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僕の20年前の映画『イヌ』が一度だけ上映される。

映画『佇むモンスター』(2023/90分)が横浜シネマノヴェチェンで
公開されるのを記念して僕の20年前の映画『イヌ』(2002/100分/白黒・特殊カラー)が一度だけ上映される。


映画『イヌ』(2002/100分/35ミリ/全7巻/白黒→特殊カラー)

昨年、『彷徨う魂』を公開した横浜シネマノヴェチェンの映画館主の箕輪さんと何気なく、その昔僕がたった一人で35ミリ自主映画を作った話をしたのがきっかけだ。

20年前の2003年9月にシネマ下北沢で2週間公開して以来、ずっと押入れに眠っていた20キロ以上もある重たいセルロイドの塊。35ミリフィルムで全7巻もある。

正直、引っ越しの度に邪魔で何度今まで廃棄しようかと考えたことか。
そんな封印フィルムを、箕輪さんは保存状態を確認後、試写までやってくれた。

アバンギャルド過ぎる内容なのに、箕輪さんにやたらと気に入られた。
「海外の映画祭に出品していたら、賞取ってたぞ!」とまで言って頂いたが、当時はもう字幕を入れたり、そこまでの余力は残っていなかった。

いかにアバンギャルドさを表現しているのは、チラシの裏に書いてあるけれど、映画監督の山本政志氏が残してくれたコメントが最も的を射ている。 
           ↓
     口当たりにイイモノが氾濫する“今”
  『イヌ』を観た時の居心地悪さは異次元だった。
  表現力も語り口も極端に雑で、極端に観心地悪い。
    映画になっていない、と言ってもいい。
      ただ、ホコロビだらけの画面から、
     作り手の熱い“志”だけは垣間見れる。
   しかも、35mmでの挑戦とは・・・恐れ知らずメ!

褒められているのか、貶されているのか判らないコメントだが、
この表現が映画『イヌ』を端的に言い表せているだろう。


25歳から10年ほどかけて作った35ミリの自主映画。総製作費1800万。
個人映画の8ミリや16ミリ、ビデオという媒体ではなく35ミリの商業
フイルム。貧乏人の僕が、昼夜問わず肉体労働に明け暮れて制作し、
完成したらこの世からおさらばしようと、まるで遺書を遺すつもりで
フィルムを廻し続けた。

今でいう失われた30年が始まった90年代初頭ごろ東京でのアルバイト
生活に明け暮れていた僕は20代前半で突如パニック障害に悩まされ、
電車や人混みがダメになり(勿論、当時はパニック障害なんて言葉も
概念も無かった時代)、なんとか人のいない栃木県那須町の僻遠の地で
産業廃棄物処理施設という職を得た。おそらく人と接しない環境が功を
奏したのだろう。少しずつパニック障害を克服していった。

当時勤めていた栃木県那須町


地元で見つけた野良犬の子犬を相棒に暮らしていた25歳のある日、
たまたま立ち読みした雑誌に掲載されていた1枚の写真に衝撃を受けた。
その写真には、人間に虐待された挙句に片足切断の片輪にさせられた
一匹の老犬の姿を写していた。

映画『イヌ』本編にも入れた老犬の写真


僕の中の人間に対する憎悪や怒りが噴出した瞬間だった。
この虐待されたイヌを通して、人間の偽善や欺瞞を描くことはできないか?
それが、この先延々と10年も制作が続く映画『イヌ』の初期衝動だった。

映画『イヌ』主役の愛犬クロと。


今でこそ動物福祉や動物虐待事件という言葉が広く一般的になってきたが、
30年前はそういった概念自体なかったと思う。動物虐待に心を痛めると
変人扱いされた時代だった。捨て猫も、放浪犬も当たり前の時代。
インターネットも普及しておらず、勿論SNSもない時代において、
僕一人社会に対して絶望していた。

2011年の原発事故に伴う数百万以上の動物置き去り事件に端を発し動物福祉
問題のドキュメンタリー映画を制作してゆくなんてこの頃には思いもよら
なかった。(勿論、2000年後半からフルハイビジョンでカメラが回せるようになったのも後押ししているけど)しかし、【怒り】が原動力となり映画を始動させたのは、その頃と同じか。

そういった意味で、映画『イヌ』は僕の全てが詰まったある意味原点の映画。
この映画を完成させて死ぬつもりだったのに、皮肉にも完成後に自ら命を
絶ったのは同棲中の彼女の方だった。

