ばれる多くの国で、重婚は禁止されています。西洋近代文化のフォーマットを受け入れた国の殆どでは、結婚とは1対1のものなのです。
 これは、法律の話。でも法律とは関係なく、そもそも恋愛関係って、暗黙のうちに「1対1」だと信じられていますよね。
 再び、考えてみましょう。あなたの親友が「恋人を紹介したいからうちに遊びに来てほしい。いま同棲してるんだ。」と連絡してきたとしましょう。あなたはデパ地下でそれなりに高いお惣菜とワインを買って、親友の家を訪ねます。家の中に待っていたのは、親友と、3人の知らない同居人でした。あなたは確認します。「どの人と付き合ってるの?」と。
 答えは、全員です。4人はポリアモリーな実践をしていて、もちろんお互いに同意のうえで、ポリーな関係を構築しているのです。
 あなたは、びっくりするかもしれません。何が起きているのか理解できないかもしれません。もしかしたら、あなたは親友が「浮ついた」人間だと思うかもしれませんし、場合によっては「そんなに性に放埓だったのか」と感じるかもしれません。あるいは、3人もの相手を同時に恋人として大切にするなんてできっこない、と憤慨するかもしれません。
 ここにも、恋愛伴侶規範が隠れています。恋愛感情を同時に2人以上の相手に向けることはできない。恋愛関係は1対1のモノアモリ―でなければならない。多くの人がそう信じています。しかし、何の根拠があってそんなことを信じているのでしょう??
 ポリアモリーを「だらしない/真剣でない」と決めてかかるのも、そうした無根拠な偏見のひとつです。恋愛のパートナー(伴侶)は1度に必ず1人でなければならない。そうして1対1のカップルだけが、この世で唯一祝福される関係なのだ、と私たちの社会の多くの人が信じています。でも、その信念には根拠がありません。まるで意味不明です。
 そう、それは誰もが無根拠に受け入れてしまっている規範のなせるわざ、恋愛伴侶規範の仕業です。恋愛伴侶規範が、ポリアモラスな恋愛/性愛関係を実践する人たちを社会の中で周縁化し、そうした人たちが作りなす関係性を不当に「価値の低いもの」へと貶めているのです。「1対1カップル」以外にありうる無数の恋愛感情・恋愛関係がこの世から抹消され、また抑圧され続けているのです。これが、恋愛伴侶規範の2つ目の有害さです。

3.恋愛関係は長続きしなければならない

 恋愛感情って、なんだか激しい感情だということになっていますよね。ドキドキ?キュンキュン?でしょうか。燃えるような感情、と形容されることもありますね。
 しかし、とても不思議なことに、そうした燃え上がるひとときの感情であるはずの恋愛感情からは、半永久的なパートナシップが形成されることが期待されています。恋愛関係という名の、長続きするパートナシップです。
 高校の同級生が、隣のクラスのあの子と付き合っていた。でも、2カ月で別れてしまった。かと思いきや、もう別の子と付き合っている。なんて奴だ。本当に恋人のことを心から好きなのか?
 好きって、何でしょう。どうして、恋愛関係は長続きすることが求められていて、短く終わる恋愛関係は「正しくないもの」や「本当でないもの」だとされているのでしょうか。
 半永久的な恋愛関係、そのパートナシップの最たるものが結婚です。皆さんご存知のあのセリフ。永遠の愛が、結婚式では誓われます。死が二人をわかつまで、二人はお互いを「好き」でないといけないのです。
 ここには大いなる謎があります。恋愛感情は「燃えるような」感情で、それは次第に冷めていく、強度を落としていくことが明確なのに、なぜだか恋愛関係は長続きすべきだとされています。この矛盾を覆い隠し、恋愛をめぐる神秘を強引に成り立たせているのが、恋愛伴侶規範です。それは「恋愛関係は長続きすべきだ」という規範によって、とっくに冷めてしまった関係をだらだらと引き延ばし、積極的な別れの原因が訪れるまで、人びとをぐずぐず不幸にしてしまうのです。
 それだけではありません。恋愛関係は半永久的に続くものだという、恋愛伴侶規範のもつこの一面は、恋愛関係の中に生じる様々な暴力や抑圧から、人が逃れられないようにしてしまいます。
 例えば、死ぬまで一緒にいるはずだった結婚相手から物理的な暴力を受けていたり、その相手に経済的に支配されたり、精神的に抑圧されたりしているとき。その人に必要なことは、今すぐその相手から離れることです。しかし、恋愛伴侶規範のせいで、離婚には非常に大きなスティグマが課されています。結婚を誓った相手と別れるなんて、というわけです。それに加えて、一度恋愛関係を結んだことで、暴力を受けている人自身が、自分でその相手との関係に自分を縛ってしまうことがあります。付き合ってるのだから、結婚してるのだから、逃げるなんて。というわけです。
 もちろん、パートナーから逃げられない状況は、そういった社会的/心理的な意識からのみ生み出されているわけではありません。経済的な問題や、物理的な避難所の問題が、そこには関わっています。それでも、そもそもそうしてパートナーの暴力にさらされやすい人たちが逃げられる場所が存在していないということ自体が、恋愛伴侶規範の生み出した事態である、と考えることもできます。結婚は永遠の愛のカタチなのだから、結婚相手の暴力から逃げてくる人なんていないだろう、そうした人のためのシェルターなんて不必要だろう、と。そのように私たちの社会は恋愛=婚姻関係をブラックボックス化して、半永久的に続くとされるそうした「愛の関係」のなかで起きている暴力や抑圧を見えない場所に追いやってきたのです。これが、恋愛伴侶規範のもつ3つ目の有害さです。

