M6108 日本漢文入門 ※論点構成

★★リポートを作成するうえで、論点メモを作成し、その中に中身を詰め込み、最後に削除したり前後の文章を整えたりする方法でリポートを作成していました。本リポートは原稿が残っていないため、論点メモを掲載します。

リポート学習の留意点
リポートは、第1設題、第2設題ともに、二冊のテキストの理解を前提とした出題となっている。設題のテキストにおける該当箇所は、下記の留意点の項目に記したので、テキストの前後も含め、その該当箇所を良く読み、理解した上で、リポートすること。

第1設題 (A4)3,200字 (縦書き) SSTnetによるリポート提出不可(ワープロ使用不可)
 日本文学における「漢文」の特長を概説せよ。

【第1設題の留意点】
漢文の定義を踏まえ、日本語・中国語の発音や語法の違いに留意の上、テキスト『古文と漢文』IV「かな」と漢字(21―33頁)を熟読して、日本語に対する漢文の特長を項目化、概説すること。

【回答】
1 漢文の定義、意義 1200
(1) 辞書的な意味での漢文とは
 漢文=①中国古来の文章・文学。現代中国語文に対していう。②我が国で、①にならって書いた、漢字だけの文章、変体漢文を含む。
 変体漢文=平安時代以降、男子の日記・書簡・記録・法令などに用いられた日本化した漢文。返読もあるが、正格にはずれた配字で、漢文に用いない語も混用している。候文(そうろうぶん)もこの一種。東鑑体(あずまかがみたい)。[いずれも出典:広辞苑(岩波書店・第5版)]
 →このことから、漢文の意義は狭義=中国古来の文章・文字と広義=狭義に加えて日本で独自に発展した変体漢文を含んだもの、と考えられ、社会一般的に、とりわけ学習上での「漢文」といえば狭義の漢文であり、「漢文・古文」といえば、広義の漢文になるのではないかと考えられる。

(2) 日本に根差した漢字文化
 漢字文化圏は世界人口の4分の1を占める。これらの国々はどれも長い歴史を持ち、それぞれ個性的である。中でも日本の幹事文化は以下の点でユニーク。
 第1に、中国でさえ、非漢民族は漢字を異民族の文字とみなしている点、日本人は漢字を「外国の文字」とはみなさない点。これは、日本人がもともとある言葉に漢字をうまく当てはめた結果だと思われる。私たちの祖先は、海外からの文化とうまく融合する工夫を惜しまなかったのだろう。今日でもその意味は生きており、このようなことは世界規模で考えたら非常に稀であろう。
 第2に、漢字に、音読みと訓読みがある点。ちなみに日本意外の国では、漢字は音読みだけで訓読みがない。これは、従来の大和言葉に漢字をうまく重ね合わせた結果だと考えられる。
 第3に一つの漢字の音読みが複数ある点。日本以外の国では、漢字は一字一音が原則である。
 第4に漢字をもとに、いちはやく民族固有のもじを創造した点。仮名文字の発明は、ベトナムのチュノムや朝鮮半島のハングルより早かった。ハングルは、李氏朝鮮王朝によって世宗の二十八年(一四四六年)にこれを制定して「訓民正音」を刊行、公布した(旗田★→山冠に魏「朝鮮史」1951・12岩波書店)。
 第5に中国に漢語を逆輸出して「恩返し」をした唯一の外国である。つまり、幕末・明治時代に日本人が作った「新漢語」は、現代の中国でも普及している。ここで、「新漢語」とは、和製漢語と解され、日本で日本人によって作られた漢語のことを指していう。
 漢字文化圏のなかで、今も漢字を大々的に使っているのは中国圏と日本のみである。朝鮮語やベトナム語は、今も漢語に由来する語彙を大量に使っているものの、ハングルやラテン文字で書き、漢字は殆ど使わない。[出典:漢文の素養誰が日本文化をつくったのか? 加藤徹 光文社新書 18~19頁]

