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なぜ私たちは半ギレなのか~半ギレAceWeek2020に寄せて~


私たちは半ギレである。私たちがキレている理由はあまりに明白である。この社会が私たちの存在を許すようにできていないからである。

思春期を経ると人は性的な興味をもつ。それは成長の証。親密な相手とはセックスをしたくなる。それは親愛の印。セックスは至上の悦びである。それは人類の常識。性欲(対人セックス欲求)は本能に由来する。それは生物学的宿命。

こうした言説が支配する現代社会のなかで、私たちAセクシュアルは自分自身をただしく認識することを妨げられ、アイデンティティを傷つけられ、今もなお不可視化され続けている。

これが、半ギレである私たちが「キレている」理由である。

その一方で、私たちはまだ「半分しか」キレていない。

なぜ 私たちは「半分しか」キレていないのか。

それは、私たちが自分たちをキレさせるものをいまだ明確にターゲットできていないからである。人は誰しも誰かを性的に好きになる。セックスをすることは最高である。こうした「常識」は、あまりにも深く人々の思想と言動を支配しており、まるで空気のように遍在している。誰も、自分が吸っている空気の存在を認識したりしない。それと同じように、そうして空気のようになってしまった性をめぐる規範は、すっかり透明になっている。だから、その悪しき常識をただしくターゲットするための言葉はまだまだ欠けており、そのことによって私たちは「半」ギレであることを余儀なくされている。自分たちが何にキレていて、何が我慢ならないのか。私たちはまだそれを明確に言葉にできていない。

なぜ 私たちは「半分しか」キレていないのか。

それは、私たちが自分自身を言い表す言葉を十分に手にしていないからである。Aセクシュアルとはどのようなことなのか。それを知るための日本語の情報源がまだまだ不足している。Aセクシュアルとはどのようなことか。それを論じるような思想や理論はほとんど存在していない。インターネットによる交流が日本のAceたちを結び付けて以来およそ20年の歳月が経過した。その間、少しずつAセクシュアル(アセクシャル)のラベルは人口に膾炙していったけれども、まだまだ情報リソースは少なく、分散しており、思想的な支えにおいて極めて貧弱である。そのことで私たちは「私たちが誰なのか」を自信をもって語ることができないでいる。それが、私たちが「半」ギレである第二の理由である。そこでキレているあなたは誰か?この問いに対する回答が、まだ不十分にしか用意されていない。

なぜ 私たちは「半分しか」キレていないのか。

それは、自分たちがキルジョイ(kill joy)であることを自覚しているからである。性愛(セクシュアリティ)は人間性の中核をなす。性愛にまつわる欲求はこれ以上ない悦びにつながる。セックスは最高である。親しい相手とのセックスほど素晴らしいものはない。たとえその相手が異性であるとしても、同性であるとしても。全ての性愛は等しく褒め称えられるべきである。―――そのようにして性愛と快楽と幸福と親密さと人間らしさが直列つなぎになっているこの大状況で、セックスに置かれたそうした至上の価値を共有することなく、あろうことかそれを否定しようとする私たちAセクシュアルの存在と言説は、性愛者たち(ァロセクシュアル:allosexuals)たちの楽しみをぶち壊し、華やかなセックスカルチャーに冷や水をかけるキルジョイに他ならない。私たちはそのことに気づいている。だから、私たちは全力でキレることをしない。それが、私たちが「半」ギレである第三の理由である。この「半分」は、楽しいパーティーをぶち壊すキルジョイであることへの後ろめたさに由来する。

私たちは半ギレである。

私たちはブチ切れることができるだろうか。全ギレAceになることはできるだろうか。

できるとしたら、それはいったいどのようにして?

私たちには言葉が必要だ。性愛を標準化し、セックスを価値づけ、人間性にセックスが不可欠であるかのように偽装する、悪しき規範や思想をターゲットするための言葉が必要だ。性愛規範(sexual normativity)や強制性愛(compulsory sexuality)、性=性社会(Sexusociety)またそれらに関連して恋愛伴侶規範(amatonormativity)など、英語圏のAセクシュアルコミュニティとその周辺の人々はそのためにすでにいくつかの言葉を発明してきたが、それらはまだ外来語でしかない。これらの言葉に日本語の思想としての身分を与え、何に私たちがキレているのか、何が我慢ならないのか、言葉にできるようにならなければならない。

私たちにはアイデンティティが必要だ。Aセクシュアルは、病院の先生に診断してもらう状態異常でも、Web上の「診断サイト」で出てくる診断結果でもない。それは私たちのアイデンティティであり、他でもない私たち自身が誰であるのかを示す簡潔なラベルである。そのアイデンティティがいったい何に関わっており、そのラベルが何を標示しているのか、そのことを私たち少しでも多くのAceたちとともに確かにする必要がある。そのためには、日本語でアクセスできる情報源が増えなければならないし、Aセクシュアルであるとはどのようなことかについての(様々であってよい)確かな思想的基盤が共有されるべきである。

私たちには勇気が必要だ。性愛と幸福と快楽と親愛と人間性がひとつなぎに結び付けられ、褒め称えられ価値づけられているこの楽しいセックスカルチャーのただなかで、「どうしてセックスがそんなに大切なのか」と叫ぶためには勇気が必要だ。セックスというゴールに向かってひりひりと緊張感をもって楽しまれている性愛者たちの人間関係という名のゲームについて「そのゲームに参加しない」と拒否をするための勇気が必要だ。「全ての人の性愛のかたちが尊重される社会へ」というキラキラしたLGBT啓発メッセージのうえに大きく「全ての人にとってセックスが大事なわけではない」という朱筆を入れるための勇気が必要だ。親密な相手とセックスをする。そのことを至上の幸福とするセックス社会の標準に対して「それが幸福なら私たちに幸福はいらない」と言い切るための勇気が必要だ。楽しい雰囲気をぶち壊し、主流のカルチャーに冷や水をかける、キルジョイである勇気が必要だ。

私たちには時間が必要だ。半ギレAceWeek2020 が日本に訪れた。福岡から生まれた2020年のこの半ギレのエネルギーに、絶やすことなく薪をくべ、言葉とアイデンティティと勇気を蓄えていかなければならない。そのための時間が、私たちには必要だ。

時計はもう動き始めている。


(夜のそら)この記事は、半ギレAroaceさんが開催する「半ギレAceWeek 2020」に寄せた文章です。この文章をこのタイトルで書くことについては、運営の方に事前にお許しをいただきました。感謝いたします。個人的なことですが、各種SNSを断っている関係で、何年かぶりに英語圏のAceWeekに触れることなくこの週を迎えることになりました。そんななか、半ギレさんという力強い活動が日本国内に生まれたことを知り、予期せぬことに興奮しています。Aセクシュアルの「A」に込められた否定と対抗のエネルギーを、これからも少しずつ日本語で可視化していきたいと思います。

半ギレさんの「半ギレAceWeek2020」開催主旨は以下の記事を参照。