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悲しくてやりきれないへと至る道③Last

前回のあらすじ


ざっくり「帰って来たヨッパライ」の旅路

解散を目前とした1967年10月。
借金してまで作った卒業記念アルバム「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ」は、300枚のうち100枚しか売れなかった。
ところが、あるラジオ番組で「帰って来たヨッパライ」が放送されたところ、近畿地方を中心にブームが起きる。リクエストが鳴りやまず、毎日「帰って来たヨッパライ」が放送される事態に。

そこに東京の音楽業界が目を付けた。
パシフィック音楽出版の朝妻と東芝EMIの高嶋はすぐに大阪に飛び、
フォークルのメンバーと契約を交わして、「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ」から「帰って来たヨッパライ」をシングル・カットして発売することを決定する。

12月25日に「帰って来たヨッパライ」が発売されると、わずか1カ月で100万枚売り上げるモンスター・ヒットとなり、日本史上初のミリオンヒットを打ち立ててしまった。

これならば2曲目もヒットは間違いなし。
1曲目はコミックソングだったから、次はガラっと印象を変えて、バラードで行こう。

選ばれたのは、「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ」にも収録されていた「イムジン河」だった。


第2弾シングル「イムジン河」

自主制作盤ハレンチより

2.イムジン河 朝鮮民謡 訳詞 松山 猛 
           (Arr)加藤和彦

印象的で抒情的なイントロ。
カレッジ・フォークらしいのびのびとした曲調。
日本語で、みんなで合唱しやすい、繰り返されるサビ。

我が祖国 南の地
おもいは はるか
イムジン河 水清く
とうとうと 流る

イムジン河 / 松山猛 作詞

このメロディはまず間違いなく「良い曲だ」と思わせるに値するもので、誰にとっても耳馴染みがいい。
バラードというのは聞くタイミングを選びこそすれ、おおよそ忌避されるものにはなりにくい。

そこに、お隣の国の問題が、詩として乗っている。
1948年に分断された南・北朝鮮の悲哀に思う民の気持ち。
政治的背景を知らずとも、そんな経験を持たずとも、
自由を願い、そして叶わない哀しさは、情緒のある人の心に訴えかける。

「おらは死んじまっただ~」と歌っていたグループの第2弾が、「イムジン河」。
ただのおちゃらけ学生バンドだと思っていたら、やたらと思想性のある歌を打ち出してきた。
よくよく聞けば、「帰ってきたヨッパライ」だって、交通戦争にある今の世相を歌っていやしないだろうか?

ファン層は一気に拡大するだろう。
おふざけだけではない。
しかめ面をした大人だって、彼らの歌に、彼らに興味を抱くに違いない。

鉄は熱いうちに。
東芝音工の高嶋らは、
「帰って来たヨッパライ」の発売から2か月後の1968年2月21日に第2弾シングルとして「イムジン河」の発売を決定した。
アマチュア感を出すために、「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ」からそのまま音源を使ったヨッパライと違い、今度はきちんと第二次フォークルメンバーでレコーディングをし直おそう
歌詞も、ハングル部分を削って新たに日本語の詞を付け足し、一層ドラマティックに仕上げようじゃないか。
この曲は、ヨッパライ以上のヒットになるぞ。

みんな浮かれていた。
なんせ、ほぼ元手ゼロで発掘されたアマチュアグループが、デビューの一曲目で、日本の音楽業界の常識をぶち壊しにかかるぐらいの売り上げをたたき出したのだから。

アマチュアとプロの境界線があいまいになってしまっていた。
マイク眞木はプロに作詞作曲してもらった曲で、フォーク・ソングというジャンルをお茶の間に広めた。
アマチュアの歌うフォーク・ソングとは、そもそも性質が違った。

