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当事者と部外者の間で8年間。震災のこと。

まえがき

震災から丸8年。

震災との向き合い方について、そろそろ自分なりに何となく折り合いをつけることができるようになってきたかなと思い、まとめてみることにした。

別にこれまでこの話題をあえて避けてきたわけじゃないんだけど、ほとんど誰からもこの辺深く聞かれなかったし、自分から話す機会というのも特に無かったと思うので、何だかんだでそのまま8年経ってしまった。

つまりこれは、実に8年もの間溜め込んだ思考のアウトプット。

はじめに

岩手県陸前高田市生まれ。出生から高校卒業まで過ごした。
自分が大学生の時に実家が引っ越しをして、現在の実家は宮城県気仙沼市。

岩手県陸前高田市
宮城県気仙沼市

どちらも震災直後に衝撃的な見出しと共に報じられた街だ。

気仙沼は当時からフカヒレのおかげで知名度はそれなりにあったが、陸前高田の知名度は非常に低く、上京したてのころの飲み会で出身地のことを話しても、ほとんどの人に伝わらない状況だった。

個人的にはそんな時、左手をグーにして岩手県に見立て(折った5本の指がリアス式海岸を表す感じで)、「その小指のとこが陸前高田だよ」と教えるネタをよくやっていて、上京したての慣れない飲み会で助かったりしていた。

そんな知名度だった陸前高田も気仙沼も、今ではそんなネタで説明する必要がないくらい名が知られるようになった。

震災当日のこと

当時首都圏に住んでおり、東京多摩地方のオフィスの地下会議室でその時を迎えた。

東京多摩地方は割と地盤が強いらしく、かつ、たまたま地下室に居たので揺れとしては恐らくだいぶ抑えられていたはず。それでも相当な揺れだった。

震源は東北。揺れの規模的に只事ではないなとは思いつつも、割と東北地方で地震は良く起きるので、当初はそんなに大きくは気にしてはいなかった。

そんなちょっとした時間の間に大津波警報。

そういえば気仙沼の実家は、海のすぐそばでは無いものの割と海に近いエリアで、かつ大きな川沿い。
また、そもそも陸前高田に住んでいた幼少期、よく津波想定の避難訓練もしてたし、一度大きめの地震の時にホントに避難したこともあった。

そこで地震直後から実家に連絡し始めたけど、もう既に電話は繋がらない状態。そこから朝まで断続的に連絡し続けた。繋がらないけど。

そんな中で、上記に挙げた記事やその他にわかには信じがたい多くの情報を見かけ、事の重大さに気づき始めた。

気仙沼市ではタンクから流出した重油に引火して大規模な火災が発生し、県は「甚大な被害が出ている」と発表した。市街地で大きな被害が出ているとの情報もある。

??

地震発生約1時間後、県警が上空から観測したところ、陸前高田市は市街地の約半分が波にのまれ、間もなく市街地が確認できなくなったという。

???

さすがに本当に意味がわからなかった。生まれ育った街が「水没」する事なんて普通あります?

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地震から6日後の3/17、実家から両親や親族全員の無事の連絡が来る。その間いろんなことがあったけど、ひとまず無事だったわけなので、とりあえず今はもうその辺の話はいいかな。

震災から1ヶ月後の現地

首都圏に住んでいるわりには割と早い時期に現地に行った。

当時はまだ東北新幹線が全線復旧しておらず、東京→福島までは新幹線、福島→仙台まで東北本線、仙台→気仙沼までバスという経路で丸1日かかった。

気仙沼も、陸前高田も、ちょっと足を伸ばして行ってみた大船渡も、とにかくとても酷い状況だった。

川に家や大型トラックが沈んでる。
瓦礫の山で道路が閉ざされている。
避難所はほとんどプライベートエリアがない。
そして、
そもそも、街が無い。

その時に両親や地元の友人たち何人かと話したけど、共通して明るく接してくれた事がずっと記憶に残っている。

震災から1ヶ月経っており、仮設住宅が建ち始め、周りでは自衛隊が炊き出しやお風呂の整備などをしていることもあって、震災当初から比べればひとまずは平穏な状態にはなっていたようで、現地で話した人達はみんな思いの外元気だった。

もちろんこの1ヶ月が想像を絶するものだったであろうと思うので、一旦それが落ち着いて、「さて、これからどうすっぺ」というタイミングだったのだと思う。

Webやニュースの情報だけ見てきて陰鬱な気分でいた自分の方がたぶん暗い表情してただろうし、首都圏に住む自分とこの震災の当事者との大きな意識の違いを思い知らされた。

そもそも、直接的な被害に遭っていない自分はこの震災の「当事者」とは言いがたい。
とはいえ、実家の街が炎上し、自分の生まれ育った街が無くなり、その姿を実際に目にした以上、もはや「部外者」ではいられない。

