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#6 令和の時代の運動会

先月の末に息子の学校で運動会があり、見に行った。

コロナ感染予防の観点から、2学年ごとの開催で、保護者も1名という制限があった。

結論から言うと、これが令和の時代の運動会かと、落ち込んだ。保護者としての小学校生活も3年目となり、ある程度予想はできているものの、あらためて現実を目の当たりにすると、落ち込むものだ。

また、最近は子どもの育ちやスポーツの意義について関心を持って、色々な勉強会に参加させていただいたり、情報収集する中で素敵な取り組みを見聞きすることもあり、なおのこと、自分が生活している地域での現実を実感し、残念な気持ちになった。

ラジオ体操にはじまり、徒競走、台風の目、ソーラン節。子どもたちの出番は3つ。

「まえ、ならえ!」「体操体形に、ひらけ!」一糸乱れぬ体操や、踊り。

他の誰かと自分を比べて、足が速いか遅いかを競う徒競走。比べる必要があるのだろうか。

速くない子は沢山の同級生や大人に注目されて、苦痛ではないだろうか。
先生たちは「最後まで諦めずにやり抜くことも大切だ」というかもしれない。しかし、一方で、自己肯定感が大切だと説く。皆が見ている前で誰かと比べられ、自己肯定感が育つだろうか?

そもそも、身体的特徴により、全力疾走できない子は?

みんなパラTOKYOの開会式みて、これこそ多様性だといって感動していたじゃないか。

学校は2021年にもなって、
いつまでこんな運動会をやるのかと落ち込んだ。

この日のためにきっと沢山の時間を割いているはず。

先生たちは、貴重な授業時間をもっと他のやりたい事に使って欲しい。

コロナにより、運動会の形態を大きく変えた学校は沢山あったと思う。

従来の運動会、を全く新しい価値に変えることのできるチャンスを多くの学校は手にしたと思う。

揃える事、言われた通りに行動すること、皆んなが見る前で誰かと競争して比べられること、必要な事なのだろうか。

集団行動、最後まで頑張る事、団結して目標に取り組むこと、
別の事でもできるのではないだろうか。

スポーツは楽しむ事が大事なのでは。

身体を動かす楽しさは、もっと解放的で、自由な中から感じる事が出来るものであって欲しいと私は思う。

今年の春に目に留まった、ある地区の校長先生が書いたnoteの記事がとても心に響いたので、また思い出して探してきた。もしかしたら、知っている方もいるかもしれないけれど、知らない方は、全編通して(私は)共感することばかりなので、是非読んで欲しい。

いわゆる「かけっこ」と呼ばれていた「徒競走」ではありません。くじを引いたり、じゃんけんをしたりして、足の遅い子でも、運が良ければ1等賞だって夢じゃない…それが「偶然走」です。
例えば5年生の偶然走は、よーいドンのあと拾ったカードに示されたコースを走ります。そのコースは全部で5つ。トラックの中を突っ切る「超ショートカットコース」や、平均台の上を歩く「超難関コース」など、バライティに富んだ5コースです。運動会前に5年生のある教室で、先生が子どもたちにこの「偶然走」の説明をしていました。子どもたちは1位当確の「超ショートカットコース」があることを聞いて、「オー!すげー!」と歓喜の声を上げていました。「今まで1位をとったことがない人…今年はチャンスだよ!」と先生がにやり。「やった~!」とさらに大歓声。その時、遠慮がちに小さく拍手をしながら、本当にうれしそうに微笑んでいた女の子の顔が忘れられません。「私も1位が取れるかもしれない!」…いつも後ろの方で競っていた子が、こんなふうに「自分への期待」を持つことができる…学校はいつも、こんな場所でありたいと思うのです。
「ビリ」がほぼ決定的な子を、大勢の人が観ている中を走らせて、それで果たして「うちの学校は自己有用感と自己効力感を育てています」って言えるでしょうか。何よりもビリになって落ち込んでいる子に、教師は何と声をかければいいのでしょう。まさか「いいんだよ。君は君で…」なんて言えるはずもない。「辛さや苦しさを乗り越えて人は強くなっていくんだ!」なんて言う人もいますが、それは逆です。小さな成功体験を子どもの時から積み重ねて、自分に自信をつけた人こそ、どんな苦難も乗り越えられる強さを持つことができるのです。そもそもこれって人権無視、人権侵害には当たらないのでしょうか。こんなことを考えると、徒競走をやることは「言行不一致」にしか思えなくなってしまいました。


