M6104 日本文学概論

第1設題 国学の歴史と日本文学研究の歴史を調べ、その類似点と相違点、および、問題点についてまとめよ。

第1.国学と日本文学研究の意義
 国学の歴史を調べるにあたり、その言葉の意味を正確に知る必要がある。辞書で調べてみると、「古事記・日本書紀・万葉集などの古典の、主として文献学的研究に基づいて、特に儒教・仏教渡来以前における日本固有および精神を明らかにしようとする学問。 」と書かれている。「日本固有および精神を明らかにしようとする学問」とはどういうことか。すなわち、従来は「和歌の鑑賞や解釈は、堂上(昇殿を許された歌学の流派の秘伝として伝えられ、その権威は古今伝授を受けた歌学の流派の)秘伝として伝えられ、その権威は、有職故実の学問によって守られていた。こういう伝統的な学問に対して、知識の公開性と相互批判を重んじながら、立ち戻るべきものとして日本の「古」を文献の正確な解読によって明らかにしようとする 」のが国学である。つまり、これまでの伝統や考え方にこだわらずに、書物の究極的な本質を捉えるというのが国学の起源であると考えられる。
また、一方で日本文学(国文学)については、「日本人によって日本語で書かれた文学作品の総称。 」つまり、わが国で書かれた文学についての本流であると考えられる。その時代的な流れは、「上代 (奈良時代) ,中古 (平安時代) ,中世 (鎌倉時代,南北朝時代,室町時代) ,近世 (安土桃山時代,江戸時代) ,近代 (明治時代以後) の5期に分けられる。 」とされ、「主として朝廷・幕府・政府などの権力の中心がどこにおかれていたかによっている。 」確かにその通りである。日本文学でいう著名な作品は、それぞれの時代の都があった場所で記されたものであろうから、必然的に京都、奈良、大阪、江戸での作品が多くなる。なお、これらの著名な作品は身分や地位の高い人が記すため、当時の文化が網羅的に記載されいるわけではないという点が指摘できる。すなわち、庶民的な文化が反映されていない。つまり、平安時代に女性が着用していたとされる十二単は、もとより皇室や身分の高い人だけのものであって、一般庶民はそのような服装はしていなかったと考えるのが普通であるが、そのような書物は残っていない(あるいは著作となっているものはない。)と考えられる。また同様に興味深いものが、一般庶民の文化の一つとして今日に続く伝統に「五山の送り火」がある。京都市内の山々に「大・妙法・船形・鳥居・左大文字」を次々に点火し、先祖の魂を天国に送る宗教行事である。この著名な行事の起源は諸説あり江戸時代中期とも後期ともいわれるが、書物が残っていない等の理由で定かではない。また、百年ほど前までは「十山の送り火」であったという説もあり、これも書物として残っていないために、正確な情報はわかっていない。
 このように、つい最近の事柄であっても、書物として残っていないと確かな情報としては不明なものが多く、逆にいえば、書物として残っている文学は、その当時の世の中の一部を垣間見ているだけなのである。国学の出発点と共通するが、日本文学を読む際には、そこに書かれている事柄、内容すべてが文化の全てという観点で見るのはいささか危険である。

第2.歴史の概観
 次に国学について辞書的な意味は前述のとおりであるが、次に歴史的概観を見ていく。江戸時代に入ると、「徳川幕府は朱子学を幕府の学問と定め、(中略)儒教の影響が強まった。これは、儒教が主従関係の忠孝を強調するなど、幕藩体制の維持に都合がよかったから 」である。このころの日本文学は、日本が仏教を受け入れたことにより、インド文学の影響が間接的にみられたり、中国文学の影響が見られたりした。
このような幕府の都合で学問を統制されることに疑問を持った学者らは、朱子学や儒教などの諸外国の影響を受ける以前の日本古来の文化、精神を研究した。国学とはこの研究の中で生まれた。
つまり、日本文学研究の歴史を時代の帯として考えるとき、ある地点で分流したものが国学であるといえる。このような幕府に対する反対の精神が背景にあるという事情から、国学を捉えるときには、純粋に文学的な学問を探求するものというよりは、当時の幕府が推奨していた儒教、仏教文化に反対しており、日本古来の文化や神道の精神を重んじた立場に立った著作となっている。すなわち儒教や仏教の考えより神道の文化が優れているというメッセージを書物を通して人々に伝えたかったといえる。そこにはやはり宗教的な優劣観があることは否定できない。

第3.代表的な国学研究者と国学について
 国学の先駆者としては契沖と荷田春満が著名である 。契沖は真言宗の僧侶であり、万葉集の注釈書である『万葉代匠記』を著した。その中で、「古」と「今」の距離を踏まえた方法的な自覚が表明されている。また、荷田春満は『創学校啓』を著して、幕府の力で和学の学校を京都に作ることを主張した。その後、賀茂真淵が荷田春満に学んだ。
 その後、本居宣長により国学が大成されたといえる。本居宣長の思想には、大きく2つの核があるとされる。ひとつは『源氏物語』や和歌の研究から導かれた「もののあわれ 」論であり、もう一つは、神道に関わって「古道」論と言われている。また宣長は、「神々の大きな力に包まれているのが人間であり、神々の計らいは、人間の観念や理性、思慮の及ばない霊妙不可思議なものとしてある 」としている。つまり、究極的に古文の研究、本質の理解を追求した結果、一方では神道は仏教や儒教を超越した存在とした宗教観さえも生み出してしまった。
 国学について高校の教科書で深く触れられなかったのは、歴史的な問題から、やむを得ず宗教観に触れざるを得ないからであろう。しかしながら、この考え方は、戦時中までは国民の間に浸透した考えだったのかもしれない。だから余計にそのような考え方、宗教観はタブーとされ、知らず知らずのうちに教育現場からフェードアウトしたのかもしれない。
そもそも、今日、日本人が平和な民族でいられるのは、わが国が宗教に関して唯一無二の存在を認めていないからであろう。すなわち宗教に対する許容性があるからに他ならない。もっとも、世界中の紛争の多くは宗教を起因したものである。
国学の理解を深めると、仏教や儒教の考えに対して排他的になる可能性が否定できないのである。しかし、今日これだけグローバル化が進み、世界各国では宗教的な対立が深まるなか、異なる考えに対してどのように受容していくかという点で国学を研究することは非常に興味深い。

第4.まとめ
 特に近現代(明治以降)の日本文学は、著しく発展し、多くの著名な作家が世に排出された。夏目漱石、芥川龍之介、二葉亭四迷などがそうであろうが、単に政府や世間の流れに対して賛成をする立場をとらない場合や、社会に問題点を提示するときこそ、文学の発展する分岐点なのである。歴史的な経緯からストレートに主張をすることができな時代には、書物を通じて世の中に対する「これでいいのか?」というメッセ―じを発信し続けることになる。近現代の日本文学やジャーナリズムの興味深さはこの点にあるが、その権力や大多数、マイノリティに対する疑問を言論でもって発信する礎を作ったのは、国学に他ならないであろう。当時の幕府(現、政府)に対して、本当にそれでいいのか、といった疑問を投げかけるスタンスで国学が発展していったと思われるが、その当時の作家たちの、政府や朝廷に対する想いを文章に表現するという術は、近現代の日本文学者たちは継承しているといえる。

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