【読書メモ】限界から始まる往復書簡



エロス資本 鈴木涼美 

P10
被害者という言葉の檻への抵抗と悪あがき。被害者の顔をせずに「害」を断罪することができるか、というのが自分に課していた態度です

限界から始まる往復書簡

被害者だと自覚をするのはダメなことではないと思うし人それぞれだけど(私自身は被害者…今持っているものを損なわれた、という感覚よりも、得ることができたかもしれないものをうばわないでー!という感覚を持っている)、被害者になることで感情が乗ってしまい、また少しでもその感情を拾われてしまうと、今度は女はヒステリック沼に絡め取られてしまうから、どうゆう思想の持ち主であれ、この一文はスキルとしてもとても重要なことだと思います。

P10-11
ただ私が間近で見てきた女性たちや、当事者として体験してきた自分という女性は、もう少し強く、面白いものだったような気がするし、闘う武器も獲得したはずだし、そんな時、踏みにじられた者というレッテルは私たちを退屈で単純なものにしてしまう気がして、邪魔ですらありました。

限界から始まる往復書簡

自分はなめんなよ?って思ってるタイプだし、周りの友人も考えながら闘うウーマンなので、踏みにじられた者として矮小化されてしまうような気持ちは確かにある。

P13
被害者の皮を剥ごうとしてきた私は彼女たちの運動を妨げるものであって、嫌悪されるのは当然のようにも思います。

限界から始まる往復書簡

最初この本の紹介を見たときに、女性の中にあるアンチフェミニズム的な観点から鈴木涼美さんは語られるのかと、トーンポリシングされたような気持ちになるのかと警戒をしたのですが、本屋でパラパラと中を見たときに、「被害者の顔をせずに「害」を断罪することができるか」の一文を見てハッとするものがあり、購入しました。
その経緯からすると、フェミニズムにおける女性と女性の分断、あるいは女性と男性の分断は、「被害者の顔をせずに「害」を断罪することができるか」というスキルを双方得ることで、大きく事態が動くのではないかと感じる部分でもあります。(ただ物事を分離して見ることは高度なスキルなので、現実的ではないとは思いますが)

P13
その、以前から私が著作のテーマの一つとして挙げてきた身体の商品的価値について、ハキムの「エロスの資本」を参考に話した橘さんとの対談に対しての読者の方々の反応や批判を見ていると、その現状に怒っているというよりも「そんなものはなかった」「AV女優やキャバクラ嬢など一部の女性が与えられているにすぎない」という立場の方が想像以上に多くて、エロスは「資本」ではなく「負債」だというコメントも拝見しました

限界から始まる往復書簡

この、エロスは「負債」だってコメント、価値がつけられてるから資本になる人と負債になる人が生まれる感じがつらい。
この手の話でも、やはり切り分けて話していかないとならないのは「モテ」側の意味合いでの身体の商品的価値と、いざとなれば体を換金できる(ギリギリになったら体を売ってお金をなんとかしようという価値観の存在を一切知らずに生きているのは、深窓のご令嬢以外はなかなかいないかと)という意味合いでの身体の商品的価値のことは、ひとつの言葉の中でも分化して話すことは理解を深める上で大事だなと感じた。

P15
でも、実際に会社やAV撮影や家庭や恋愛の現場で、降りかかるものを逞しく楽しみながら闘う女性たちを見てきて、それをかわいそうなふりをして報告する行為は、私がサインアップしたフェミニズムの姿ではないという思いもあります。

限界から始まる往復書簡

被害者って、状態であってその人そのもののことではない。性産業に従事している人でも、本当に自らの選択として、他もたくさん選べる中選んだ人も決してゼロではないだろうし(実際鈴木さんはそちら側)、そうでなかったとしても(そうでなかった社会構造は放置してはいけないけれど)、誇りを持って今働いていることを被害者のレッテルで「侮辱」してしまうこともある。
ほんとうに、どんな切り口で語るのであれ、「〜と考える人"も"いる」という目線を絶対に忘れてはいけないなと思った。
考えるべきは、たくさんの人(この問題の場合は女性)がこの”状態”に陥る”構造”。

エロス資本 上野千鶴子

上野先生の書簡を読んでいると、これは切り取ってメモを残すものではなく、全てが繋がっているロジックで、一部分だけ切り出すと過激なフェミニズムだけのように見えてしまうので、切り取りをやめた。

「エロス資本」ではない、「エロス商品」だ。

という意見には、ハッとさせられるものがあって、資本的な見地で語れば、自ら選択したことである、プロ意識を持っている…とギリギリの自尊心を抱くことはできるから、買う側も、買われる側も表面上イーブンでwin-win(それどころか対価として高い報酬を得ているだろう、と)に見える。
でも実際は、もっと見えない手前に非対称があって、見えてるところだけでヨーイドンして対等、と言っている状況なのではないか、という気づき。

そしてこの書簡で、先に送られた鈴木涼美さんの書簡はボコボコにされている。(注:ボコボコにされる=自分よりも賢い、自分よりレベルが高いと感じる人にボコボコにされるのは、恥ずかしさ情けなさ、悔しさと共に快感が研究者の方なら発生しているのではと思う。腐すためのボコボコではなくて、鍛えられるニュアンス)