2003年1月31日に自殺した同棲中の彼女。
3年ほど鬱病に悩まされていた。
彼女に動物実験の現実など動物の置かれている惨状を教わった。


一匹のイヌが人間に翻弄された挙句に交通事故に巻き込まれて死ぬ。
悪魔の導きによって人間を血祭りにあげるために案山子として生まれ変わる
貧乏たらしい映画。
そんな20年間も封印されてきた35ミリ自主映画をいったい誰が観るんだ? とツッコミどころ満載だが、横浜シネマノヴェチェンの箕輪さんの御厚意に甘えて、6/4日曜日の13時から1回きりの上映をさせて頂きます。

しかも、上映後に90分もトーク時間を設定され、僕は口下手だから20~30分でイイって言ったのだが、箕輪さんは「俺がMCやるから大丈夫だ! 90分でも短いくらいだ」と半ば強引に決まった企画です。
イベントの予約サイトはこちらに貼り付けておきます。
金額設定も高めなんですが、他のイベントでもこれくらいで統一してるみたい。
6/4~10「佇むモンスター」「イヌ」 | home (cinema1900.wixsite.com)


同時上映の新作映画『佇むモンスター』(2023/90分)
Yahoo!ニュース


『イヌ』は、おそらく日本映画の歴史上、最も最後に作られた35ミリの自主映画じゃないだろうか? 
しかも、たった一人で35ミリ映画を作ったのも、世界広しといえども誰も居ないんじゃないかな?

【映画『イヌ』評論】( (映像評論家·平井正樹))
(略) 殊に邦画を巡る状況の困難な今日、北田が弱冠三十歳にして、35ミリ作品の、監督、脚本、撮影から資金調達までの全てを、独力で成し遂げたことは、まさに壮挙であると言うほかはない。 一個人にとって決して軽くない責務を負い、10年の歳月を掛けて完成した本作で、彼が問うものは何か? それは我々が意識的、無意識的に目を逸らしている、我々自身の姿である。 日々、テレビは軽快な音楽と溢れる笑顔で間断なく新車の購入を歓奨している。 かの車を買いさえすれば、夢のような恋や家庭の団欒がもれなく付いてくるかのようである。 しかしながら、自動車によって、我が国だけでも毎年確実に一万に近い人命が奪われている事実を CMが伝えることはない。 この殺人はやむを得ぬといったニュアンスを漂わせ、むしろ「事故」の名で処理され、 加害者に課せられる刑罰は刃物などによるそれと比して軽い。 犠牲が飼い犬ならば、いくばくかの金銭がやり取りされて終わる。 では飼い主のいない犬ならば… 死そのももが存在しなかったかのように扱われるだろう。 それは生が存在しなかったことと同義である。 開巻、捨て犬を運ぶ産業廃棄物処理車は暗示的である。  大量生産、大量消費のシステムが必然的に生み出す膨大なゴミは、消え去るのではない。 多くはただ人目につかない所へと移動されるのみである。 そうして我々は「清潔な」環境を手に入れたと考える。 「見えない(見ない)もの」は存在しないことにするという暗黙の了解が 垣間見える。(同様にある種の病者、弱者、例外者もそれぞれの施設に収容することで 「健全な」社会を確保したとする) 作中、捨て犬やその化身を救うのは、強盗犯であり、少女の亡霊であり、 乞食の少年、即ち例外者である。 一見「善良な」「普通の」人々は捨て犬、及び例外者にただ「存在しないこと」を望む。 自分の庭の内さえ平穏であれば、塀の向こうで誰が傷つき、飢え苦しんでいようと関知しない。 これが我々のありのままの姿であろう。 我々は「見えない(見ない)ものは存在しない」、「無価値な(と見なすものは存在しない)」 かのように扱うという思想に形作った社会を容認し、構成している。  たった今も、アスファルトの上に小さく丸まったあるいは四散した毛の塊をちらと眺めては往き過ぎる無数の乾いた瞳があるだろう。 簡易な哀悼と瞬間の忘却は、「高度に発達した文明の快適な移動手段」の恩恵を享受す るための必須条件である。  北田直俊は敢えて、路傍のもの言わぬ断片、「存在しなかった犬」を我々の眼前に 疾駆させて見せた。 世にどれほどの虚偽と悪意と無関心が隠されているかを微かにも知る臭覚の持ち主は、 怒りと悲しみに満ちた本作の放つ鮮烈なイメージに感応することができる。
                                 

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