自分の地域の学校の徒競走をみて感じたこと。
親子競争、なら盛り上がるかな、運営が大変かな。

楽しさベースで考えたら色々なアイディアが出てくるような気がする。

学校は30人×5クラス、2学年の運動会を滞りなく、進め、終わらせることが目的になっていないだろうか。

もしくは、その運動会を管理することが目的になっていないだろうか。

これからの時代の運動会、もっと体を動かす喜びを感じることができるものであって欲しいと思わずにはいられない。

教育界に今、革命を起こしている、現横浜創英中学・高校校長工藤勇一先生がある講演会でこんな風に仰っていて、とても共感したので、紹介したい。(動画44分ごろの内容を以下要約抜粋)*ちなみに動画当時は、千代田区立麹町中学校校長

先生たちに運動会の目的・目標を聞くと、協力・団結とか、皆こういいます。それって本当ですか?
ヨーロッパはスポーツの考え方がはっきりしている。ラグビー(の考え方)ですね、素晴らしいですよね。国なのに外国人が入っていてもいい、尊重(の考え方)ですね。スポーツは楽しむこと。(みんなで対話してその考え方に合意形成して至っている。)
障害があってもなくても、運動がうまくても、へたくそでも、一生楽しむものだ。これが最優先になる。皆考え方がある、その中で、全員を大事にするには、何が優先事項か?対話の中で合意形成する。最上位は、子どもを大事にすること、スポーツを楽しむこと。この合意がヨーロッパではできている。

(この話題は学校改革を進める際、対話を通していかに合意形成していくか、というテーマについて、体育祭を例にとって話された時のもの。)

本当にその通りだと思う。

多様性や他者を認めよう、という世の中の動きがある一方で、学校ではいつまでも、私たちの子ども時代と変わらない運動会が繰り広げられ、保護者の側も、○○くんが早かった、○○ちゃんは50メートル〇秒で学年〇位らしい、などの話題で盛り上がり、ゴール付近は、着順を観たい保護者で混雑し、一番子どもの表情が良く見える場所は、とても空いているというこの矛盾。

もっと子どもたち一人一人をよくみて、それぞれの成長する姿、楽しむ姿、を喜ぶことのできる親でありたい。

保護者の側も従来の教育観から脱却しなくてはいけないはずだ。

これからの時代、人と同じ事をしていても新しい仕事を生み出す事は難しい。

皆んなと一緒のことができなくても大丈夫。

先生の言われた通りに動けなくても大丈夫。

一人一人が何を感じて、どのように成長しているのか、その過程を保護者も見つめ、見守らなくてはいけない。

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閉会式のさい、応援席から出てこられず、一人座り込んでいる児童がいた。周りには何人もの先生が入れ替わり立ち代わり言葉をかけて、集団に入ることができるよう言葉をかけていた。(ように見えただけかもしれない。遠巻きだったので。)

それは、2年前の息子の姿と重なった。今でこそ皆の輪に抵抗なく入っていくことができるようになったが、1年生当時は、一人泣いていた。私は毎日学校に付き添い、一緒に授業を受け、体育の授業でも一緒に走った。

集団に入ることが、目的でない、

心の底から、一人一人がスポーツ、体を動かすこと、を楽しむことができる運動会が、これからの時代のスタンダードになることを私は願いたい。

ある年の麹町中学校の体育祭のミッションは

”運動が苦手な生徒も楽しめて、

得意な生徒が思い切り輝ける”

だったという。対話を通して、そんな運動会がこれから日本各地に広まっていけば、スポーツの世界も、もしかしたら少しずつ変わって行くことができるのかもしれない。

*工藤勇一先生の動画は全編通して素晴らしい内容が散りばめられているので、保護者やスポーツ指導者、子どもと関わる人、興味があれば是非みて欲しい。それぞれ感じることは違うかもしれないけれど、あなたの周りにいる子どもたちが、自分らしく、安心して、いられるヒントがあると思います。


秋の終わりにてぎりぎりセーフの更新。

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(↑毎年のハロウィンメニューがストレスだった私が4歳息子にアイディアもらって完成させた超絶簡単ハロウィンメニュー2021。型抜きチーズと海苔)


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