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粉々の自分を迎えに行く:わたしの(ジェンダー)アイデンティティ録

 こんばんは。夜のそらです。この記事は、わたしが現在の自分の心の状態を記録することを主な目的にしています。

タイトルに「(ジェンダー)アイデンティティ」とありますが、わたしには gender identity のことは詳しく説明できません。この言葉を「性自認」と訳すことや「心の性」と説明することの弊害については、多くの人が指摘している通りです。トランス差別の存在もあいまって、これは扱いの難しい言葉になってしまいました。それに、わたしはAジェンダーで、他のひとが持っている「ジェンダーアイデンティティ」を実感を持って理解してはいません。自分が何かの性別である、という「である」の確信を持っていないのです。そして、これから書くことは、わたし1人のアイデンティティの話にすぎません。ですから、これを読んで「gender identity」について何かわかったとは思わないようにしてください。とはいえ、わたし自身の「ジェンダー」についての「アイデンティティ」について書こうと思うので、このようなタイトルにしました。

1.断絶した自分

 これからは、本当にわたしの個人的な話ばかり書きます。
 わたしは田舎の出身で、18歳で県外に出るまでずっと同じ場所で暮らしていました。そこは、保守的で、ジェンダーの規範も厳しく、異性と恋愛してセックスして結婚して子どもを育てる、父親が稼いで母親は子育て、、といったような人生が当たり前の土地でした。
 そんなところで順調に育つことなどできるはずもなく、わたしは周りの同級生が「思春期」を迎えるころには、すっかり周囲から浮いて孤立してしまうようになりました。
 ずっと、男女の区別なんてどうでもいい区別だと思っていました。学校の出席番号があいうえお順で決まっているように、あるいは、大きな川を一本はさむと通う小学校の校区が分かれるように、ただ便宜的に何となくの身体のかたちで「女性」と「男性」を区別しているだけだと思っていました。だから、世の中でそういう区別が行われていることは知っていても、わたしにとって、それは全く重要ではありませんでした。そして、確かに12歳くらいまでは、それで生きていけたのです。友人たちとは人形でままごと遊びをして、クラスの女の子たちがプロフィール帳を交換するのに混ぜてもらっていました。小学校までは、それでよかったのです。
 でも、中学校でそれを続けるのは、許されませんでした。わたしは声変わりなんて全くしていなかったので、音楽の授業では、たった一人女子たちのグループで歌っていました。掃除の時間は、いつも女子たちの集団にたった一人混じっていました。わたしは、それを何もおかしなことだとは思っていませんでした。だって、声の高さや、好きな掃除の場所に、男女の区別なんて関係ないでしょう。高ければソプラノを歌えばいいし、低ければテナーやバスを歌えばいいし、教室を掃除したければそこを選べばいいし、グランドがいいならグランドを選べばいい、本当にそう思っていました。
 でも、そうして男女の区別が見えていなかったのは、わたしだけでした。そうしてわたしは、格好の虐めのターゲットにされ、すごいスピードで孤立していきました。わたしの身体が全く「男らしく」ないのも、きっとターゲットに選ばれた理由の一つでした。体毛なんて全く生えておらず、さっき書いた通り、声変わりなんて未来永劫こないのではという状態でした。
 結局、虐めから逃れることができたのは、スクールカーストの頂点の男の子からの性的欲望を受けるようになって、セックスのまね(?)みたいなことに協力していたからです。それについては、記憶も混雑しているし、思い出さない方がいいので省略します。なにせ、わたしはその彼と近づくようになって、孤立を脱出しました。彼だけでなく、周りの男子の行動を必死で観察して、徹底的に「男っぽい」動き方や話し方をリスト化して、少しずつ真似していきました。
 はじめは、本当に苦しかった。もともと、人の真似をするのは得意な方だし、どうすれば「男っぽく」なるのかを言語化して、やってみるのも、それなりにうまくいきました。でも、いつも「どうすれば男っぽくなるか」を考えながら生きるのは、とても苦しいことでした。1人称も、同級生の前ではかなり無理をして「俺」を使いました。おなかの中から「俺じゃないわたし」が上ってきそうになるのを、舌の裏側で必死に押さえつけて、「俺」と言うのです。本当に、苦しかった。父は暴力的で、母は精神を病みながら必死に働いて家を支えていました。きょうだいはみんな、自分のことで精いっぱいでした。性についての悩みはおろか、学校での悩みすら、相談できる相手は誰もいませんでした。わたしには、頑張ってそうして「男子」を演じ続けるしか、生き延びる方法はありませんでした。家族に負担はかけられません。
 でも、わたしは自分でも驚くくらいに「男っぽくする演技」を上達させていって、14歳の途中からは、完璧な「男子」として振舞うことができるようになっていました。虐められなくなって、男子たちに交じって騒いだり、冗談を言ったりできるようになりました。何も興味がないエロ本にちょっと興味がある振りをして、下ネタをきちんと覚えて、ちゃんとしたタイミングで笑ったり、反応したりできるようになりました。