2 漢文の伝来 1200
では、漢文はどのように日本に輸入されてきて、日本独自の「大和言葉」と融合するようになったのか、以下述べる。
(1) 伝来の時期と方法 400
弥生時代の日本祖語は、古墳時代に入って、琉球語と日本語とに分かれたとみられるが、当時、日本語には文字はなかったとされている。日本人が文字で言語を記すことを学び知るのは、早くても4世紀末から5世紀初、それ以後のことだと考えられている。
その文字とは、中国の江南地方から学んだ漢字のことある。江南地方とは、長江以南の地方を指し、温暖多雨な気候を生かして、稲作が盛んである。当時、日本人はこの地域から稲作を学んだとされる。歴史としては4世紀に五胡の侵入によって開発が進んだものであり、日本に文字が伝わった時期と一致することが推測される。この時期には、言葉ではなく、稲作をはじめとしたさまざまな文化が伝わった。
(2) 日本古来の大和ことばとの融合 400
 では、どのように伝来されてきたのか検討する。
 5世紀末から7世紀の初めにかけて、記録を担当した者は百済系の帰化人が最も多かったと考えられる。彼らはできるだけ漢文に近い文体で記録を遂行しようとしたようだが、記録するなかで、日本(当時倭国)のことについては、すでにある日本語=大和言葉である人物名、地名が出てくる。これらをどのように標記するか、について、漢字に音訳することで解決を図った。
 それは、私たちが今日、英語⇔日本語の関係でcoffeeを「珈琲」などと標記し、いわゆる「当て字」のような形で音訳をしていった。
 また、それは人名、地名にとどまらず、法華経のような漢訳仏経が伝来しはじめ、そこにも漢字による音訳の例があった。例えば、「仏陀」をbuddhaなどとした。
 このような洗礼をみてきた日本人は、地名・人名に限らず、日本語の全部を漢字に音訳することも可能ではないか、と考えたようで、和歌(教科書では「倭歌」としている)を書き留める際にそのような手法で記していったとされる。

(3) 仮名交じり文の誕生と漢字の生き残り 400
 当初は、日本語の音を表そうとしても漢字しかなかったために、日本語の一音節を漢字に音訳したものである。これらを今日、「万葉がな」の一種として「音かな」といっている。
 時代をへて、「宇」は「う」となり、「利」は「り」となり、日本語のいわゆる音の部分については、漢字の草書体を経て音字に転用したものである。
 すなわち、漢字そのものは音を表現するのではなく、一字一字に意味があり、ローマ字のような音を表すだけの文字ではない。
 そのため、日本人は表意文字(=一つひとつが特定の意味をもつ文字「広辞苑第5版」岩波書店)たる漢字から、表音文字であるひらがなを作り出したのである。