そして一緒に読んでいる自分もボコボコにされている。

その後、母と娘の関係性に触れられ、上野先生が指摘する鈴木さんの母娘関係が非常に自分と重なる部分があり、全く準備していない状態で抉られてしまった(汗)

 母と娘 鈴木涼美

P39
大人になってみれば、「ダメと言ったらダメ」だとか「先生がダメと言うならダメ」だとか言われるよりも、母自身の言葉をぶつけられ、ぶつけ返すことを求められる環境の方が恵まれているように思えます。でも幼心には、黙ることが許されず、自分の思いの丈を常に説明させられる環境は、逆に言葉の外に出る自由がないような気分にさせられるものでした。

限界から始まる往復書簡

うちの話かと思った!
ただ私が、意見を言っても”正しい意見”で返されるのがわかっていたから言葉で返さず、意志だけ目で伝えてたからただひたすら目で言うな言葉で言いなさいと責められる形でしたが…たまに言葉で返してみるとやっぱり予想通りに返されるので、言うの嫌になっちゃうんだよね。
みんなが持っているから、みんながやってるから。と言う理由を許さず、決して認めてくれない親だったから子供の頃は辛かったけれど、大人になって役に立っていると実感する場面は多々ある。
上野先生の書簡の中にあった

子が親に求めるものが
「愛か、理解か?」という究極の二者択一だったとしたら

限界から始まる往復書簡

の問いに、今感謝した私は理解(同じ親)を選ぶかって言ったら、選びたくはないな。
今生きていると感じるこれらのことは、怪我の功名、オマケのような感覚だから。努力して身につけてきたと言う実感もないし、望んでいたわけでもないから。
…と思う時と、この怪我の功名こそに私の価値があると感じられる場面があり、何事も答えは、場面、人、タイミングの組み合わせで変わるものであるとも同時にすごく感じている。

P43
私は表面上は自分が理解されたい、理解されなくて辛いのだと思っていましたが、本当は理解されたくなかったのかもしれません。

限界から始まる往復書簡

これは自分自身においては、すごくジレンマを感じているところでもあって、母の言う賢い人像にハマりたい自分と、その枠を超えたくて仕方がない、母の理解できる範囲にいたくない自分がいる。

P45
はっきり区別しますが、私は被害を受けた女性の行いについて彼女たちの愚かさを指摘する気は全くありません。しかし自分自身のことでは、私は被害者になる権利はないと言う考えから自由になったことはありません。

限界から始まる往復書簡

自己肯定感低い人あるある…
人はやってもいいけど、自分は許されない。みたいなものがすごくあるし、だから周りの人からのそんなことないよ、と言う言葉が受け取れない。

 母と娘 上野千鶴子


「あなたにとって親とは?」「はた迷惑」

P53
私は自分が子どもを産まなかったことで、少なくとも誰かにとって「はた迷惑」な存在であることを免れたという気持ちとともに、他人の人生を強引に巻き込むほどの巨大なエゴイズム(生命力とも言いますが)を、自分が持たなかったのだとふりかえることがあります。

限界から始まる往復書簡

子どもを持つことのエゴは、最近とっても感じていて、周り見てすごいなって本当に思う。

また、研究者の意見は過去の様々なエビデンスを参照した上で練り上げられたものという信頼があるから、世の中のこと・自分が感じていることはすでに長年研究されて原因と結果が明らかになっている…フェミニズムに限らず、世の中でモヤモヤすることは学ぶことでクリアになるのかもしれない。

恋愛とセックス 鈴木涼美

本文の主旨とは外れるけれども、AV女優・元AV女優のスティグマ、その例として出てくる男性のコメントを男性は見て欲しい…
私ですら”男子同士のノリ”で”こうゆう話”を”悪気なく”、時には”教室など男女が一緒にいる場所で”も話していることを知っている。日常の雑談としてこれらの話題があることに違和感を感じる日本社会になって欲しい。

恋愛とセックス 上野千鶴子

この書簡を読んでいて、正しいセックス、知らないなぁ、と気付かされた。AVをはじめ、様々なメディアでセックスの描写はあるし、”やり方”は良かれ悪かれ流布しているけれど、人権的な意味合いだったり、セックスとはどうゆう存在なのかといった部分での”正しいセックス”知る機会はいまだにないな…

P79
女の快楽を受動的なものだと思ってはいけません。ひとはそれを自ら受け容れたときにだけ、快楽を感じることができます。同じルーティンを繰り返しても、女の側に能動的な「受容」と「没入」がなければ、快楽など訪れようがないのです。

限界から始まる往復書簡

 高齢女性の、”一刻も早く終わって欲しいあのつらいおつとめ”(本文抜粋) であったセックスの話と対で考えると…おつとめという受動的な行為、他方男性は辛いと感じているなど見えていなかったと思うと、第三者の位置から見える景色は地獄そのもの…


随分前に読み、下書きに残したままだったものをアップ。

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