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「へそ」の裏を「そへ」と言う

今日ふと、へその反対側(背中の中心やや下あたり)のことを「そへ」と言う、と幼稚園で教わったのを思い出した。きっかけが何かはわからないが、一日のうち何時間かを温泉に浸かりながら過ごす、なんてことをしたので、視界に映ったへそが何か語りかけていたのかもしれない。あるいは、裸であたたかい液体に浸かり続けているうちに、羊水を郷愁していたのかもしれない。

教わった当時は園児ながらに「へその裏がそへ!?そんなはずないやろ」って感じたのをはっきりと記憶しているが、やっぱりわたしは小さい頃からわたしだったようで、穿った見方をしてしまう子どもだった。
(そして実際、二十年越しに「そへ」を調べてみたが、手元の電子辞書には「そへ」と言う言葉は出てこない。)

でも、へその裏を「そへ」と呼ぶその言葉遊びはとても面白いものだと感じていた。「へ」「そ」を逆さにして、「そ」「へ」なんてそのまま過ぎるじゃないか。そのくだらなさと、でも同時に、わたしの「そへ」が言葉によってあたたまっていく(意識されていく)のに不思議な心地を覚えたものだった。

言葉遊びは幼い頃から好きで、児童特有の、言葉を使って人を貶めるゲーム(もうちょっとニュアンスの柔らかい語彙を選びたいところだけど)なんかも、積極的にやっていたような記憶がある。ダジャレもよく口にした。今は「社会性」を身につけているので、思いついたギャグのうち、「寒い」ものはすぐ沈黙の海に放擲してしまうが、それでも面白い響きの言葉があったら、つい反応してしまうし、ひとり反芻して遊んでいる。


これは就活の準備でもないし、こじつけは嫌だけれども、わたしが詩を好きでいて、それでまた詩を書いたりしているのはもしかしたら幼稚園時代に端を発しているのかもしれない。

臍とは胎児が母体から酸素や栄養をもらうところであり、また母体へ老廃物を受け渡すところである。胎児のへそは母体の「そへ」と繋がっている。だが産まれ、へその緒が断たれると、子は口から食物を摂取し、自らの肺で呼吸しなければならない。

産まれ、へその緒が断たれてから後、子ども向け詩集をよく読んでもらった記憶がある。その人が母であったかは定かではないが、それは先に生きている人間から後に生まれた人間への、へそ−そへを使わないタイプの栄養、酸素の授受であった。今は家族とのやり取りが著しく減ったが、詩がわたしを養っていることに変わりはない。詩は今も栄養であり、わたしの酸素である。

自然を割って出てきた人間は、自然に還りたい願望とせめぎあいながら人間を作り上げてきた。派手に言わせてもらえば、わたしにとって詩作とは自然を超え出で、人間を作り上げる(人間として作り上がっていく)ことを目指す過程だと言えるのかもしれない。

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