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後藤 ひとりはロックなのか?(アニメ『ぼっち・ざ・ろっく! 』レビュー)


ある日7歳の娘に質問された。「パパはどうしてギターを弾きたいと思ったの?」と。僕は「○○ちゃんも、あの歌が歌いたいとか、あの曲が弾きたいとか思った事ない?パパもそんなふうに思ったからだよ。」と、言い終わるか終わらないかに脳内で「娘に嘘をつく気か!?」という声がした。だから「でもそれは2番目の理由で、1番目の理由は人気者になりたかったからだよ!」と言い直した。アニメ『ぼっち・ざ・ろっく! 』の主人公「ぼっちちゃん」こと後藤 ひとりも人気者になりたくてギターを始める。ただ極度の人見知りで陰キャの彼女は人前に出れないため、ギターは上手くなるが人気者にはなれず中学3年間を終えてしまう。そして高校生活がスタートするところから物語は始まる。僕も、高校は軽音部でバンドをやりギターを弾いていた。そんな親近感からこのアニメを見始めた。

しかし物語の前半、期待していたより微妙な印象が続く。正直、第6話位までどんどん冷めていった。その理由は、物語の展開にあまりにも現実味が無いからだ。ぼっちちゃんが幸運過ぎるのだ。公園に居たら幸運にも緊急にギタリストを探している子(ドラマーの伊地知 虹夏)が現れて初ライブをする。幸運にも虹夏の住まいの地下に虹夏の姉が店長のライブハウスがある。幸運にも同じ学校に虹夏の親友であるベーシスト(山田 リョウ)に憧れる子(喜多 郁代)がいて歌が上手い。そして、ひとり、虹夏、リョウ、郁代で「結束バンド」という名のバンドを組む。さらに幸運にも売れてるバンドの先輩(廣井 きくり)と偶然友だちになりアドバイスを貰うようになる。このような幸運が続く、いや続き過ぎるのだ。

この度重なる幸運に冷めていく一方で、こんなに幸運が続くのはフィクションだからで片付けて良いのか?もしかしてこれが現在のリアルではないのか?逆にこれだけ幸運じゃないと成功しない世界になってしまったのではないのだろうか?と考えるようになっていった。特にバンド活動において思い当たる例をあげよう。現在40代以上、2000年代以前にバンド活動で青春していた仲間と飲んだ時などに結構な頻度で話題になるのは、今のギタリストやベーシストは恵まれているという話題だ(かなり嫉妬が含まれているが)。何が恵まれているのか?YoutubeとSNSがあるということだ。僕らが10代20代の頃、ギターの練習はCDを聴き、真似して弾く「耳コピ」という作業か、ギタータブ譜(図1参照)を見て練習をしていた。耳で聞いた音は聞き間違いもあるし、タブ譜もよく間違いがあった。

図1 ギターのタブ譜。6本の線は、上から1弦〜6弦。数字はフレット数を表す。


したがって本当はどう弾いているのか100%正確に分からないまま練習をしていた。もう少し詳しく説明しよう。ピアノのように全ての鍵盤が違う音が出る楽器と違い、ギターやベースという楽器は、違うところを押さえても同じ音が出る構造になっている(図2参照)。

図2 ギターの例。同じマークが同じ音。マークの無いところも同じ位置関係で同じ音が出る。


だから憧れのバンドのライブへ行った時に初めて本人の弾き方を目撃し「え!こうやって弾いてたの?」ということが多々起きていた(滅多に見れない外人は特に)。対して現在はYoutubeで本人の演奏を簡単に確認することができる。このように現代のバンドマンは、最適解を手に入れるコストが格段に低くなっているのだ。そしてみんなが高いスタートラインから競争することになってしまった。だから成功するには運の要素が大きくなってしまっている、つまり運ゲー(※)になっていると考える事ができるのではないだろうか?もちろん情報が多過ぎる現在だからこそ立ち止まってしまう人もいるし、だからこそ行動力がモノをいうのだという反論もあるだろう。しかし、ぼっちちゃんが幸運にも行動力のあるドラマーの虹夏に出会っているように、そこも運である。つまり自分に行動力がなくても、行動力のある仲間に出会うかどうかの運次第なのだ。そして出会いの数は、SNSにより飛躍的に、無い時代に比べアップした。