4.恋愛関係は人間の成長の証である

 恋愛伴侶規範という言葉を発明したブレークさんの言葉を借りれば、世の中では「恋愛関係においてこそ人は花開く(flourish)」と信じられています。つまり、人間が人間として成長した、その「成長の証」が恋愛であり、恋愛をして恋愛関係を結ぶことで、人間は人間として花開く、人間らしく幸せになるのだ、ということです。
 確かに、生まれたばかりの赤ん坊は恋愛をしませんね。幼児、子ども、そして思春期から青年へと「成長」していくのに応じて、ひとは恋愛というものをするようになっていきます(と信じられています)。「人間が生き物として成長すること」の本質的な側面として、人が恋愛をするようになる、と考えられているのですね。
 しかし、事態はもっと複雑です。人間は、単に恋愛感情を抱く「大人」になるだけでなく、精神的にも、恋愛関係をきちんと続けられる「大人」にもなっていくものだ、とされているからです。
 「彼氏/彼女いない歴=年齢」という自虐的な自己紹介がありますよね。でも、なぜそれは自虐として機能するのでしょうか。それは、彼女がいる/彼氏がいることが、人間として望ましい姿だと世の中で信じられているからです。年を重ねるにつれて当然経験されるべきものとして、恋愛関係の構築が位置付けられているからです。
 また、私たちの社会では「結婚していること」がそれ自体で社会的な信用につながることがあります。家では妻を殴っているかもしれないのに、その人が結婚していることは、なぜか信用のステータスとして機能しています。これも同じです。恋愛関係を続けることができるのは精神的に成熟した人間だけだ、という根拠のない信念を多くの人が抱いているのです。
 このように、恋愛感情や恋愛関係をもつことは、根拠もなく人間の成長・成熟の証しだ信じられています。この神話を成り立たせているのもまた、恋愛伴侶規範です。「パラサイトシングル」という言葉で未婚であることを親離れしていない未成熟な状態のように形容したり、恋愛感情を持たず恋愛関係を望まないAロマンティックの人たちを「幼い」存在として見下すような社会の常識は、恋愛伴侶規範のもつそうした側面に由来しています。
 「結婚している」とか「付き合ったことがある」とか、そんなことだけで本当は信頼のおけない人間に信用手形をばらまき、恋愛感情や恋愛関係をもたないというだけで多くの人を不当にも未成熟な存在として表象する。これが、恋愛伴侶規範のもつ4つ目の有害さです。

5.恋愛関係こそが人間を幸福にする 

 みなさんは、幸せになりたいですか?なりたいですよね。ところで、恋愛関係を誰かと結ぶって、幸せなことですよね。はい、証明終わり。あなたは恋愛関係を結びたいですよね。だって「恋愛=幸せ」で、あなたは幸せになりたいのだから!
 こんな乱暴な証明が、世の中では平気でまかり通っています。
 でも、落ち着いて考えてください。あなたの好きな食べ物は?好きなテレビ番組は?スポーツ観戦は好きですか?オタク活動の方は最近どうですか?私たちの幸せは、本当は色々なものでできあがっているはずですよね。
 しかし、世の中ではなぜか恋愛関係を全員が求めていることになっています。先ほど書いたように、恋愛関係は万人にとっての幸せで、人が幸福になりたいのなら、自動的に恋愛関係を求めなければならないようです。そう、よく言いますよね。「結婚はゴールだ」と。結婚生活はそれから長い間つづくわけですが、めでたく結婚した人は、そのイベントのクリアをもって、「幸せ人生ゲーム」の勝者側につくことが決定したのです。だから、結婚はゴールなのです。
 こうした考え方は、言うまでもなく無数の有害さをもたらします。それは、恋愛関係を求めないAロマンティックの人の人生を不当にも「不幸な」ものだと決めつけます。また恋愛に性愛がねじこまれている世の中の常識のせいで、Aセクシュアルの人もまた「不幸な」人生に割り当てられがちです。それだけではありません。同性間の恋愛/性愛が制度や道徳のレベルで認められていない現状、モノアモリ―だけが特別視されポリアモリーが異端視されている現状、そういった様々な悪しき現状のせいで、そういった恋愛・性愛を実現しようとする人たちも「不幸」陣営に割り振られがちです。また、そうした性のマイノリティでないとしても、単に自分にとって恋愛や結婚が必要のないものだと考えている人たちも、意味もなく「負け組」扱いされることとなります。
 しかし、はっきり言っておく必要があるでしょう。AロマンティックやAセクシュアルの人たち、また同性愛や両性愛の人たち、そしてポリアモラスな人たち、また恋愛や結婚が自分に必要のないものだと感じている人たちを勝手に「不幸だ」と決めつけるのは、最低最悪の決めつけです。それは、社会が勝手に決めるべきことではありません。
 あるいは、もしそうした人たちが現実に「不幸」なのだとしたら、そうした人たちを「不幸」にしているのは、まさにその規範そのものです。恋愛伴侶規範の存在が――窮屈な結婚制度などと結託して――人びとを不幸にしているのです。これが、恋愛伴侶規範の5つ目の有害さです。それは、不幸ではない人を勝手に不幸扱いし、また意味もなく人を不幸にする、「不幸量産マシーン」なのです。