 それは、ある種の満たされた感覚を、もたらしました。上手に上手に「男子」として生きることは、心の底から幸せな時代では決してありませんでしたが、社会に溶け込めていることの満足感がありました。深い孤独を感じていたものの、学校で孤立していないことはこんなに気持ちが楽なんだと思いました。「男友達」ができたことは、精神の安定にプラスに働きました。14歳の後半ころにようやくちょっとだけ訪れた「第二次性徴」も、わたしは喜びをもって受け入れました。自分が「男子」であることを疑われる材料が減った、と思ったのです。下半身の毛が無いことで虐められずに済む、と安心したのです。
 わたしは、見事に男子でした。中学2年の途中から、高校3年の終わりまで。わたしは完璧に「男子」でした。誰も、わたしが男子であることを疑っていませんでしたし、わたしも満たされた感覚で「男子」を生きていました。当時の同級生が、今のわたしを見たら、きっとみんな驚くでしょうし、過去のわたしだって、びっくりするでしょう。わたしはそのとき、確かに男子を生きていたのですから。
 高校を卒業して「男子」の演技をする必要がなくなった途端に、わたしはその演技を次々とやめました。就職したときには再び「男性」をやらされて苦労したものの、高校を出てフェミニズムに出会って、LGBTQという存在を知ってからは、男子ではない存在として明確に自分のことを認識するようになりました。男子の演技なんてしなくていい、自分はその種の生き物ではないんだ、とわたしは確信して、そのあと色々ありましたが、今に至ります。
 わたしは、高校を出てからの自分のことを、確かに「わたし」だと思えます。就職後「男性ジェンダー」の強制に苦しみましたが、そこには、それに苦しむ「わたし」が確かにいました。わたしは、小学校までの自分のことをも「わたし」だと自信を持って言えます。自分のことを、男子とも女子とも認識していなかった、あの頃の「わたし」は、Aジェンダーとして生きている今のわたしと、間違いなく同じ「わたし」です。
 でも、中学高校の5年間、「男子」として見事に生きていたあの5年間の「俺」は、自分と同じ存在として感じられません。自分でも、なぜあんなに「男子」に適応できていたのか、もう全く理解できません。不可解です。
 わたしは、見事に男子でした。
 よく、聞きますよね。第二次性徴に伴う自分の身体の変化に嫌悪感を感じたり、自分が自分でないと感じるようになる、そういうトランスジェンダーの若者の話。わたしには、そういうことはありませんでした。もう虐められなくなる、男子であることを疑われない証拠が手に入った、という風にわたしは自分の身体の変化を喜んで受け入れていたのですから。
 高校を出てから、そろそろ約10年になります。この間ずっと、わたしはずっと、中高の5年間のことを自分の過去として認識できないでいました。自分の人生の歴史に、ポッカリ穴が空いています。13歳から18歳までの「俺」は、人生の断絶のようになっていたのです。