(4) 漢文の読みについて研究された時期 教科書p32 中ほど江戸時代のくだり 400
     我々日本人が漢文を読む際に「かりがね点(レ点)」や返り点が漢文学者によって行われはじめたのは江戸時代である。これが広まったのは図書の木版印刷の技術が発展したからだと考えられている。木版印刷とは木の板に文字や絵を掘りつけて作った印刷用の板を使って印刷したものであり、木版画をイメージすると容易い。
    このように考えると、平安時代ではまだ印刷技術が発展しておらず、学者はその知識を家学として、秘蔵しており、諸家それぞれに秘蔵本の漢字の四隅・上下などに朱点をつけて、これを符号として読んでいった。
    つまり、印刷技術の発展により、漢文を読んだ時の返り点や読み方が伝わるようになり、それが次第に送りがなをつけることにつながっていった。
    それでは具体的にはどのように読むのか検討していく。
   例えば、「結 ★(p28)在 人 境」という文章に送り仮名と返り点を付けると、★p28のようになる。
    すなわち「レ(かりがね)点」「1,2点」といった返り点がついていることにより、非常に読みやすくなる。さらに、レ点、1,2点だけでは解決できない箇所については「上、中、下」「甲、乙、丙、丁」「天地人」といった返り点を用いて複雑な原文に対応した。なぜ、このような必要に迫られるようになったかという点においては、日本語と中国語の語順の違いが主な原因であると思われる。
    ここで、中文と日文の語順はどのように異なるのか検討する。
    日本の中国学者藤堂明保は、中国との基本構造が、以下の5種類にようやくしうることを私どもに教えた。
1、 主語構造(AがBする。AがBだ。という場合、主語Aが先に立ち、述語Bが後になる)。
2、 修飾構造(BをAが修飾する場合、Aが先になり、Bが後になる)。
3、 並列構造(AとBとが対等に並ぶ場合である)。
4、 補足構造(Aの動作や行為が及ぶ事物をBで補う場合、BがAの後に来る)。
5、 認定構造(Aが否定・可否・逃否などの認定を表し、Bが後になる。
この5つの類型のうち、4、補足構造と5、認定構造だけが日本語と漢文の構造が違うため、この場合のみ返り点が必要になってくる。具体的には次のような場合である。
・補足構造の場合
 好戦(戦ひを好む)の場合、〇〇とする。
・認定構造の場合
 不行(行かず)の場合、〇〇とする。

3 結び 200

第2設題 (A4)3,200字 (縦書き) SSTnetによるリポート提出不可(ワープロ使用不可)
 万葉集における「七賢」について概説せよ。

第2設題の留意点
 万葉集の用例は、テキスト『古文と漢文』参考資料篇1(59―61頁)を用いること。また、竹林の七賢についても、同書60頁に簡単な説明があるが、有名な故事なので各自で調査してみること。
リポート添削・評価の基準および留意点
 リポートは、第1設題は総論、第2設題は各論の形になっている。
 第1設題については、極めて大きな課題を扱うので、漢文というものが、日本に受容された経緯を踏まえ、その具体的な問題点を各自が項目化、箇条書きに纏めた上で、その内の重要なものから説明を加えてゆくこと。要点の把握を添削・評価の基準とする。
 第2設題については、用例そのものはテキストに上げられているので、大伴旅人の十三首をよく理解した上で、そこに用いられた竹林の七賢のイメージを把握し、概説すること。また、竹林の七賢は有名な故事なので、各自それを掘り下げてみて貰いたく、七賢自体のイメージをよく理解した上で、旅人の歌における受容を概説すること。
学習の到達目標、科目最終試験における成績評価の基準および「答案」作成上の留意点
 当科目は、「漢文」というものが日本文学において果たした役割を理解し、また、漢文に対する具体的且つ、正しい理解を得ることを到達目標とする。
 科目最終試験は、いずれの問題も、漢文というものの具体的成り立ちと機能を問うもので、大きく漢文及び、漢字の二つに対する理解を前提とするものになっている。いずれもテキスト『漢文学び方の基礎』7―25頁、『古文と漢文』7―33頁から項目を出題したものなので、テキスト上記を熟読し、漢文に対する基礎的理解を深めておいて欲しい。
 評価の基準は、問題のポイントを押さえていることを及第点とする。従って、設問の主旨を外れた答案は、評価の対象とならない。そして、問題のポイントを押さえた上での、具体的且つ、正確な解答を目指して欲しい。


第2設題の留意点
 万葉集の用例は、テキスト『古文と漢文』参考資料篇1(59―61頁)を用いること。また、竹林の七賢についても、同書60頁に簡単な説明があるが、有名な故事なので各自で調査してみること。
 第2設題については、用例そのものはテキストに上げられているので、大伴旅人の十三首をよく理解した上で、そこに用いられた竹林の七賢のイメージを把握し、概説すること。また、竹林の七賢は有名な故事なので、各自それを掘り下げてみて貰いたく、七賢自体のイメージをよく理解した上で、旅人の歌における受容を概説すること。

