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#2 スポーツをとりまく世界

小学校5,6年生の頃から、母親に教えてもらった高校野球を夢中になってみていた。
好きが高じて、高校受験は、中学1年生の時に見た甲子園準優勝の高校を受験すると決めていた。自分が住んでいた浜松からは、飛行機に乗って移動するような地域にある高校だった。
常識に囚われず、「やりたいことをやったらいい。」と、受験先の高校の野球部の監督から受験前に「うちは女子マネージャーをとっていないよ。」と、暗にお断りされたときに、中3の夏休みに一緒に鹿児島まで話を聞きに行ってくれた父親や家族には、感謝している。

甲子園常連校の野球部は、やはり色々なことが厳しく、放課後に駅前で寄り道している同級生を横目に、女子なのに1年中真っ黒に日焼けして、部活に通う毎日だった。色白の姉と並んだ時に、「オセロみたい。」と当時流行っていた芸人に例えられたり、冬になっても、色白の野球部員より肌の色が濃い自分を見て、人知れず思春期の心は傷ついたりもした。校内で監督やコーチ、先輩に出会うとやたらと礼儀正しいあいさつをしなければならず、すごく抵抗があった。(我慢してやっていた。)
ホームシックや、外国に来たような鹿児島弁と闘いながらも、卒業の際には、後ろ髪惹かれる思いで鹿児島の地を後にできたのは、九州の方々の家族のような温かさと、浜松を離れなければ経験することができなかった沢山の時間を自分の中に蓄えることができたからだと理解している。言葉の壁は最終的には、自分もすっかり鹿児島弁を操り、大学に入って間もないころに、ふとした時に方言が出てしまう程だった。

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大学では、いわゆる体育会系とは、真逆の、芸術系の大学に進学した。父親が、写真家だったのも少なからず影響していたと思う。高校時代のザ・体育会系のノリとは全く違い、心が解放されたのを覚えている。表現すること、は正解がなく勝ち負けもない。どんな表現も、基本的には受け入れられ、そこにあるのは、好みか好みでないか、好きか嫌いかの価値観で、自由だった気がする。

写真べた焼き

大学3年の時に、日韓W杯が開催された。授業は休校となり、学内の多目的ホールがPV場と化し、教員も学生もそこに集ったみんなが夢中になって、一喜一憂していた。
日本中が虜になった自国開催のW杯が終わり、一抹の寂しさを味わっていたところに、写真学科の友人が、国立競技場のJリーグの試合に誘ってくれた。静岡出身ながら、今までサッカーの試合など見たこともなかったが、スポーツには色々な魅力があることを、10代の体験から知っていたので、迷う間もなく返事した。
その友人は高校時代サッカー部だったと言い、神奈川出身ながら、ジェフ市原のサポーターということで、私含め、周囲の友人にジェフの魅力を熱く説いてくれた。
国立で見る初めてのJリーグは、改めてスポーツの価値を感じさせてくれた。今でもあの時の、ライトに照らされた夜のスタジアムと観客席の雰囲気だけは、しっかりと記憶に残っている。
同時に、日本サッカー協会が掲げていたJリーグ100年構想のチラシの内容が衝撃的だった。表はMrピッチ君。裏には、確かドイツかどこかの老人が芝生のピッチでユニフォームを着て、仲間と肩を組んでいる写真だった。芝生のグランドを作り生涯スポーツを楽しめる環境をといった内容が書かれていた(多分)。勝つことが全て、といった価値観ではなく、生涯、スポーツを楽しみましょうという新しいスポーツの価値と、そこで初めて出会うことができた。高校野球の強豪みたいなところでマネージャーをするくらいだったので、それまではそんな価値観に触れたことがなかったが、大学で表現について学んでいたので、その考えがとてもしっくりきた。今でもそのチラシの写真は、はっきりと覚えている。(まだあるかと、古い大学時代の段ボールを漁ったが残念なことに見つけることはできなかった)

オシム

その翌年、ジェフの監督がオシムさんになり、もう追いかけるしかなくなった。
オシムさんのサッカーは、素人の私にはサッカーの魅力に取りつかれるには十分だったし、サッカーを通して人生を語るその姿に、私と友人たちは魅了された。
何度もスタジアムに足を運び、社会人になってからは、ジェフのスタジアムボランティアもしていた。市原臨海競技場から、フクダ電子アリーナに変わる瞬間にも立ち会った。臨海がなくなる寂しさはあったものの、ヨーロッパに沢山あるサッカー専用スタジアムの文化を知り、地域でスポーツを楽しむ、応援する文化は、ジェフ千葉を通して少しは体験することができたのではないかと思っている。いつだったか、勝ちきれなかった試合で、ボランティアスタッフルームにオシムさんがあいさつに来てくれた。勝敗にかかわらず、ホームゲームを支えるボランティアには、クラブのスタッフや選手が感謝の気持ちを持っているのをいつも肌で感じていた。