6.終わりに

 これまで、5つの要素に分けて恋愛伴侶規範の中身を説明し、またそこから恋愛伴侶規範のもつ5つの有害さを解説してきました。
 かくも有害な恋愛伴侶規範は、ところで他の様々な規範と結託してもいます。もう少し正確に言うと、そうした他の規範と結託することによって、恋愛伴侶規範は極めて強力に私たちの社会に息づくことができています。
 その規範の1つは、異性愛規範です。恋愛関係にある相手と、結婚して半永久的に一緒にいるのが「幸せ」だ。そうした規範において想定されているのは、いつも異性愛です。異性愛を特権視し、人間の自然だと想定し、他の性愛や無性愛を差別する、そうした異性愛規範と、恋愛伴侶規範は明確に結びついています。
 しかし、注意が必要なこともあります。これはブレークさんも警鐘を鳴らしていることですが、同性愛に対する差別を解消していくなかで「同性婚」がメインのイシューとして採り上げられること。その背景には恋愛伴侶規範があります。いまは異性愛とだけ結託している恋愛伴侶規範ですが、「大好きな相手と結婚(単婚!)できないなんておかしい」というアピールは、恋愛伴侶規範とも相性がよいです。もちろん、ヘテロ支配的な社会に対して差別の是正を訴えていく中で戦略的に「聞きいれられやすい」主張が運動の前面に出てくるのは仕方ないことかもしれません。しかし、同性愛差別を解消するという大きな政治運動の中で同性婚の合法化だけが目立っていくのだとすれば、それは恋愛伴侶規範との結合、また恋愛伴侶規範の強化を招きかねません。同性愛差別は絶対に根絶されるべきだし、異性愛規範は今すぐ滅びるべきです。でも、その闘いのなかで恋愛伴侶規範がますます強くなっていくのだとしたら、その闘いは規範的でないセクシュアリティを生きる人々を苦しめる「ラスボス」を喜ばせることに繋がるかもしれません。
 恋愛伴侶規範と結託する2つ目の規範は、家族規範と資本制です。恋愛関係は結婚関係へ発展し、それが半永久的に続く。そのあいだ、二人はお互いを大切に思う。そうしたケアの関係ほど、ネオリベラリズム的国家にとって都合のよいものはありません。福祉をいくら切り捨てても、最後は「家族」が残っているのですから、愛する家族が家族の面倒を見てくれるのです。税金を納めてくれる労働者だって、放っておいたら育ちます。恋愛伴侶規範のおかげで、友情やその他の交友関係に対して「恋愛」が特別視され、その恋愛関係の「愛の結晶」として、子どもが生み出されていきます。労働力を絶えず供給しなければ回っていかない資本主義経済にとって、これほど都合のよいことはありません。
 恋愛伴侶規範は、現在の家族規範とお互いに支え合っており、また資本制のなかで見事に立ち回っています。これらの規範が結託する仕方は、とても複雑で、わたし(夜のそら)には不勉強で解説できません。しかし恋愛伴侶規範が複雑に世の中を支配している一つの実相として、ここに記録しておきたいと思います。

 以上で、今回の記事は終わりです。
 今回解説したように、恋愛伴侶規範は様々な要素でなりたつ複合的な規範です。しかし、今回5つに分けた要素は、現実社会の中ではべったり溶け合ったまま私たちの思考と行動を支配していて、また制度のなかに身を潜めています。そして最後に書いたように、恋愛伴侶規範そのものが、他の規範と結託しています。
 ですから私たちは、そうしたぐちゃぐちゃで複雑な恋愛伴侶規範の存在を、まずはクリアに見定めることをしなければなりません。まっすぐ見定めて、そしてはっきり言ってやりましょう。
 くたばれ、恋愛伴侶規範。私たちは絶対にお前を倒す。

*この概念Amatonormativity(恋愛伴侶規範)を発明してくださったエリザベス・ブレークさんに、改めて心からの感謝を捧げます。