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 第三四〇番の歌である「七賢」の理解を深めるために、まず万葉集について概観する。

1. 万葉集の構成について 509
(1) 成立時期・時代背景
 万葉集は7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂されたとされるが、そのころ、わが国では次のような出来事が起こっていた。620年、聖徳太子、蘇我馬子ら「天皇記」「国記」を編纂。645年、大化の改新。701年、大宝律令完成。710年平城京遷都。752年東大寺大仏開眼供養。
 これらを踏まえると、この時代は中国から書籍が入ってきて国内で定着するとともに、外国との関係を意識し、国家の形成を図った時代(律令国家の時代)といえる。そのような中で万葉集の歌はできてきたことを抑えておきたい。
(2) 筆者
 地位・身分の差を超えた人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものである。二十巻それぞれの編者がいて、最終的には大伴家持によって編纂されたとする説が有力である。
(3) 内容
 万葉集は、地位・身分の差を超えた歌が掲載されており、一般に文字は高官が使用するものとしていため、当時の庶民の生活を見られる資料としては非常に貴重なものである。
 また、唱の内容によって、「相聞(男女間、親子など親しい間柄で贈答された歌。恋の歌が多い)」「挽歌(辞世や人の死に関する歌)」「雑歌(相聞、挽歌以外の歌)」に分類される。

2. 大伴旅人について 600
(1) 人物像
 大伴旅人は『万葉集』の編者といわれる大伴家持の父だとされる。その経歴は以下のとおり。和銅3年(西暦710)元旦の朝賀(ちょうが)に左将軍として隼人(はやと)、蝦夷(えみし)らを率いる。養老4年(西暦720): 征隼人持節大将軍(せいはやとじせつだいしょうぐん)として九州に赴任し、成果をあげて平城京に戻る。藤原不比等(ふひと)が亡くなったため、不比等に太政大臣を贈る役目をする。神亀4年(西暦727) 大宰帥(太宰府長官)として大宰府に赴任。
大宰府に赴任したとき、旅人は既に六十を過ぎていた。左遷ではなかった人事であるとされているが、本人にとっては意に沿わなかったようである。老年を迎えていた旅人にとって、都を遠く離れた九州で暮らすことは、精神的、体力的にも辛かったと想像するに難くない。その中でいて、なお快楽な歌を出せる旅人のおおらかさ、寛大さや前向きな思考、彼の人生の壮大ささえも感じられる。

(2) 万葉集にある一三首について
設題「七賢」を歌った大友旅人は、万葉集において七十一首を読んでおり、「酒を讃むる歌」として十三首読んでいることから、非常に酒好きだったことは想像に難くない。しかしながら、旅人が活躍した時代は、一方で仏教の戒律が厳しく問われるようになってきた時代であることから、禁酒が一つのテーマであったとも考えられる。たしかに、仏教には五戒といい「不殺生戒(生き物を故意に殺してはならない)」「不偸盗戒(他人のものを故意に盗んではいけない)」「不邪婬戒(不道徳な性行為を行ってはならない)」「不飲酒戒(酒などを飲んではいけない)」があり、旅人が生きた時代においては聖徳太子が仏教を擁護し、国家体制を整備したとされていることから、これらの教えが広まっていったとされる。
そうすれば、実際に酒に酔ってこの句を詠んだのではなく、酒を飲んで政治や世間のことについて議論をすることや、そのようなおおらかな時代であるべきであるという旅人の思いを感じることができる。

3. 七賢について 1800
(1) 読み 400
   七賢を漢字仮名交じり文で書くと以下のようになる。「古(いにしへ)の 七(なな)の賢(さか)しき人(ひと)たちも 欲(ほ)りせし物(もの)は 酒(さけ)にし有(あ)るらし」
   口語訳とすれば、「昔の(中国故事に出てくる)竹林の七賢でさえも求めるものは酒であるようだ。」となる。
   