日本初のミリオンヒットを打ち出したグループの第2弾シングル。
そのレコードは、ついに発売されることはなかった

悲しくてやりきれないへと至る道。
その道しるべとして堂々と建つ「イムジン河」。
そして、「悲しくてやりきれない」が世に出るまでを追っていく。


「イムジン河」という事件

イムジン河事件とは、
政治的背景から「発売中止」になり、「放送禁止・自粛」になったことを指す。

さて、今更わたしがワアワア言うまでもなく、イムジン河にまつわる話は、世の中に認知されている。

今こそYoutubeなり映画なり、いつでもイムジン河が聴ける世の中ではあるけれど、当時はどうだったのか。
発売中止となったのだから、「イムジン河」は一切聞くことはできなかったのか。

実はそうではなかった。
ライブで歌うことは禁止されていなかったし、レコードだって発売されていた

発売中止なのに発売されていた?
どういうことなのだろうか。


「イムジン河」はだれの歌? 封印された歌なのか?

ハレンチは高くて買えないからヤフオクから……

これは、第一次フォークル時代のレコードと、その後に発売されたイムジン河のクレジットを比較したもの。

1968年2月21日に東芝から発売予定だったイムジン河は、ついぞ発売されることはなかった

しかしそれから1年後。画像で言えば右側。
ミューテーションファクトリーというグループが、イムジン河を、URCというレーベルから発売している。
このグループはなんと、第一次フォークルメンバーである平沼・芦田、そして松山によるグループ
サポートには西岡たかしや中川イサトなど、そうそうたるメンツだ(五つの赤い風船というフォーク・グループのメンバー)。

実はイムジン河はメジャーからは発売されていないだけで、インディーズからは発売されていた
第一次フォークルの”ハレンチ”に収録されたイムジン河も、
枚数こそ出回っていないものの回収されることはなく、コンサートでも歌われていた。
徹底的に消された楽曲ではなかったことがわかる。

画像から違いを比べてみると、
クレジット表記が片や”朝鮮民謡”と簡単に著され、
片や”原詩・作詞・作曲・編曲”と細かく分かれている。

イムジン河を朝鮮民謡と著しているのは、”ハレンチ”以外この世に存在しない。
のちにいろいろなアーティストがカバーして歌っているけれど、それらのクレジットは必ず右側のごとく、細かくクレジットされている。

東芝からシングル第2弾として予定していた「イムジン河」は、左側の表記で発売しようとし、中止になった。

画像ではわからない違いもある。
それは詩とメロディだ。

フォークル版イムジン河の完成には松山猛が深く関わっている。
なぜ松山が、という話だけど、松山が生まれ育った京都には朝鮮人が通う学校-朝鮮学校があって、そこの生徒から教えてもらった曲をフォークルに伝えたのが始まりだからだ。
このとき松山はメロディを口頭で伝えたものだから、微妙に違うものが出来上がった(加藤が好みに変換したという見方もあるかもしれない)。
この違いは、ミューテーションファクトリー盤イムジン河のB面に収録されている”リムジンガン”にて確認できる。
ほぼほぼ一緒ではあるけれど、聴き比べると確かに違うことがわかるだろう。

そして詩は、比較画像の右側を見ていただければわかる通り、松山による”作詞”である。
実はイムジン河の原詩2番は直訳すると、あっちはダメでこっちはいいぞというプロバガンダ・ソングになっている。
1番は直訳しても松山詩と大差ないというのに、だ。
このせいで原詩の1番と2番は明らかな段差があり、違和感がある
松山はこの段差をなくすよう、1番に合わせて叙情的情緒的に作詞しなおし、美しいメロディに合うよう変換したのだった。
”「イムジン河物語」'封印された歌'の真実-喜多由浩著”という本に直訳が載っている。そして、上述のリムジンガンも原詩に沿った訳になっているから、確認してみると楽しい。

さらに構成も見てみよう。
第一次フォークルがイムジン河を歌う際の構成は以下の通り。

松山詩①→松山詩②→原詩(ハングル歌唱)①→松山詩①

カレッジフォークらしい、なるべく原曲の詩・言葉を使って歌唱するスタイルが踏襲されている。
そして、東芝から出す予定だったイムジン河は以下のように変わっている。

松山詩①→松山詩②→松山詩③

原詩が消えた
2番までしか存在しないイムジン河の原曲に、松山が新しく詩を付け足した。
いわゆる”結論”の詩であり、思想性を孕んだ曲を締めるための重要な手法だった。
結果として松山版イムジン河は原曲ともまた違う完成形を迎えることになる。