2.粉々のわたしを迎えに行く

 そうして人生に断絶があったので、ジェンダークリニックで「自分史」を書かされるという作業が、わたしには本当に苦痛でした。現在のガイドラインに沿って診察を受けるトランス(非シス)の多くが経験することだと思いますが、ジェンダークリニックでは、自分についての歴史を書くことが求められます。それは、担当医がその人の性をよく知るという目的があるだけでなく、たぶん、身体改変を急ぐ当事者に時間的な猶予を与えたり、現在の自分のアイデンティティの感覚を、自分という存在の全体と統合することを助けたりするという効果もあるのだと思います。わたしも、自己認識が混乱しているかもしれないから、それを統合するためにも書いてみよう、と最初に言われました。
 でも、わたしは例の5年間のことも、虐められていたときのことも、思い出すのは辛いし、自分の歴史として書けるわけがないから、自分史なんてやりたくない、とはじめ拒否しました。その後、わたしの望む手術や治療を受けるために必要だと言われて、最終的にはわたしも仕方なく自分史を書く作業を受け入れましたが、最初は必死に拒否していたので、クリニックの医師も困っていただろうと思います。
 自分史を書く作業は、案の定とても苦しいことでした。わたしは3歳か4歳くらいから明確な記憶があるし、必死にまわりを観察して生きてきたので、色々なことを鮮明に覚えています。でも、その記憶のなかには暴力や性にかかわる危険物も混じっていて、それらを掘り出すのは本当に辛い作業でした。記憶を遡りながら、そのときの音やにおいも一緒に思い出すので、全身がボロボロになりました。自分史を書いたワードファイルをUSBに入れて、1時間以上かけてクリニックに行くのですが、行きの電車ではデータの中身や、データに書けなかった記憶を抑え込むのに必死で、わざと意識のレベルを落として耐えていました。クリニックでその内容を一緒に振り返って、帰りの電車では疲れ果てて死んだように眠りました。

 何より怖かったのは、やっぱりあの空白の5年間でした。完璧に「男子」として生きていたわたしの過去を、12歳までの「わたし」と、18歳からの「わたし」に接合するように、自分の認識を整えるなんて、無理だと思いました。思い出すことすらしんどいのに、そのときの感覚を今のわたしが言葉にするなんて、無理であるように思いました。

 案の定、それはとても骨の折れる仕事でした。誰からも疑う余地のない「男子」として生きていた当時のわたしは、すき間のない硬いアスファルトで、自分の人生を完璧に舗装していました。1ミリのすき間もない、男子としての人生の歴史(ロード)が、真黒なアスファルトで舗装されて、5年分続いているのです。

わたしは、そのアスファルトを砕きました。ハンマーで、端っこから順番に砕いていきました。舗装されたアスファルト面の下には、無数の記憶が埋まっていました。わたしは、それもシャベルで全部掘り返していきました。

――――そこには、「わたし」がいました。完璧に舗装されたアスファルトの下には、たくさんの黒い砂利に交じって、確かに「わたし」がいました。粉々になった「わたし」が埋まっていました。今だけはさようなら、と意識の奥底に埋めた「わたし」が、確かにそこにはいました。

男子として生きるしかない、と祖母の家で泣きながら決心したわたし。学生服の集団のなかで「何かがおかしい」と感じていたわたし。仲のよい女友達とふつうにコミュニケーションできなくて、その子の女友達に嫉妬していたわたし。男物の洋服売り場がどうしても気持ち悪く、かといってスカートをはきたかったわけではないわたし。あまり嬉しくない状況で精通を迎えて、自分の身体におびただしい精子がいることに背筋が凍って、悪寒を感じていたわたし。可愛い猫の模様の布の筆箱を冷やかされて、趣味嗜好を馬鹿にされたことよりも自分が「男として扱われていること」に今さら衝撃を受けたわたし。鏡に映る「男性ぽくない自分」にちょっとだけ喜んだわたし。きょうだいから女性用のジャージを譲ってもらって、男用の服装をしていない自分が嬉しくて、意味もなくそのジャージで夜の田舎道を散歩していたわたし。親しい女友達とのコミュニケーションが性的な方向に傾いてしまい、止められなくなって混乱していたわたし。”セックス”しているはずなのに、絶対に自分の身体を触らせようとしないし、服も最小限しか脱ごうとしなかったわたし。口についた膣液のにおいで、それまでに自分がしたことを思い出して、吐き気と混乱で動けなくなってしまってどうしてこうなったんだろうと涙を流していた帰り道のわたし。女性もののバッグを買って、真っ白のダウンコートに合わせたときに満足したわたし。「付き合って」いた女性と、おそろいの女性用のニット帽を買って、女友達になれたような、異性の付き合いでないような関係になれた気がして嬉しかったわたし。大学受験を前に「男子には爆発力があるから」と言っていた学校の先生に、「この人は性別によって人間を区別しているの?」と唖然としたわたし。センター試験の受験届を書くとき、「男子」に〇をつけるのに1瞬ペンが止まったわたし。この町を出たらもう「俺」を使うのはやめよう、と思いながらほんのわずかの荷物をまとめていた18歳の3月の「わたし」。

