微睡の平成、美枠の令和





 年号が変わる。今日と明日は日本にとって特別な日なのである。平成から令和の境目を多くの国民が共に感じるのだから。

 まあ、実際仕事や生活の中で、西暦と平成の数字がややこしく、「あれ今平成何年だっけ?」っていうのもショッチュウあったので、ああ面倒くさいと思ったのも一度や二度ではない。だから和暦なんて必要なのか、と思ってしまう。おそらくは、令和3年って西暦何年だっけ?とか後年になってまたマドロッコシイと思う筈だけど、ここ数ヶ月はなぜだか「平成」が愛しく、そして新年号「令和」が新鮮だ。

  面倒くさい。ややこしい。マドロッコシイ。どれもこれも、この感覚は合理性に欠けるという主観から発生している。頭の中で、合理的ではないものを排除したり整理したりしたがる傾向は自分だけではあるまい。そう近代が生んだ「合理」という崇高なる境地の価値なのだ。ゆえに合理的か否かが脳の中の試金石になっている。特に「術」「方法」「やり方」「思考」「会話」…子供から大人へ変化する過程やビジネス上で仕事の運び方や進め方などで大きく変化する瞬間に、この合理的か否か、が重要なステップアップにつながる。時に自問したり、時に周りから指摘されたりするのだから、様々な場面で「合理性」を備えた自分でなくてはならないとさえ思うのだ。しかしこの「合理」決して普遍的なものではない。合理性だけを追求したら、和暦なんて全く必要ない。「昭和」も「平成」も「令和」も必要ないはずだ。

 しかしである。年号・元号そして、天皇陛下を思う時これがこれこそが、理屈を超えた「日本の形」を現わしている。天皇陛下の様式や振る舞いや伝統や存在には一切の「合理」などない。「天皇」は天皇なのだ。ゆえに、年号も元号も日本の独自の「非合理」なのである。よく考えればこれが面白い。近代以降、日本は多くを失い、多くを捨て去り、大切なアレコレを粗末にしてきた。(アレコレとは縄文以来、鎌倉以来、江戸以来脈々と受け継がれてきた慣習や美意識や様式の多く)近代とはそう「合理」の追求なのだ。つまりは、日本的非合理性というのが実際の姿であって、明治以来に本来の姿を押し込めてしまい、それに拍車をかけるように戦後またまた近代の呪縛を自ら羽交い絞めしたように振舞ったのが現代の日本ともいえるのではないだろうか。それでも尚、多くの日本の国民は「天皇陛下」を敬い、皇室伝統に理解を示し、この新年号「令和」を歓迎している。

 近代がうんだ「合理」の呪縛は、この「令和」時代に乗り越えるのかも知れない。日本を特別な国!と言いたいわけではないが、特別というより、格別な国だなあと思う所から始めたい。非合理?! 上等だ! 「うやむや」も「あいまい」も大切にしたい。「やばい」も「かわいい」も何百通りも解釈できるこの日本の大らかさ(笑)実に奥深く、実に変幻自在だ。その姿を河合隼雄氏は「中空構造」と言い、山本七平氏は「空気」と言った。

特別な 平成と令和の境目を大切に過ごそうと思う。 令和が素晴らしい時代になりますように!





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あしょじ

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