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映画『氷の花火 山口小夜子』──からだはからだ

「いま渋谷で山口小夜子の映画が再上映されています、よかったら」というメッセージが来た。自身も山口小夜子ファンであり、影響を受けているという紫闇ちゃんからのDMだ。

かねてから観たいと思っていたこの映画がやっと観られる。すぐに映画のチケットを予約した。

以下は、映画『氷の花火 山口小夜子』に触発されて書いた感想エッセイである(約3,000字)。この映画は生前の山口小夜子さんと親交のあった松本貴子監督が、山口小夜子さんと関わりのあったひとたちへインタビューをしながら彼女の半生を追うというドキュメンタリー映画である。


model

山口小夜子は語の強い意味で「model(モデル)」であった。つまり、「ものさし」であり「基準」。ただ「美しい」ひとというのは珍しくない。時代の流行に沿った「美」の表現者、一定の物差しのうえで「美しい」とされる基準を満たすひとは、たくさんいる。だが山口小夜子というひとが成し遂げたのはその物差しを新たに作るということであった。その物差しが古びていないのは、今日の芸能人やメジャーなアーティストもしばしば彼女の美の基準を模倣しているところを見ればわかる。山口小夜子という、SAYOKOというスタイル。

山口小夜子さん自身もこのペルソナを「小夜子さん」と呼ぶことがあったと天児牛大さんがインタビューで語っている。切れ長の目も、カメラを向けられてから目を細めて作っていただけで、山口小夜子さん自身は大きな丸い目をしていたという話もある。

「山口小夜子」という言葉を口にするとき、わたしは一個人の名称を呼んでいるというよりは、何か輪郭の定まらないある種の「美」そのものを名指しているような気分になる。まるで一篇の詩を前にしているかのようだ。映画の最終部で描かれる、山口小夜子さんの遺品を元に「山口小夜子」を復活させるというプロジェクトも、山口小夜子というひとりの美しいひとというよりかは、ひとつの美のスタイルを再現しようとしているように見えた。


からだはからだ

からだは「から」だ。空でもあり、殻でもある。一節引用する。

人とのコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じこもりがちな積極性に欠ける子どもだったわたしは、着るという仕事の中で次第に解放されていきました。そして行きついた答えは、服は身体を保護するもので、身体はこころの真の衣服、こころは身体を着ているということです。着替えることの出来ない身体だからこそ、大切にしたいと思うようになりました。

『山口小夜子 未来を着る人』(河出書房新社)

あるいは映画の中で山口小夜子さんは「自分を空にすると、服が動き方を教えてくれる」という旨のことを言っていたが、このからだはそれ自体では「空」であって、衣服を着ると同時に衣服に着られることによってこのからだは「からだ」になる。そのようなこころとからだを含んだ錯綜体のことを市川浩さんは〈身〉(み)という言葉で表現しているけれども、山口小夜子さんはそのような〈身〉のあり方に極めて敏感なひとだったのだろうと思う。

服を着る、という。だがそれは本当は服を着ることの一面しか表していない。「われわれが道具を自由にするという組みこみの自由の方が、組みこまれの強制力より大きくみえるところから、道具に支配され、組みこまれていることに気づかないだけです」(『〈身〉の構造』)と市川浩は言うが、服を着るときに、このようにしか着ることができないという衣服の側からの強制力に気づいてこそ、わたしたちは服を「着こなす」ことができる。

山口小夜子さんは着られ上手だった。そしてだからこそ、反転した形で服に着られた山口小夜子さんがネガのようにして美しく立ち昇ってくるのだろう。山口小夜子さんはモデルをするとき、どんな衣服でもためらわずに着たという。透けるとか透けないとか、長いとか短いとか、明るいとか暗いとか、重いとか軽いとか、そういったことに頓着するのはまだまだ服を一方的に着ようとしているからで、服に着られる愉しみを知ったとき、そのからだは、〈身〉は、どこまでも開いていくのだろう。


着るということ

わたしたちは日々衣服に身を包む。化粧をし、身だしなみを整える。あるいはピアスを開け、タトゥーを彫る。そういった様々な身体加工をしながら〈身〉として生きている。そしてそこには否応なく他者が絡んでいる。

 身体の70%は水で出来ています。その水の身体を包む衣は土の栄養や太陽エネルギーを十分に吸収した繊維を紡いで織られます。そして丁寧に裁断し縫製され、多くの人の手を経て服が生まれ店頭に並びます。たくさんの工程は自然の摂理を含んだたくさんの命そのものです。
 わたしたちは……一人では生きていけないのです。だから……自分のことだけを考えるのではなく、他に対してこころを向けてほしいのです。あきらめないで……見返りを求めないで接してみてください。水や植物、鉱物、動物、機械、そして他人に対して……。
 自分中心になりがちな中で、他の物や人の立場に置き換えてみるこころがほんの少しでも生まれたら、すてきなことでカッコイイことです。そのこころが幸せへの第一歩であり、ファッションなんです。

(同前)

この文言が読めるだろうか。化学繊維があるとかないとか、そういう話ではない。他者を迎え入れ、他者へ与えることはわたしたちの生そのものだ。

すべての生命は生きていくために、他の生命に依存します。そこに生態系という……宇宙のような……循環することで持続する命の輪があるのです。人間は料理してきれいに整える。すなわち器を選び、取り合わせ、盛りつけるという一連の行為は、人間が自然をもてなしているのです。

土井善治『味つけはせんでええんです』(ミシマ社)

ここに引用したのは土井善治さんによる料理についての一節だが、これをそのまま服を着る/着られるということに置き換えてみたらどうだろうか。

すべての生命は生きていくために、他の生命に依存します。そこに生態系という……宇宙のような……循環することで持続する命の輪があるのです。人間は衣服を身につけてきれいに整える。すなわち衣類やアクセサリーを選び、取り合わせ、飾りつけるという一連の行為は、人間が自然をもてなしているのです。

土井善治さんは「料理は地球(自然)と人間を結ぶもの、地球と人間のあいだに料理がある」と言うが、衣服もまた、地球(自然)と人間を結ぶものであり、地球と人間のあいだに衣服があると言うことができる。

と、ここまで書いてきて、わたしは衣食住という言葉を思い出した。まさに衣服も料理も、人間が生きるうえでなくすことのできない基本的な営みではないか。わたしたちが生きるということは、つねにすでに他者に依存しているということであって、だから、他者を迎え入れ、もてなすことはわたしたちの生の必然でさえある。


山口小夜子さんへの憧れ

憧れというのは、そのひとのようになりたいということである。山口小夜子さんに憧れるとは、山口小夜子さんのように生きようと願うことである。だがそれは冗談めかして言われるように〇〇の顔面になりたい、とかそういうことではない。髪型を黒髪のおかっぱにして切れ長のアイメイクをするということではない。そうではなく、各々の「着替えることの出来ない身体」でもって、着ることだ。飾ることだ、生きることだ。山口小夜子さんという表面に焦がれることではなく、その生き方にこそ敬意を払い、そのように生きようとすることだ。それがうまくいったとき、「山口小夜子」が生まれる。黒髪でもおかっぱでもないかもしれないが、それがあなたの「山口小夜子」である。それが山口小夜子に憧れるということだ。

……ではわたしも、ということになる。自分の衣類を見渡す。ここにもしっかりと他者がいるではないか。さて、どの服を着ようか。どのように取り合わせ、彼女ら彼らをもてなそうか。

散歩に出るのが楽しみだ。外は寒いだろうか。


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