まとめると、原曲との差異は以下の3つになる。

①-クレジット
②-メロディ
③-歌詞
④-(構成)

一見、曲が持つすべてを変換してしまっているように思えるが、まったく違う曲になるほどの改変ではないし、ハレンチでも歌われていた民謡も、メロディやリズムが違ったり、訳詞どころか替え歌になっているものもある。
そも民謡とは地方によって歌詞もメロディも変わってくる無形の文化だ。
イムジン河だけがなぜ取り沙汰されているのだろうか。

アマチュア時代だからこそ許される改変だったというのも、もちろんそうだろう。
けれど、一番の理由は、この曲が昔から歌い継がれてきた民謡ではなかったということ。
松山と第一次フォークルは、民謡ではない曲を、フォーク・ソングという概念に仕立て上げてしまったのだ。


朝鮮民主主義人民共和国―北朝鮮の歌

イムジン河の発売中止には朝鮮総連という組織が関わってくる。

フォークルはこれを朝鮮民謡だと思って歌っていた。
「世界の民謡を紹介する」コンセプトのグループだから、別段おかしいことじゃない。
これに待ったをかけたのが朝鮮総連である。

朝鮮総連は正式名称を「在日本朝鮮人総連合会」と言い、
朝鮮は朝鮮でも、北朝鮮側の組織である。

この朝鮮総連は第二次フォークルのイムジン河に抗議をした。

「イムジン河はれっきとした我が国の歌であり、作詞・作曲者もはっきりと分かっている。なので、イムジン河を発売するのなら、正しい音階を使い、クレジットも正しくしていただきたい」

この作詞・作曲者は、クレジットの差異画像に記載した、
朴 世永パク セヨン高 宗漢コ ジョンファン

イムジン河ははるか昔から歌われていた民謡-フォーク・ソングではなく、
1957年に作られた新しい楽曲だった。
それも国家威信を著したプロバガンダ・ソングとして。
しかも作詞の朴は、北朝鮮国歌である”愛国歌”の詩も書いた、有名人中の有名人。

アマチュアで歌っている分には目をつむることができても、
東芝からプロとして売り出すときに、この暴挙は許されない。
アメリカでも、民謡と思って発売したら別のフォーク・シンガーが作った歌でした、なんてトラブルがあった。
もちろん、その場合はクレジットの変更が必要になるのは、当たり前だ。

北朝鮮の歌がどうやって日本に入って来たのだろう。
もちろん朝鮮総連を通じてだ。
朝鮮総連が1960年に発行した歌本に掲載されていたと、本にある。
そこから朝鮮学校に伝わるのは想像に難くない。

そして朝鮮総連はもう一つ要求をした。
それは、「『朝鮮民主主義人民共和国』の国名を使用していただきたい」というものだった。

朝鮮総連からの抗議は発売直前、具体的には2日前だったと言う。
すでに10万枚以上を出荷済みだったから、今からクレジットの変更はできない。
いや、回収して発売時期を伸ばせば、対応は可能だったかもしれないが。

けれど、東芝はそうしなかった。
抗議があった翌日、東芝が朝鮮総連本部に赴いて、次のような結論を報告した。

(総連側の二点の要求について)検討させていただきました。国歌を作ったような、大変な方の作品に、日本語の詞を勝手につけてしまい、申し訳ありません。『このレコードは発売すべきではない』。わが社はそういう結論に達しました。

「イムジン河物語」"封印された歌"の真実(喜多由浩著)

朝鮮総連側が口を開くより先、あいさつも前振りもなしにまくしたて、席を立った。

朝鮮総連側はあっけにとられる。
こんなあっさりと引き下がるとは思っていなかったのだろう。
まして、レコードはすでに作られ、出荷まで終えている段階だというのに。
東芝が下した結論は、作ったレコードが1円にもならない、すべてをゴミにする結論だった。