(2) 意味 800
一句、「古之」は「古(いにしへ)の」とよむ。中国の故事であることを言うのに用いている。前歌「酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左」(書下し文にすると、「酒の名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古(いにしへ)の大き聖(ひじり)の言(こと)の宣(よろ)しさ」となる。)の3句は「いにしへ」を「古昔」としており、区別される。
ここで、中国の故事である「七賢」について概観する。「七賢」とは、中国の「竹林の七賢人」のことを言い、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲み、琴を弾じ、清談を楽しんだという七人の隠士(阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・劉伶(りゆうれい)・阮咸(げんかん)・向秀(しようしゆう)・王戎(おうじゆう))のことを総称していう。
彼らの本性は、隠者(社会との接点を断ち切って生活する人のこと)と言われることがあるが、多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。
特に阮籍がグループリーダーとされており、その自由奔放な言動ぶりは、中国南北朝の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集である「世俗新語(せせつしんご)」に記されており、後に多くの人々によって語り継がれるようになった。
当時の中国にも酒を酌み交わし語り合う姿について書かれた文献があることから、酒を飲んで語り合う文化は、国や地域、時代もあまり変わらない。そんな親しみも感じられる句である。


4. まとめ 200

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『万葉集』を訓(よ)む(その525)
 今回は、340番歌を訓む。旅人の「讃酒歌」の三首目である。前歌(339番歌)と同様、本歌も中国の故事を踏まえて詠っている。
 写本の異同としては、5句二字目<西>を『類聚古集』『紀州本』の二本には「而」とあるが、他の諸本いずれも「西」とあり、それを採った。原文は次の通り。

  古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒<西>有良師

 1句「古之」は「古(いにしへ)の」と訓む。前歌3句「古昔」と表記は違うが同句で、中国の故事であることを言うのに用いている。ここは「いにしへ」を「古」一字であらわし、連体修飾の格助詞「の」を漢文の助字「之」で表記している。
 2句「七賢」は「七(なな)の賢(さか)しき」と訓む。「七」は、連体修飾の格助詞「の」を補読して「ななの」と訓み、次の「人」を修飾する。「賢」はシク活用形容詞「さかし」の連体形で「賢(さか)しき」と訓む。この訓について、澤潟『萬葉集注釋』は次のように述べている。
 
 「賢」はカシコキと訓んでゐたが、古義にサカシキと改めたのが正しい。古事記上巻に「佐加志賣袁(サカシメヲ) 阿理登岐加志弖(アリトキカシテ)」とあり、「賢遺、此云〈二〉左舸之能【草冠に呂】里(サカシノコリ)〈一〉」《〈二〉〈一〉は返り点》とあつて、サカシは賢の意であり、カシコ(二・一五五)は恐、畏、などの意に用ゐられてゐたからである。《引用中、古義とあるのは、鹿持雅澄『萬葉集古義』》《 》は引用者の注。

 3句「人等毛」は「人(ひと)たちも」と訓む。ここの「人」は、1句・2句の修飾を受けて「古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人(ひと)」となり、中国の「竹林の七賢人」をさす。「竹林の七賢人」とは、晋代に、俗塵を避けて竹林に遊び、酒を飲み、琴を弾じ、清談を楽しんだという七人の隠士のこと。晋の阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・劉伶(りゆうれい)・阮咸(げんかん)・向秀(しようしゆう)・王戎(おうじゆう)の七人で、物欲はないが、ただ酒だけを欲したという。清談とは、無為自然尊び、虚無を宇宙の根源とする老荘の学説を論ずることをいう。「等」は「ども」と訓む説と「たち」と訓む説があるが、これも澤潟『萬葉集注釋』に鹿持雅澄『萬葉集古義』の説を支持して「たち」と訓むべきであることを論じて、次のように述べている。