「男子」として生きていた5年のあいだ、粉々になって見えなくなっていた「わたし」が、そこにはいました。「男子」として生きるために、自分でもその存在に気付かないように、目立たないように粉々にして、アスファルトの下に埋められていた「わたし」。その粉々のわたしを、わたしは自分史を書きながら発見していきました。「男子」のわたしと統合されないまま、粉々にされていた「わたし」を、わたしは迎えに行きました。

当時のわたしに、あなたにはこういう側面もあるよね、本当はこっちが本心なんじゃない?と聞いても、きっと強く否定すると思います。わたしは男子として生きなければならないという強固な決意で、自分自身を縛っていましたから。それはそれは強く、否定しただろうと思います。

でも、今のわたしには、迎えに行くことができます。粉々になった過去のわたしを、わたしは土砂に交じる小さなガラス片を掬い取るように、少しずつ集めていきました。そこには、わたしがいました。

3.(ジェンダー)アイデンティティ

 わたしはAジェンダーです。女性と男性とで人間を分割する、その性別二元論の文化に、自分の居場所を感じることができません。自分が「男性」として扱われたり、あるいは最近だったら「女性」としてみなされたり、そういう風に扱われているということは理解できても、自分がその性別の人間である、とは思うことができません。自分がそうである性別(ジェンダー)が、わたしにはありません。
 こんな奇妙な、Aジェンダーというジェンダーを、わたしはいま、自分のアイデンティティにしようとしています。あれほど拒否していた自分史を書くことで、空白の5年間に粉々の「わたし」を見つけることができて、わたしはその小さなガラス片を繋いでいくことで、そこに「わたし」の人生の線を引くことができました。13歳までのわたしと、18歳からのわたしと、現在のわたしと、その同じ「わたし」が、断絶して空白になっていた5年間のあいだにも、確かに生きていた。アスファルトの下で土砂に交じって窒息しそうになりながら、でも確かに「わたし」はいた。そのことを、自分で認められるようになりました。わたしはわたし。ずっとAジェンダーです。

わたしは、やっと1人の人間としてつながりました。自分のジェンダーにかかわるアイデンティティを、わたしはようやく獲得できた気がします。ジェンダーアイデンティティが無いという、とても奇妙なアイデンティティですけれど。

この記事の最初に書きました。gender identity は、説明するのが難しいし、気を付けないといけない、と。これを「性自認」と訳してしまうと「わたしは女性/男性だ」と自分で言ったもの勝ち、という風に聞こえてしまいます。でも、わたしはジェンダー・アイデンティティはそういうものではないと、はっきり思います。それは、自分とはだれか、という現在の自分についての認識に深くかかわっていて、それに、過去の自分から現在の自分まで続く、自分の人生を貫く「わたし」についてのものでもあります。アイデンティティは、「明日から女性」、「今日から男性」みたいな、そういうものではなくて、自分の人生を生きている、その時間的に厚みのある「わたし」についてのものです。そして、その「自分が誰であるか」という、ジェンダーのアイデンティティは、過去に関わっているだけでなく、これからどんな風に生きていきたいか、という未来にも関わっているはずです。良くも悪くも、世の中にはジェンダーという制度があります。男性として生きるか、女性として生きるか、あるいはそのどちらでもないか。その区別が、コミュニケーションの在り方や、人間関係に、否応なくかかわってきてしまします。そうしたジェンダーの力学の中でどのように自分の将来をイメージするか。そうした未来にも、ジェンダー・アイデンティティは関わっています。それは、ただの「自称」や「言ったもの勝ち」ではない、もっと厚みがあって、もっと重みがあって、そして本人にとってどうしようもない確信を生み出す、そういうものだと思うのです。アイデンティティって、そういうことだと思います。

わたしは、空白の5年間に埋もれていた粉々のわたしを迎えに行くことができて、やっと自分のことをAジェンダーとして自信を持って受け入れることができるようになりました。本当は自分は「男」なのではないか、現に「男子」としてあんなに自然に生きていたではないか。という悪魔のささやき――その悪魔はわたし自身でした――から、やっと解放されつつあります。わたしは過去と和解して、やっとAジェンダーを自分のアイデンティティとして受け入れられました。自分史を書くという、苦痛にまみれた経験を通して、やっとわたしは、自分のジェンダーに関わるアイデンティティを形成することができつつあります。

