M6104 日本文学概論【第2設題】

第2設題 芥川龍之介の『鼻』を読み、出典と比較して論ぜよ。
第1. 芥川龍之介の『鼻』と出典
 『鼻』は芥川龍之介により1916年、「新思潮」の創刊号で発表された。『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」および、『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧のこと」を題材としているとされる。『鼻』は、芥川龍之介の『老年』、『羅生門』に続く3作目とされ、それは夏目漱石に「あなたのものは大変面白いと思ひます 落着があつて巫山戯〔ふざけ〕てゐなくつて自然其儘 の可笑味〔おかしみ〕がおつとり出てゐる所に上品な趣があります 」と書簡で絶賛された。芥川のこのころの作品「羅生門」と共通する部分として、人間の本質的な心理、行動について的確に表現されている点が極めて特徴的であるといえる。
 以下、出典とされる『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」および、『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧のこと」と比較して論じる。

第2. 出典との比較
1. 主人公の設定
 『鼻』の主人公である「禅智内供」は、非常にデリケートな自尊心の持ち主であると描かれている。このことは出典の『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」および、『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧のこと」では描かれておらず、芥川龍之介のオリジナルな世界観が出ている、ということが言える。すなわち、この内供の心の動きや心理的な葛藤をおうことが、「鼻」を理解するにおいて肝要である。
2.鼻がどうなったか(あるいは、どうしたか)を比較
 では、タイトル通り鼻がどうなったか、という観点で比較してみる。
芥川「鼻」では、内供は、①鼻が長いのが不便であった、②鼻が長いことで「傷つけられる自尊心のために苦しん」でいた。そのために鼻を短くしようと試みるのである。
 一方、『今昔物語』「池尾禅珍内供鼻語」や『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧のこと」では、主人公禅珍の鼻は、「いつも痒くて仕方がなかった」としており、その対応として、穴を開けた盆に鼻だけを差し込み、そこに湯を入れて十分に浸す。茹で上がりを弟子に踏ませる。すると毛穴から出てくる白い脂を毛抜きで抜き、その状態を再びゆでると普通の人と同じくらいに小さくなる。しかし、2,3日経つと再び痒くなり、元のようにはれ上がってしまうので、この方法を何度もやっている。としている。この部分からは、主人公禅珍の人間性および心の動きについては読み取ることができない。
 このことから、芥川「鼻」では鼻を小さくする理由として、主人公の自尊心の傷つき、すなわちコンプレックスが主なものである。一方で、出典の『今昔物語』「池尾禅珍内供鼻語」や『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧のこと」では、そのような内面的な理由はない。
 つまり、この主人公のプライド、自尊心、心の動きについては芥川龍之介のオリジナルであるといえる。芥川龍之介のこのころの作品である「羅生門」でも心の動きに関する描写は丁寧にされている。
したがって、芥川龍之介が表現したかった世界観というのは、事実の描写の裏側にある主人公の自尊心、プライドであり、しかもその鼻の持ち主が地位の高い僧であり、周囲から敬われる存在であるゆえ、本人もそれを意識してか、自分の身なりを気にしているという風には見せないように振る舞うというギャップも相まっている。この点の面白さに夏目漱石は賛辞を送ったのだろう。
2. 展開について比較
 さて、芥川「鼻」では、主人公の自尊心を中心に描かれているが、出典の『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」では特に後半の展開部分を理解することが物語全体を把握することにつながる。この点を比較したい。
 『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」では主人公禅珍の鼻が大きく、毎日食事をする際にある特定の弟子の法師に板を鼻の下で添えさせ、食べ終わるまで待たせていた。ところが、ある日その弟子の法師が寝込んでしまった。食事ができない主人公禅珍が困っているところへ、一人の童が弟子の代わりに鼻の下の板を持つといってきた。禅珍はその童にその役を務めさせたところ、はじめは順調であったものの、最中、突然に童の鼻がむずがゆくなり、顔を背けて大きくくしゃみをした。童の持っていた木は離れ、禅珍の鼻は粥の入ったお椀の中に落ち、禅珍の顔にも、童の顔にも粥が派手に飛び散ったのである。このことで、禅珍は童を怒鳴りつけたのである。「相手がこの私であったからまだよかったものの、もし高貴なお方の鼻を持ち上げているときに、今のような失態をしでかしたらどうするつもりだ。大ばか者めが、さっさと出ていけ!」と言ったのである。こういわれた童は、「こんな大鼻の人間が他にもいらっしゃると思いですか。無茶なことをおっしゃるお坊様だ」と言い、それを聞いた弟子たちは大笑いした。
 このことから主人公禅珍は自分の鼻が大きいことに対してコンプレックスはなく、むしろ周囲からの助けに対して、当たり前であると受け止めていた。そればかりでなく、毎日助けてもらっている僧侶の代わりに来た初めての童の失敗を大きな声で罵倒する、今でいえばパワーハラスメントともいえる所作を見せている。これらの描写は、非常に自分に自信があり、周囲が自分に対してどのように感じているか、という点について無頓着な禅珍が描かれている。
この主人公の人となりを想像しても対照的である。あくまで想像であるが、自信家で傲慢な出典の主人公を、芥川龍之介は対照的な人物に仕立て上げることでそのギャップを読者に伝えたかったのかもしれない。