 「等」はタチともドモとも訓めるが、古義にタチと訓むべしとして、「其故は、凡て某多知といふは、尊む言にて、神多知(カミタチ)皇子多知(ミコタチ)などいふ例なればなり、此歌も、此卿の、かの七賢といひし徒等(モノドモ)を崇め賞たまへる趣なればぞかし」と云つてゐる。「ども」の語は「安麻乎等女等母」(十五・三五九七)、「妻子等母波」(五・八九二)、「都麻毛古杼毛母」(十五・三六九二)、など同輩以下のものに用ゐられてをり、「卿大夫等」(十九・四二七六)の「等」は諸注いづれもタチと訓まれてをり、今もそれと同じくタチと訓むべきものと思はれる。

 4句「欲為物者」は「欲(ほ)りせし物(もの)は」と訓む。「欲為」は、164番歌に既出で、サ行変格活用の他動詞「ほりす」の未然形「欲(ほ)りせ」に過去の助動詞「き」の連体形「し」を補読して、「欲(ほ)りせし」と訓む。「ほりす」は、ラ行四段活用の動詞「ほる(欲)」の連用形にサ行変格活用動詞「す(為)」が付いてできた語。ここの「物(もの)」は、「形のある物体・物品」をいう。「者」は係助詞「は」。
 5句「酒西有良師」は「酒(さけ)にし有(あ)るらし」と訓む。「酒(さけ)」は、前歌1句に既出であるが、隠語で言えば、前歌は「聖人」を詠ったものなので「清酒」であり、ここでは「賢人」を詠っているので「濁酒」ということになろう。「西」は、借訓字で、目的・対象の格助詞「に」と強意の副助詞「し」を表す。「西」を「に」「し」を表すための借訓字として用いた例は、205・213番歌に既出。「有良師」(338番歌に既出)は、ラ行変格活用の自動詞「あり」の連体形「有(あ)る」+推定の助動詞「らし」で「有(あ)るらし」と訓む。助動詞「らし」の表記には、ラ音の常用音仮名(片仮名・平仮名の字源)「良」とシ音の音仮名「師」を用いた。「らし」は、旅人の愛用語の一つといえる。

 340番歌の漢字仮名交じり文と口訳を示すと、次の通り。

  古(いにしへ)の 七(なな)の賢(さか)しき
  人(ひと)たちも 欲(ほ)りせし物(もの)は
  酒(さけ)にし有(あ)るらし

  昔の 「竹林の七賢人」と称された賢(かしこ)い
  人たちも 欲しがったものは
  酒であったらしい

この歌も大伴旅人(おほとものたびと)の酒を誉める歌として詠んだ十三首のうちの一首。
これは中国三国志の時代、魏晋の時代に七人の賢人が竹林で清談した故事をもとに詠んだものです。
「昔の偉いと言われた人々も皆、酒を欲して飲んだのだ」
大伴旅人の酒を讃むるの歌はどれも着飾ることなく率直な歌い口の内容ばかりなのであえて解説する必要もありませんが、現代人が「万葉の時代の大伴旅人だって酒を讃める歌を詠んだんだ」と言うのとまったく同じ構図なのが面白いですね。
世の中に対する鬱憤を晴らすためにお酒を飲むという構図も同じであるところも、どれだけの長い時間を隔てても人間の本質の部分は何も変わらないという愛しさを感じさせてくれるようです。

いづれも佳作というべき、粒ぞろいの作品群である。人麻呂の恋でもなく、赤人の自然でもなく、酒を詠んだこれらの歌は、万葉の世界の中に新しい息吹を持ち込んだ。広い意味では、述懐の歌といえようが、酒に寄せて人生の快楽を謳歌するような作品は、旅人以前の万葉の歌にはなかったものである。