東芝側にも理由がある。
クレジットはともかく、日本で「朝鮮民主主義人民共和国」の名称は使用できない。
なぜなら、日本は北朝鮮を国家としてみとめていないからだ。
これは今でも同じ。
1965年に韓国と日本の間に締結された”日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約”にも以下の一文がある。

第三条
大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(Ⅲ)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)抜粋

ここまでくると国際問題であり、東芝のような民間の会社が勝手に「朝鮮民主主義人民共和国」の名称は使用するわけにはいかなかった。
そして、東芝音楽工業の親会社は、電化製品を取次・販売する東芝である。
サザエさんである(今は違うか……)。
韓国とバチバチにやりあってる北朝鮮の肩を持ったとなれば、韓国で東芝製品の不買運動が起きるかもしれない。
ゆえに手を引くしかなかった。

理屈はわかった。
それにしても、だ
このとき朝鮮総連側は「詩」について言及していないのに、東芝は「国歌を作ったような、大変な方の作品に、日本語の詞を勝手につけてしまい、申し訳ありません。」と謝罪している。

新聞などで詩に関して謝罪を要求とか書かれていたらしいが、この点に関して東芝側も朝鮮総連側も、「それはなかった」と意見が一致している。
あくまで要求は「クレジットを正しくし、正式国名を使用することの2点に留まっている。

確かに、総連側は原詩や音階の違いも指摘するつもりでもいた。
だけどそれは、上述のクレジットと国名の話が済んでから「二の矢三の矢」として突くつもりだったというのだ。
その音程だって、「編曲」のクレジットをすればレコーディングし直す必要もなかっただろうし、詩だって「訳詞」ではなく「作詞」、さらに「原詩」のクレジットをすればクリアできた問題だろう。
しかし、話をする前に「発売中止」を告げられ、朝鮮総連側はその差異や詳細な要求を説明する暇もなかった。

さらに言おう。
朝鮮総連から抗議があったのは「発売日2日前」とされているけれど、
抗議自体はもっと前からあったことを認めるような記述も散見される。
決定から発売まで1ヶ月しかなかったとはいえ、そんなスケジュールを組んだのは東芝側であり、そこに食い込んできた要求を「なんとかなるだろう」と無視していたことも問題だ。

よく、朝鮮総連が高圧的に出たから発売中止になったと散見するけれど、今こうして情報を統合できる時代に生きていると、むしろ朝鮮総連側に同情する。
あくまでこの件に関しては、だけど。

そして、話は「中止」と「禁止」に戻る。

上述の内容から、イムジン河事件は東芝側が自主的に「中止」したものであり、総連側から「禁止」したわけではないことがわかる。
なんなら1年後に発売されるミューテーションファクトリーの”イムジン河”やザ・フォーシュリークの”リムジン江”には国名表記がないことから、正式国名を使用するという問題も、交渉次第でどうにかなったのではないだろうか。

発売しようと思えばできていた。
しかし、自粛した。
イムジン河事件の顛末は、つまりそういうことだ。


代わりの曲を

「イムジン河」の発売中止を受け、新聞やニュースがこの問題を取り上げたおかげで、帰って来たヨッパライから続くフォークル旋風は燃料を足された形になった。

それでも13万枚の「イムジン河」をゴミにした負債があるし、続く曲が消えたのは確か。

だから、代わりの曲が必要だった。

パシフィック音楽出版の重役室に呼び出された加藤は、同社の社長であり、ニッポン放送の重役だった石田達郎に、無茶ぶりとも言える要求をされる。

加藤へのインタビューにて
「(中略)加藤、次出さなきゃなんないから、曲作れ。ギター持ってこさせてあるから」。(中略)「ここを三時間貸してあげるから、作りなさい。鍵かけるよ」と出てっちゃって。確かめたらホントに鍵かかってて、「あのヤロー」。

エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る(加藤和彦/前田祥丈 著)