フクアリ

私のサッカー熱は、オシムさんが代表監督になり、病に倒れるまでは続いたが、その後関東から地元の浜松に戻ったこと、千葉からは遠のいてしまったこともあり、静かに消えていった。(ジュビロの試合を見に行こうとはなぜかならなかった)

その後、結婚・3人のこどもの出産・子育てを経て、息子がサッカーを始めたことをきっかけに、再びスポーツと関わることになった。
そこで、見たり聞いたりするスポーツを取り巻く世界は、何故か疑問ばかりだった。小学校高学年になってくると、公式戦に1分も出場がない子がいるらしい、練習や試合で毎週末の土日のスケジュールが埋まるらしい、雨になったときだけ休めるらしい、試合に出ることがかなわない子はとにかく上達するために自分で練習するらしい。へぇ、そうなのか、大変だなぁ。でも高校生の部活の時もそんな感じだったかな。と最初の頃は自分を納得させていた、ような気がする。しかし、なぜかもう自分は、親も子もストイックすぎるほどのその世界になじむことができなかった。それは、自分が保育士という子どもの成長をサポートする職業で、専門的な知識があることも影響していただろうし、なにより、我が息子にはまったくその手法は馴染みそうもなかった。

道しるべとなったのは、
池上正氏著
『少年サッカーは親が9割』
『サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の魔法』

中野吉之伴氏著
『ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする』

これらの本のおかげで、子どもを窮屈な状態にさせず、のびのびと少年スポーツの現場に関わることができているのではないかと思う。

先日私とサッカーを出会わせてくれ、ジェフ愛を授けてくれた友人とやりとりした中で、その友人がいった。

「スポーツは好きだよ。でもスポーツを取り巻く世界があまり好きとは思えない。」と。

どんな真意かは、聞くのが野暮に思えた。

でも、高校生がスポットライトを浴びているあの世界も、試合に出るためにいくつもスクールを掛け持ちして小学生がサッカー漬けになっている世界も、私にはもう違和感しかない。高校時代部活ばかりの毎日を送っていた自分だからこそわかることがある。10代の子どもたち、ましてや小学生の子どもたちには、大切なことが他にもある。勉強は、自分の興味関心を引き出して、人生を歩んでいくのに大事だし、友達と遊んだり、他愛のない会話をする時間が関係を育む。家族と過ごす時間、ソファに寝転がってくだらないことを一人考える時間、デートする時間、ファッションや音楽を楽しむ時間。プロでもないのに、ストイックにそのスポーツを極めようとする、それを取り巻く世界は、私はもう好きになれない。

Jリーグが1996年に掲げた100年構想。
そこに私たちの町のスポーツ文化のヒントがあるような気がする。

以下引用

”Jリーグ百年構想
あなたの町に、緑の芝生におおわれた広場やスポーツ施設をつくること。
サッカーに限らず、あなたがやりたい競技を楽しめるスポーツクラブをつくること。
「観る」「する」「参加する」。スポーツを通して世代を超えた触れ合いの輪を広げること。
誰もが気軽にスポーツを楽しめるような環境が整ってはじめて、豊かなスポーツ文化は育まれます。そのためには、生活圏内にスポーツを楽しむ場が必要となります。そこには、緑の芝生におおわれた広場やアリーナやクラブハウスがあります。誰もが、年齢、体力、技能、目的に応じて、優れたコーチのもとで、好きなスポーツを楽しみます。「する」「見る」「支える」、スポーツの楽しみ方も人それぞれです。

世代を超えたふれあいの輪も広がります。自分が住む町に「地域に根ざしたスポーツクラブ」があれば、こんなスポーツライフを誰もが楽しむことができます。
このようなJリーグの理念を分かりやすく訴求するために、Jリーグは「Jリーグ百年構想~スポーツで、もっと、幸せな国へ。」というスローガンを掲げ、「地域に根ざしたスポーツクラブ」を核としたスポーツ文化の振興活動に取り組んでいます。”  


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