このように運ゲーになってしまった現状は、ロックという音楽にとって致命的な欠点になる。皆が最適解を持っている運ゲーにおいて、成功の鍵は回数になる。運次第ならクジを多く引いた者が勝者になるからだ。クジを多く引ける者は当然富める者になる。つまり「持つ者」が成功するということだ。だがそれはロックではない。なぜなら、誰もが知っている通り、ロックは「持たざる(若)者」の音楽として発展してきたからだ。ジミヘンが楽譜が読めなかった例を挙げるまでもなく、「持たざる者」が這い上がるツール、それがロックだ。だから幸運過ぎるぼっちちゃんは、結束バンドは、ロックじゃないという結論になる。だから僕は冷めていったのだ。ではロックじゃない「ぼっち・ざ・ろっく!」は、そのままつまらなくなったのか?答えはノーだ。反対にメチャメチャ面白くなっていったのだ。何故か?幸運な結束バンドの成功は約束されているのでそこは無視してよい。そこにロックはないのだから。しかし、ぼっちちゃん自身は凄まじくロックだったのだ。それもギターと関係ないとこで。コミュニケーションが大の苦手、陰キャ、つまり人間として持たざる者が、人気者という人としての成功を手にするかしないかのハラハラドキドキの過程、挫折と復活、その成功譚に興味が移っていき目が離せなくなっていったのだ。

そしてこのアニメの素晴らしいところは、今後のロックの行くべき道をも表しているところだ。前述のように、現在のロックの担い手の若者は残念がら「持つ者」になってしまった。そんな中でどうすればロック特有の「持たざる者」が高みを目指すダイナミズムを表現するという事が可能になるか?その答えは、ぼっちちゃんの周りの登場人物の態度が手本になる。ぼっちちゃんの家族は暖かい。隠キャの彼女を否定しない。コミュケーションが下手なぼっちちゃんを否定しない。結束バンドのメンバーもそうだ。ベースのリョウがぼっちちゃんの考えてきた歌詞にアドバイスするシーンがある。人目を気にして無難な歌詞を書いてきたぼっちちゃんに、色々考えてつまらない歌詞を書かず好きなように書けとアドバイスする。これらはつまり否定しない教育だ。この否定しない教育で、ぼっちちゃんのコミュニケーションが下手というロック性は花開くのだ。また簡単に言えば、ロックは下手で良い。下手なほど良い。ということだ。極論のように聞こえるかもしれないが意外に実例は多い。小さい例で言えば、漫画家やロックバンドでよくある、初期作品の方が「下手だが、個性的で良い」というあるあるネタ。また誰もが認める大芸術家の岡本太郎も事ある事に下手な方が良いと言っていた。

「下手なほうがいい。きたなくったってかまわない。へんてこならへんてこなほどいい、それこそ芸術だ」
『今日の芸術』~時代を創造するものは誰か~(岡本太郎 光文社文庫)より

だからロックの行くべき道は下手でも否定しない教育という事だ。僕はこれが1番大事なんだと考えている。僕の娘は漫画家になりたいと言う。でも絵が下手だ。歌手になりたいと言う。でも歌が下手だ。だけど、それで良い。そのまま目指してよい。僕はそれを応援する。それがロックだから。


<注>
※『運ゲー』とは、ゲーム用語の一つで、プレイヤーの腕より運の要素が強いゲーム・事象を指す。(ニコニコ大百科)
https://dic.nicovideo.jp/a/%E9%81%8B%E3%82%B2%E3%83%BC


<参考サイト>
著作権フリー タブ譜サイト「songsterr」


<参考書籍>
『今日の芸術』~時代を創造するものは誰か~(岡本太郎 光文社文庫)


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