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戦後女性感謝プロジェクト

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記事一覧

小説家:林芙美子

「戦後女性感謝プロジェクト」第7段!紹介するのは林芙美子(はやしふみこ)です 1.どんな人だったの?林芙美子(1903年-1951年)は小説家です。有名な作品に自伝的小説『放浪記』、詩集『蒼馬を見たり』、長編『浮雲』などがあります。 (出典:「やまぐちの文学者たち」80人/林芙美子) 母と養父が炭鉱町を行商して回っていたため、林芙美子は小学校を転々としました。広島県尾道市で小学校を卒業した後は尾道市立高等女学校に進学。この頃から、地方新聞に詩や短歌を寄稿し始めました。女

小説家:佐多稲子

「戦後女性感謝プロジェクト」で今回紹介するのは佐多稲子(さたいねこ)です! 1.どんな人だったの?佐多稲子は、1904年に生まれ1998年に亡くなった小説家です。 彼女はプロレタリア文学の作家で、代表作には『くれない』などがあります。 (参照:https://hakameguri.exblog.jp/31015460/) 最初の作品『キャラメル工場から』を発表したのが、24歳のときの頃で、最後の随筆集をなくなる5年前の1993年に発表しており、非常に長い期間多くの作品を

女性解放思想家・社会評論家:山川菊栄

「戦後女性感謝プロジェクト」、今回紹介するのは山川菊栄(やまかわきくえ)です。 1.どんな人だったの?山川菊栄(1890年-1980年)は、東京都に生まれ、論壇で明快な論客として活躍した女性解放思想家、社会評論家です。 大正の時代にあって、早くも、“女性よりも男性の方が性欲が強いため、性産業が必要である“的な性規範のダブルスタンダードを批判しました。 現在、教科書にも掲載されている歴史上の女性たちといえば与謝野晶子や平塚らいてうですが、山川菊栄はこの両名の後輩世代にして

小説家:尾崎翠

「戦後女性感謝プロジェクト」、4人目に紹介するのは小説家の尾崎翠(おざきみどり)です! 1.どんな人だったの?尾崎翠(1896年-1971年)は鳥取県に生まれ、7人兄弟姉妹の真ん中として育ちました。面影尋常高等小学校高等科を首席で卒業する頭脳の持ち主でした。 16歳の頃、「たかね」に詩歌を投稿し始めました。鳥取高等女学校本科・補修科を卒業後、「文章世界」に短歌一首「漁村の新生活より」が掲載されました。19歳で、「文章世界」の散文欄で『朝』が第一席に入選。『雪のたより』も掲

随筆家:白洲正子

今回は随筆家の白洲正子(しらすまさこ)を紹介します! 1.どんな人だったの?白洲正子(1910年-1998年)は東京生まれで、読売文学賞を二度受賞した随筆家です。 (参照:https://buaiso.com/about_buaiso/masako.html) 樺山伯爵家の次女として生まれました。4歳で能を習い始め、14歳の頃、女性として初めて能舞台に立ちました。 (参照:https://buaiso.com/about_buaiso/masako.html) その

教育者・女性解放運動家:河崎なつ

「戦後女性感謝プロジェクト」、2人目に紹介するのは河崎なつ(かわさきなつ)です! 1.どんな人だったの?河崎なつ(1889年-1966年)は奈良県に生まれた教育者・政治家・女性解放運動家です。働く母親の権利をうったえ、女性差別と戦いました。 奈良女子師範学校卒業後、奈良県五條市の小学校で教師として働き、その後東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に進学しました。1921年には与謝野晶子や西村伊作らと共に、文化学院を創立し、日本で初の男女平等教育を実施。国語を教えて

戦後女性感謝プロジェクト

明日少女隊は匿名の自由参加をコンセプトとしたグループですが、メールでの連絡や、ブログの記事や、取材を受ける際に、便宜上のアーティスト名を使っています。 私たちは、戦後活躍した女性や性的少数者、また、彼女たちの権利向上のために貢献した人の名前を名乗っています。 戦後の日本文化は、男性ばかりで作られたの? 皆さんは、2016年から使用されている育鵬社の歴史の教科書が、男性ばかりの監修者によって作られ、非常に男性中心的な内容になっていることをご存知でしょうか。 この中でも特に

ファッションデザイナー:杉野芳子

「戦後女性感謝プロジェクト」へようこそ。 今回はファッションデザイナーであり、学校経営者でもある 杉野芳子( すぎのよしこ)を紹介します! 1. どんな人だったの?杉野芳子(1892年-1978年)は千葉県に生まれ、ニューヨーク留学を経て、帰国後に日本で活動したファッションデザイナー・学校経営者です。 22歳のときに単身で渡米し洋裁を学び、日本で杉野学園ドレスメーカー学院を創立。服飾技術を身に付けることで、日本の女性が自立できるようにという想いを持っていました。「ドレメ式