中国には、すでに陶淵明という大詩人が、おおらかに酒を歌っていた。教養深い旅人のことであるから、当然陶淵明の詩にも接していたであろう。大伴旅人は、同じように酒を歌いながら、さらりとした感性のもたらすすがすがしさと、現世肯定のおおらかな生き方を感じさせる。そこが、現代の日本人にも親しみやすく受け取られるのである。

十三首の歌は、旅人自身によって念入りに配されたと思われる。冒頭の(339)の歌は、全体のプロローグにふさわしく、旅人の酒とのかかわりを過不足なく歌い上げている。この時代の酒は濁酒だったのだろうか、つまらぬことに思い煩うのはやめ、さあ濁酒の杯をとろうではないか、そう歌う旅人の洒脱な姿が、世紀を超えてよみがえってくるようだ。

酒は聖であるといい、古の七賢人も欲したといい、また言いようもなく尊いものであって、価なき玉や夜光る玉にも替えがたいものだと歌う。賢者ぶって生きているより、酒を飲んで酔泣きするほうがどれほどすばらしいことかわからない。賢者ぶって酒を飲まぬものをよくみれば、猿にそっくりではないか。さあさあ、酒を飲むべしというわけである。

この猿のたとえは奇抜なものだ。これを読んで、筆者は明治の反骨漢成島柳北の詩を連想した。柳北は航西日乗の中に、シンガポール沖を通りがかった際にしたためた次のような詩を載せている。

   幾個蛮奴聚港頭  幾個の蛮奴港頭に聚る
   排陳土産語啾々  土産を排陳して語啾々
   巻毛黒面脚皆赤  巻毛黒面脚皆赤し
   笑殺売猿人似猿  笑殺す猿を売る人猿に似たるを

柳北は、我らが万葉の歌人を意識して、この詩を作ったのではないかもしれない。気に入らぬものを罵倒するに際して、猿を持ち出すところは、洒脱な人間が時代をまたがって共有するユーモアなのだろう。

(349),(350)の両歌は、酒ももたらす快楽のかけがえなさを歌っている。人生というものは、所詮この世での快楽がすべてなのだとでも、いいたげである。

これらの歌は、大伴旅人という歌人のスケールの大きさを感じさせる。このように開き直った快楽肯定の姿勢は、この後の日本の文化的伝統の中に、そう多く見出すことはできない。

山上億良が多感な老官人だったとすれば、大伴旅人には風流な大官という趣がある。旅人は名門大伴氏の嫡男として生まれ、父親同様大納言にまで上り詰めた。人麻呂や億良とは異なり、古代日本の貴族社会を体現した人物である。そのためか、大伴旅人の歌にはおおらかさと、風雅な情緒が溢れている。

大伴氏は物部氏と並ぶ武門の名門である。一時期蘇我氏に圧迫されて振るわなくなったが、壬申の乱での勲功があって、天武以降再び栄えていた。

この武門の家に、どういうわけか教養のある人物が輩出した。旅人の妹坂上郎女は多情な女流歌人であったし、子の家持はいうまでもなく、万葉を代表する歌人である。旅人も若い頃から詩や和歌を作っていたらしいが、残念ながらそれらは散逸して残されていない。今に伝わる大伴旅人の作品は、大宰府の師であった老年以降のものばかりである。

大宰府に赴任したとき、大伴旅人は既に六十を過ぎていた。北山茂夫によれば、決して左遷ではなかったが、旅人にとっては意に沿わぬことであったらしい。老年を迎えていた旅人にとって、都を遠く離れた九州で暮らすことは、精神的にも体力的にもつらいことだったのであろう。

だがここで、大伴旅人は山上億良や僧満誓らと出会う。その出会いは、日本の詩歌にとっては幸福なことであった。彼らは互いに刺激しあい、老年にしてなお文芸への情熱を奮い立たせながら、多くの佳作を作るに至るからである。

ここでは、そんな大伴旅人の歌を読み解いていきたいと思う。

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