この無茶ぶりに加藤は、部屋に置いてあったイムジン河のレコードを逆再生したり、コードを書き出して逆から追ってみたり、ギターを爪弾き音をつないで、必死にメロディを作り上げていく。

――「イムジン河」の譜を反対側から辿って行った、という説もありました。テープを逆に回して作ったというのが真相…。
きたやま そう…でもないんですよ。テープを反対に辿って行ってもこのメロディは絶対聞こえてこない。ギターで坂崎くん(THE ALFEE・坂崎幸之助)のように遊んでいると思いつく。(中略)それが「10分15分ぐらいでできたという話なんで、それに腹が立ちますね」

永遠のザ・フォーク・クルセダーズ 若い加藤和彦のように / 田家秀樹

加藤が曲を作るのに監禁されている間、きたやまは隣の部屋で「番」をしていたという。
彼が部屋から出ないように。彼が曲を作り上げるのを、見守るように。
はしだのりひこ is どこいった。

そして加藤和彦は要求通り、3時間で作曲を終わらせた
時間通り帰って来た石田は「じゃ、これからサトウハチロー先生のところへ行くぞ」と加藤を車に乗せ、自らも一緒に乗り込んだ。

そういえば詩をどうするか、加藤は考えていなかった。
なんとなくきたやまが作詞をするんだろうな、とは思っていたところに、「サトウハチロー」。
隣室で待機していたきたやまは放置プレイを食らう。

当時としてはサトウハチローは売れっ子詩人ではあったが、どうにも歌謡曲のイメージが強かったはずだ。
戦後復興ソングとして圧倒的に有名な「リンゴの唄」。ほかには「長崎の鐘」など。1960年にはCMソングなんかも手掛けているけれど、フォーク・ソングの作詞は経験がなかったはずだ。
それでも大家には違いない。
サトウハチロー本人の磊落な人柄も相まって、ネームバリューは大きい。

まさかそんな人に作詞を依頼しにいくなんて、加藤は思いもよらなかった。
「どうにかお願いしますよ」という、ものの5分ほどの会話のあと、出来上がったばかりの音源を置いて、「じゃ、よろしくお願いします」と石田と加藤はサトウ宅を後にした。

一週間で詩人は詩を書きあげる。
出来上がった詩を見て、加藤たちももちろん、一緒に見ていた朝妻も首をひねった。

胸に染みる 空の輝き
今日も遠く眺め 涙を流す
悲しくて 悲しくて とてもやりきれない
このやるせないもやもやを 誰かに 告げようか 

悲しくてやりきれない/ザ・フォーク・クルセダーズ

内容があまりに暗すぎる。
それに、「もやもや」なんて、歌詞ではあまり聞かない言葉使いが気になる。
タイトルは「悲しくてやりきれない」。

朝妻はよっぽど書き直しを要求しようとしたけれど、いかんせん時間がない。

けれどどうだろう。
これがまた加藤の作曲にぴたりと当てはまるのだ。
レコーディングをするのに歌いこむと、さらに詩の深さがわかってくる。
結局、書き直しの要求はせずに、このままの詩で発売することを決定した。

3月21日。
2月21日の「イムジン河事件」からちょうど1ヶ月後、「悲しくてやりきれない」は発売された。
累計売上枚数は18万枚ほどという。
「悲しくてやりきれない」は「帰って来たヨッパライ」には遠く及ばない、せいぜいヒットと呼ばれる売り上げにとどまった。

それでもだ。
「悲しくてやりきれない」は「この世界の片隅に」をはじめ、映画やドラマの主題歌として多く扱われ、今でもTVで聴くことができる。
多くのアーティストがカバーして歌った。
鼻歌で歌う人も多かろう。スナックのカラオケの履歴を漁れば、大体6割くらいの確立でこの曲が歌われている(わたし調べ)。
283万枚売り上げた「帰って来たヨッパライ」よりも、現代では耳にする機会が多いかもしれない。

