Shooting Star

 他人の書いた日記が楽しいことはそうない。書いた人物に興味を持っているか、あるいは内容が波乱に満ちているかしない限りは飽き飽きとしたものだろう。それは自分が容易に追体験できることばかりが記述されているからである。「朝に目覚め、近くのファーストフード店で朝食を取り、その後近所の図書館で昼まで過ごすと、コンビニエンスストアで買った弁当を公園で食べた」 そのような内容は日記としては正しいが読み物としては堪えることは容易に分かるだろう。問題は容易に追体験出来るということだ。代わり映えのない日常を読まされても得るものがない。しかしそれは逆に考えると、容易に追体験できなくなれば我々の日常をただ書いただけの日記も学術的と言えるほどに情報を持った資料になってしまうことを指す。江戸時代の日記というものは今では立派な学術的資料であり、日記という形態は我々が現代書いているものとそう違いはない。ただその内容が容易に追体験出来ない、つまりは時代が変わったために貴重な資料となったのだ。数百年後には「近くのファーストフード店」「近所の図書館」「コンビニエンスストア」「公園」という日記の記述が研究に値することばとなっているのだ。
 日常を学術的な資料と変えるのは時間だけではない。土地も代表的なそれである。沖縄に住んでいる人は北海道に住んでいる人の日記を読んで自身と異なる生活に驚くことが出来る。逆もしかり。そうした研究はもちろん相手の日常を知ることが出来ると同時に、自分の日常の特異性にも気付くことが出来るのだ。つまり異文化を知ることで自文化を再認識するのだ。
 人類学の基礎を築いたマリノフスキーは少民族の生活や文化を専門的に調べた。彼が評価される大きな理由は「フィールドワーク」を研究に取り入れたことである。それまで人類学者は調べたい民族の近くにテントを立て、現地人をテントに呼び面接を行う形で彼らの生活を質問して暴いていった。しかし、そうした形では実りある研究は出来ないだろうとマリノフスキーは考えた。日常とは、我々が同時代の人の日記を見ても退屈であるように、時間や土地を経過させてようやく意識できるものなのである。彼らが意識していないところに大事な異文化要素が眠っているのである。マリノフスキーは積極的に現地人の仲間に加わり彼らの生活を共有しようとした。事前に現地語を学ぶことで通訳を介さず、研究者ということを忘れてもらうために仲間意識を強調するように親しげに接した。彼は今日につながる文化人類学の基礎をこうして築いたのである。

 興味深いのは彼の死後、彼の日記が妻の手により出版されたことである。フィールドワークの際につけていた日記だ。生前、彼の書いた論文は冷静で客観的な視点によって観察された資料価値のあるものであり、そうした資料は彼の性格をよく顕していると他の研究者ないしは読者に思われていた。しかし、彼の残した日記には現地人を激しく罵る言葉や、自由の利かない土地で溜まる性欲のはけ口に苦悩する日々を綴っていた。彼の世間一般的なイメージとはかけ離れた事実がその日記には並べられていて当時は大変話題となった。日記が資料として活躍するのに著名な人間のスキャンダルという点は大きく活躍するようだ。

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