第3. ジョハリの窓理論での比較
 上記のとおり全体の話を概括したうえで、それぞれの主人公の人物像をジョハリの窓理論を用いて比較する。
 ジョハリの窓とは、自分が知っている「自分の特徴」、他人が知っている「自分の特徴」を、その適合状態ごとに4パターン(窓のように見える枠)に分類することで自己理解のズレに気づき、それを受け入れることで他人とのコミュニケーションを円滑にする、心理学ではよく使われているフレームワークである。4つのパターンとは、①自分も他人も知っている自己(解放の窓)。②自分は気がついていないが、他人は知っている自己(盲点の窓)。③自分は知っているが、他人は気づいていない自己(秘密の窓)。④誰からもまだ知られていない自己(未知の窓)である。
 共通しているのは主人公の鼻が長いということであり、この事実は①解放窓に入る。しかし、芥川「鼻」の主人公である内供は「自分で鼻を気にしているということを、人に知られるのが嫌だったからである。」ということから、それをコンプレックスと捉え気にしているという点においては、③自分は知っているが、他人は気づいていない自己(秘密の窓)に分類される。このほかにも、長い鼻を小さく見せる角度を研究したり、他の著名人で鼻が長い人を探したりしていることから、自尊心を傷つけないように神経質である点は、『秘密の窓』に分類される。
 また、内供が弟子の僧侶からどのように見られているか、という点については、本文中に鼻を踏まれている内供を見る弟子が「時々気の毒そうな顔」をしている。つまり、弟子が内供を気遣っており、この描写から、弟子からの人望は厚いのではないかと読み取れる。これはジョハリの窓でいえば「盲点の窓」である。仮に人望が厚くなければ、弟子は鼻を踏まれている内供を見て、笑ったり、他の弟子たちに陰口をたたくという描写になろう。
 一方で、今昔物語に出てくる主人公禅珍の人間性について、本文の冒頭に「日頃から身を清め熱心に修行に励み、…供養や説法を事欠かすことなく行ってきた」としており、また、「境内には僧坊が立ち並び多くの僧が住み込み…」という部分から、いわば、禅珍の修行に対して熱心な姿、厳しい姿、強い力でまとめるリーダーシップの姿が想像できる。これは①自分も他人も知っている自己(解放の窓)である。しかし、「ある法師を鼻の持ち上げ役として定め、他の者には一切やらせようとはしなかった」とする点、「童を怒鳴りつける」点を見ると、リーダーシップゆえの自信家である姿、という点が②自分は気がついていないが、他人は知っている自己(盲点の窓)として挙げられよう。
 この主人公の人物像の比較を丁寧に行うことで見えてくるものは非常に興味深いものである。

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