そして、この曲の発売のあと、東芝版「イムジン河」は完全に闇に葬られることになった。
たった1年の活動期間もそうだし、「アンタッチャブルな歌をわざわざ発売しなくてもいい」「発売中止で十分話題は作れた」。
「大人たち」の言い分としては、そんなところだ。

日本のフォーク・ソングの代表曲の一つに数えられる曲は、
3時間と1週間、それも「イムジン河」の代わりの曲として、突貫で作り上げられたものだった。

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Youtubeにイムジン河の逆再生を試している動画があったので載せておく。
自分でやれという話だけど、わたしのプレーヤー、逆回転とかそんな高等技術できないから……。
と書いてて思いついたのだけど、これPCに取り込んで逆再生にすればいいだけじゃんね。てへ。

まあ、テレビで加藤自身が発言したのが一人歩きした結果だから、信じてしまうのは仕方ない。
今の、いろいろな情報が見られる世の中に感謝しよう。
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おわりに

あっさりしている。
非常にあっさりしている。

悲しくてやりきれないへと至る道。
それは第一次フォークル物語であり、
帰って来たヨッパライ物語であり、
イムジン河物語なのだと思う。

突貫で作り上げられた曲だからと言って、悲しくてやりきれないという曲が、「実はたいした意味なんてないんだ」なんて言うつもりなど毛頭ない。

悲しくてやりきれないが発表されて55年。
ドラマや映画やアニメーションで、発表されたときに聴いていた世代の
子供や孫、ひ孫世代に、この曲は歌い継がれてきた。

フォークソングとはなにか。
それはきっとジャンルなんて関係なく、
ロックと言われる曲も、
ヒップホップと言われる曲も、
シャンソンも、ブルースも、演歌も、
世代を超えて歌い継がれているものは、おしなべてフォーク・ソングとカテゴライズされるのではなかろうか。
鑑賞に用いられるのでなく、歌い継がれる。
フォークソングとはなにか。
わたしはその答えを知らない。わからない。
けれど、「世代を隔てて歌い継がれる」というのは、フォーク・ソングの大事な要素の一つであるのは間違いない。
カバーと呼んだっていい。そんなのはただの言葉遊びだから。

加藤和彦・きたやまおさむ・平沼義男・芦田雅喜・井村幹夫の5人で始まったザ・フォーク・クルセイダーズはもういない。
再結成も望めない。
なぜなら、加藤和彦は亡くなった
縄を首にかけ、第一次フォークル解散コンサートの写真を眺め、台を蹴った。
「世の中が音楽を必要としなくなった」
映画パッチギ!公開から4年後の出来事である。

フォークルの歌は2023年の現代に流れ続けている。
ただ、流れている。

フォーク・ソングを聴いていると、「むかし、歌とは道具だったのではないか」と思うことがある。
道具はしまっておくものではない。
壁に飾って眺めるものじゃない。
日々の生活の中で、彼の人の手に握られて、人生をたすけるものだ。

歌に意味を持たせるのは、わたしたちだ。
創作であってもいい。活動のためでもいい。研究のためであっても、心に抱えたもやもやの代弁として、心の支えにしたっていい。

胸に染みる そらのかがやき
今日もしみじみ眺め 涙を流す

悲しくてやりきれない/ザ・フォーク・クルセダーズ

インターネットの発達で、視覚的情報に事欠かない世の中になったけれど、
おかげで「しみじみ眺め」ることをしなくなった、と思う。
しみじみ聴くことも、しみじみ考えることもまたしかり。
わたしはそういう世代に生まれ育った一人だから、実際「しみじみ眺め」ることを本質的に理解できていない。
だけど、どうすれば「しみじみ眺め」られるか、「しみじみ考え」られるか。

フォーク・ソングは、そんな当たり前の、人にのみ許された行いを思い出させてくれる道具の一つなのだ。


長々とした記事を読んでくれてありがとう。
もし、わかりづらいところや、読みにくかった場合は遠慮なく教えてください。
フォローやスキなどしていただけるととても励みになりまする。

では、また次の記事で。


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