粉々のわたしを、粉々にしていたのは、過去のわたしです。必死に否定して、砕いて、意識の下に隠しました。それと同時に、でも、それを粉々にしたのは、わたしの周りの環境でもあります。男でも女でもない人間など、いてはならない。そうやって過去の「俺」に「わたし」を粉々にさせたのは、世の中のシスジェンダー中心主義と、性別二元論です。

そうして粉々にされたわたしを迎えに行くのに、わたしは沢山の時間がかかってしまいました。でも、やっと救い出せました。粉々のわたしを繋いで、わたしはわたしの1本の細い線を書くことができました。わたしは、やっと自分のジェンダーについてのアイデンティティを持てるようになった気がします。

多くのシスジェンダーの人は、こんなに面倒なプロセスを経ないでも自分のジェンダーアイデンティティを自然に形成していくのだと思います。だって、社会から割り当てられて、周りから扱われる自分の性別に、違和感がないのですから。自分はそれではない、という風に逐一思わないわけですから、自然にアイデンティティを形成していて、殆ど意識されないのだと思います。でも、トランス(非シス)を生きていると、そうはいきません。わたしは、5年間を生き延びるために必死に「俺」を演じ続け、そうして生まれてしまった断絶を埋めるために、苦労してやっと粉々の自分を迎えに行くことができました。ようやく、「この人生をずっと生きているわたし」のアイデンティティとして、Aジェンダーを位置づけることができつつあります。

4.双子の弟?

わたしは、空白の5年間に細い線を書くことで、アイデンティティを形成し始めることができました。でも、その分なおさら、その5年間を男子として生きていた「俺」とのあいだに、よりはっきりとした人格のズレが生まれてしまいました。わたしは、当時の「俺」がやったことについて、自分に責任がないとは思いません。有害な男らしさをふるっていたでしょうし、ジェンダー演技をするなかで、沢山の人を傷つけました。後悔しています。とはいえ、今のわたしは、男らしさで舗装されたそのアスファルトの下に埋められた「わたし」の方に、自己同一化しています。当時の「男子」としての「俺」と、二十数年間を生きてきた「わたし」の関係は、ちょっと微妙な状態になっています。でも、これからもきっと、この関係はちょっとずつ変化するのだと思います。

ひとつ、素敵な動画を紹介させてください。トランスジェンダーのとまるさんの動画です。とまるさんは出生時に男性を割り振られたけれど、ずっと自分のことを女性だと確信してきて、20歳ごろには性別適合手術もして、現在は完全に女性として生きているトランス女性です。そんなとまるさんが、下の動画では中学・高校時代を振り返るときのことについて語っています。とまるさんは言います。「男の子時代の自分は、双子の弟のようだ」と。

これは、面白い表現だな、と思います。そして、わたしも5年間の「俺」のことを、いったん「双子の弟」のように位置づけてみようかな、と今は思っています。もちろん、トランス(非シス)の人みんなが、こうやって過去の「男子/女子時代の自分」とのあいだに断絶や混乱を抱えているわけではないでしょう。でも、人それぞれ、自分のアイデンティティの形成のなかで、うまく整合しているところと、うまく整合しないところと、やっぱりあるのではないかと思います。シスの人にはないような、ジェンダーを巡る自己同一性の切れ目、断絶、緊張と、私たち(トランス/非シス)はいつまでも付き合っていかなければならないのかもしれません。(そうでない人もいるかもしれません)。とまるさんは、その双子の弟のことを自分のことのようにして振り返るのは、しんどいことだ、と言います。とまるさんのように、はっきりとした女性ジェンダーを持っていて、完全に女性として生きている方でも、そうした葛藤や混乱を持っているのだと分かって、本当はよくないですが、わたしは安心しました。わたしも、双子の弟であるあの5年間の「俺」と、これから息の長い付き合いをしていかなければならないのだと思います。

わたしは、あのときの「俺」だった自分に、言ってあげたいと思います。お疲れさま。辛かったね。たいへんだったね。よく頑張ったね。あなたのおかげで、今のわたしが生きているよ。ありがとう。あなたが粉々にしてアスファルトの下に隠した「わたし」は、わたしがきちんと迎えに行ったから。ずっと記憶を守っていてくれてありがとう。でも、さようなら。