言葉の暴力

※様々な分野に対する思慮のかける侮蔑的な思想がこの文章にはあります。

※書き手は少年漫画「左利きのエレン」の影響を多大に受けております。

前置き

表現にはその意義や、正当性や、信憑性と云った、表現そのものの意味では無く、社会的に見てどうかという大変曖昧な尺度によって断罪される風潮がこの社会にはあると私は思う。


「表現とデザインは違う。

表現は自分の欲求を満たすもので、デザインは相手の欲求を満たすものだ。」

と、あるデザイン会社で云われた事がある。

クライアントが求める商品に作家性を求めているのなら別として、クライアントは基本、自分か自社は満足が出来る作品を求めている。ならば作品は、100%顧客のニーズを反映したもので、彼らの満足を得なければならない。

「クライアントが満足できるのなら、それで良し。アーティストみたいに強固なブランドを持たない以上、要望通りのモノを生み出して、少しでも顧客に気に入られる作品を生み出して、生き残りましょう」

や、

「無駄なモノは排除しましょう。これからは近代社会、効率化を図りましょう」

と云った、打算や、権威‥主張なが感性に関与した結果、一部の界隈では表現とデザインが分離する事になった。

「表現が主張するのは、感性だ。」

「デザインが主張するのは、手法だ。」

そんな無茶な2極化が、少なくとも私が通っていた建築学科にはあった。

細かく言うなら、表現には手法の正解不正解の基準が個人の感性にあって、デザインにはその基準が、デザインが歩んできた歴史にあって‥


結局冒頭に戻った。


そもそも、デザインの基準値というものも、国によって文字や言葉から既に違う以上、結局は個人の感性にゆだねられる訳で、表現の仕方でデザイン(手法)じみている事もあれば、デザインの仕方が表現(アート)じみている事もある、唯、それだけなんだろう。

「アートはアートととして建ちあがった時、それとして分かる」

みたいな言葉がある。

そのまんまの意味で、誰かがそれをアートだと思えば、アートという事だし、芸術作品はそれ自体が芸術作品たら占める何かをもっているという事らしいのだけれど、なるほど、私にはよく分からない。

唯はっきりしている事は、表現には失敗は許されて、デザインは失敗が許されないという事だと思う。。

表現は、誰かに評価されない、そう、絵日記に書き足す範囲内、誰にも評価されなければ、どんな風に書いても良いし、基本的に手癖は個性になる。

デザインは違う。デザインに手癖はない。そうあるべき形として、存在している。テキスタイルみたいに、繰り返し、反復と云った要素等を用いて、自然界の成り立ちを模したり、空間の在り方がデフォルメされて、象徴化されていたり‥あれ、あまりアートと変わらなくない?

唯、デザインには表現上のルールがそれぞれ存在していて、それらの作品はそのルールの中で展開される、存在の可能性だと思う。

どちらにしろ、本人の感性の中に表現の正解があるにしろ、デザインの方がその存在を決定する為のパラメーターが多いという事になる。

じゃあ表現は適当なのかというと、そういう訳ではない。彼らの中の、非言語パロメーターが絶対的で、圧倒的で、多様で、だからこそ真似されない、真似できない画集が書店に並んでいる。

表現とデザインが依存するモノ

表現が依存するのは感性で、デザインが依存するものは、感性に、知性を添えた何かだ。

「デザインは、その形に何らかの、言語的、幾何学的なルールを持っていないといけない。」

と、先ほど記載した。これは思い込みだ。

別に、ルールなきデザインなんて、この世には溢れる程あるだろうし。

私が記載したデザインのルールなんて、分かりやすく、表現を語っただけで、大事な事なんて何一つ言えてはいない。

それがこの社会の、私の課題だ。

この社会は、権威で成り立っている。権威とは、序列で、序列には、それを形作る為の、文脈が必要だ。

デザインが、大抵のものが、権威を持つには、そこには常人が理解しきれない程の感性や、知性が必要だ。他にはない何かがあるという、差別化が必要だ。

差別化を最もわかりやすく、社会に浸透させる媒体は何か、言葉だ。

飽きる程聞くけど、私達はみんな自己肯定感を求めている。

悪い場合は、私の様に、自分を肯定する為に社会に対する認識を捻じ曲げ、愚弄して、罵倒する。

引きこもりの内面がそう罵倒されるように、こころが内面に向かう人達の多くは、正しい努力の仕方を忘れた私の様な人たちは、自分の全能感を信じて疑わない。

だから、自分に理解できないモノの存在は、社会の、デザインでも何でもいいから、その存在の価値を図るパロメーターが乏しいモノは、みんな平気で否定する。私も。

そうやって、自分には理解出来ないモノはないという全能感に浸っていられるから、今の私みたいに。

知性こそ至上、という現代社会は実際、その通りで、空虚感に疲弊している私達は、常に生きる根拠を求めている。

その結果、デザインであれば、少しでもその存在を肯定する根拠となるパロメーターが欲しい。少なくとも理性で理解できるという事は、生まれた事に意味を見出せるから。という傾向が生まれる事になったのかもしれない。

否定される要素を払拭しなければならない、否定する要素を探さなければならない、自分を肯定する為に。

結局のところ、空虚感を埋め合わせる為に、全能であろうとする頭のおかしい人達が、罵倒してもよさそうな対象を探して、罵倒する、そんな土地狂った文化の最高峰が、表現とデザインの世界なのかもしれない。

何が言いたいのかよく分からなくなった。








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