そんな、「部外者以上、当事者未満」な気持ちを抱えて、首都圏に帰ることになった。

震災後の生活

首都圏に戻って以来、ずっと震災の情報を片耳に入れつつ、でも通常営業で仕事をこなす、という日々が続いた。

日々流れるニュースではほとんど聞き覚えのある地名が並び、それによって意識をそっちに持っていかれつつも、今まで通りの日常を過ごす、というのは思いのほか消耗した。

当時、多くの人がそうだったと思うけど、「何かホントに今こんな事してていいんだろうか?」「何か他にも出来ることがあるんじゃないか?」みたいな思いも日々抱えていた。

でも、ただの一般市民がこの大き過ぎる災害に対して何か特別なことが出来る訳ではなく、また、何か今すぐ役に立てるようなスキルを持っている訳でもないので、せめて募金箱に小銭じゃなく千円札を入れるくらいの事しかできなかった。

あと、まぁ実際は他にもたくさん理由はあるんだけど、こんな時に何もできないスキルでは将来やっていけないだろうなという事もあり、新卒から9年くらい働いた会社から転職した。

「明日急に会社が無くなっても、生きていけるか?」みたいなことをこの頃から頭の片隅に置くようになったように思う。(この数年後、そういう意識の持ち方は割と正しかったと思い知る事になるが、それはまた別のお話)

仙台への移住

そもそも震災有無に関わらず「東北」には帰りたいと思っていて、とはいえ自分がやりたい事をできるのは東北の中でも仙台くらいしか現実的になさそう、というのと、東北の田舎育ちからすると仙台が「東北における東京」なので昔から単純な憧れがあり、震災から数年を経て移住することにした。

住んでみるとすぐわかるんだけど、ホントに今でも県内ニュースでは毎日震災関連情報がいくつか流れる。

ちょっと海沿いまで行けば、今でも復興作業の真っ最中で毎日大型トラックが大量に行き来してる。

実家が近くなったのでたまに帰るけど、それこそトラックや工事車両の量はもっと増えるし、災害復興道路として位置づけられた地元近辺の自動車専用道は、自分が物心ついた頃から長らく計画中のままだったのにこの数年で一気に大きな進捗を見せ、そろそろ完成が迫ってる。

帰省ついでに陸前高田にも足を伸ばしてみるけど、ここ数年でやっと嵩上げ地の上に中心市街地が作られ始めたところ。

要するに、現在進行形なんですよね。だから毎日ニュースで流れる。これは首都圏に住んでた時は知らなかったこと。

震災との向き合い方

そんなこんなで仙台に住んで2年半。なんとなくわかってきた事があって。

結局、首都圏から色々震災についていくら思いを巡らせても、それは遠く離れたところから見た風景でしかなく、現在進行形で流れる震災の形はその場に居ないと見れないし、その度に求められることもその場では常に変化していて。

仙台に住む際、浸水域ギリギリに当たる仙台東エリアを選んだのも、まぁいろんな理由はあるけど、ちょっと震災を自分事と捉えたいところもあって。

これまで中途半端な立ち位置にいて、結果的に何もできずに消耗していた現実があり、もうこれ以上、部外者ではいられないなと思って。

そんな思いを抱えつつ、去年の3/11にふとこんなことを呟いたけど、結局これがこの震災に対する自分なりの向き合い方なんじゃないかなぁ、などと思った。

遠くから見ると何かとてつもなく大きな、特別なことのように思え、それに対して何か特別なことをしないといけないような気になってしまったりするんだけど、近い場所から見ると実はそんなことはなくて、身近なことからできることもいろいろ見えてくる。

この仙台で普通に生きて、お金を稼いで納税して、お金を消費して経済を回す事には意味があるし、これまで通りたまに実家に帰省して、美味しい海産物を食べて、お土産買うことにも意味がある。途中の道の駅でお昼ご飯を食べる事にも、ちゃんと意味があるはず。

もちろん、もっと直接的な支援に繋がることも首を突っ込んでいくつもりだけど、それもやっぱりここに居るからできることだし、ここでやることに意味があると思っている。

まだ現在進行形だし、別に遅くはないと思っていて、これからは自分もそんな感じで、あくまで気負いし過ぎず、末永く続けられる「当事者」としてやっていこうと思っている。これはその宣誓。

おわりに

遅くはない、というのはきっと誰にも当てはまる事なので、みんな一度はその目でここを見に来て欲しいな、と思っています。

「まだ終わってない」ってことを知るだけでも結構意味があって、そこから何かしら感じとれるモノがあるんじゃないかなぁと思うんですよね。

で、たっぷりお土産買ってってくださいな。気仙沼のサンマ、旨いっすよ。

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