Z1104 教育社会学【設題1】

学歴社会とは何かを明らかにし、高学歴化が進行すると教育はどのように変化するのかについて、学力の視点から述べてください。
1. 学歴社会とは何か
(1) 学歴社会の意義とその射程範囲 
 「学歴社会」と混同される言葉として「高学歴社会」がある。「高学歴社会」とは、単に「高学歴者の多い社会」を意味する。これに対して「学歴社会」とは、「社会における社会的・職業的地位などの配分の基準として、学歴が重きを占める社会」と定義される。
 すなわち、学歴社会とは、当該社会の社会的・職業的地位を決める主たる基準の一つが学歴であるような社会である。この社会的地位・職業的地位の意味合いはより広義に捉えられ、就職・昇進、結婚などの判断基準となることで、批判の対象となってきた。
 また、学歴社会の基礎部分には公教育がある一方で、しつけや学業、スポーツ活動の何もかもが学校で展開されるようになってきた今日の学校教育は、その役割が過度に肥大化しているとの指摘がある。学歴社会の根幹たる教育は、本質的な意義を考えたとき、学校における公教育のみならず、家庭や地域社会の担う部分も少なくはない。
(2) 学歴社会の評価
 続いて、学歴社会が具体的にどのように評価されるか、についてはいくつか類型化される。
第1に「漠然とした社会的評価」である。大企業への就職率、偏差値、国家公務員試験合格者数など、漠然とした評価基準が蔓延しているが、これが全体を細部まで捉えた正しい評価基準とはいいがたいものの、一定の社会一般の理解を得られるものである。第2にブランドとしての大学評価である。これは、就職や交友関係、結婚などに影響するという。第3に人的資本論(=学歴の機能的評価)である。これは、知識・技術の水準が学歴によって表現されると考える理論である。例えば、医学部・医科大学の場合、よりよい大学はそうでない大学と比較して教授陣はじめスタッフや設備面で優れており、同僚、先輩などの周囲の環境がより良いものであれば、そうでない環境で学んだ人よりも平均的に見て高い水準の医療技術、知識を身につけていると考えられるものである。つまり、学歴の高低が学習内容のレベルの高低とダイレクトにつながるという理解である。第4に、スクリーニング仮設がある。これは、学歴がその人の知識や技術・技能の基準を表すとは考えない一方で、学校歴はその人の訓練可能性を表すからである。すなわち、OJTなどで職業的訓練を同じように受けたとき、より的確に身につけ、より高いパフォーマンスを示す指標として用いられる評価である。第5に統計学的差別理論である。これは、学歴がその人の教育履歴と知識・技術の水準を表すとは考えず、またスクリーニング仮設とも異なり、訓練可能性が大事であるとも考えない。会社であれば、人事部に蓄積されている○○大学出身の先輩は✕✕だという、企業への貢献度をもとに評価するものである。
(3) 学歴社会をとりまく問題と批判
 学歴社会への問題点として、第1に「さらなる学歴社会化」がされるという批判がある。例えば、ロースクール、ビジネススクールなどの専門職大学院が広まる背景には行き過ぎた学歴社会であるという批判が否めない。第2に「学歴がその個人の何をどのように表すのか」という批判である。これは、学歴の主たる部分を示す大学入学試験を受験する18歳から20歳ごろの時点での学力を示すにすぎず、若いときに獲得した学歴がその日との将来の可能性を拘束するということである。つまり、学歴は一種の身分を表すものである。学力は、その人のもつ多面的な実力、能力のごくごく一部しか表現しないにも関わらず、それがあたかもその人の人格をも評価してしまうという批判はもっともである。

(4) 国際社会から見た日本型学歴社会
 諸外国と我が国の学校システムの点から見て、わが国の階層型教育は、学歴社会化しやすい、受験競争が長期化、過熱化しやすい社会であるという特徴がある。それは他方で学習者に様々な可能性が残されていて、決定的な進路振り分けが行われないため、より良いものをつかみ取ろうと競争が激化するのである。ヨーロッパにみられる分離型などの場合は、将来が早い段階で見えてしまうので、受験競争も社会をあげて過熱するものではない。

2. 高学歴化が進行するとどのように変化するか
(1) 高学歴化となる背景と帰結
 前述のとおり、学歴社会がもたらす批判としてさらなる学歴社会がもたらされるとした半面、わが国における大学進学率は年々上昇している。この背景には少子化、大学の定員問題などはあるが、これまでの高等教育機関としての大学というにはあまりにも情けない事態も引き起こしている。すなわち、大学生の低学力化である。
 大学生の学力低下は、要するにこれまで大学に入れなかった層が大学生になることによって引き起こされていたともいえるのである。このほか、この学力低下論の要因として、これまで教えてきた教材の一部を削除、あるいは教える時期を遅らせるという「ゆとり教育」に問題があるとの指摘されている。
(2) 学力低下論
 ゆとり教育を検討する際に、「国家・社会の観点」「児童・生徒の観点」の両方それぞれ肯定的、否定的な意見がある。
 第1に国家・社会の観点からゆとり教育に肯定的なものを検討する。これは、現代の教育問題の原因に教育過剰にあるという立場からの意見である。現在の子どもの生活において学校の占めるウエイトが大きすぎ、家庭や地域社会と連携して子どもの教育に当たるべきであるという意見である。また、国の財産を限られた人材に注力することで、国家、社会のリーダーを育成すべきという立場もここに含まれる。
 第2に国家・社会の観点からゆとり教育に批判的なものを検討する。これは、基本的に高学歴化を望ましいこと、あるいは無理して変える必要のないトレンドであると考える立場である。
 第3に、児童・生徒の観点からゆとり教育に肯定的なものを検討する。この立場は、ゆとり教育によって、何が可能になるかを重視し、そこで展開される教育実践を評価する見解である。
 第4に、児童・生徒の観点からゆとり教育に否定的なものを検討する。この立場は、端的にいえば、学習内容の削減は、学習する権利の侵害であるというものである。すなわち、削減される部分を補い、さらに高度な内容を求めたければ、それなりに学習塾に通わせ、費用がかかるというものである。すなわち、家庭に財力があればより高度な学習を受けさせることができる。結局は貧富の差が学力の差である、という立場である。
 
3. まとめ
     前述のとおり、高学歴化が進行すると受験競争が過熱し、その一方で社会問題として学校でのいじめ、不適応などの社会問題が顕著となってきた。この批判に対応するため、また、限られた資源を有効に使うために、一部の人材に資源を投下するという社会(国家)の利益と、児童生徒自身が主体的な学習を行うこと、家庭や地域に教育を分散することを期待して進められた「ゆとり教育」が、結果として学力低下を招くことになったことは否定できない。
     もっとも、政策としてゆとり教育を導入する一方で、その削減部分を「地域社会」「家庭」と漠然とした社会に責任転嫁することは、結果として家庭の財力が児童・生徒の可能性や将来を決めるという批判を招きかねないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?