見出し画像

メイヤスーの「信仰主義」について

おそらく書いたことはないが、自分自身はメイヤスーの「信仰主義」は主にヤコービのことを念頭においており、それが現代における宗教戦争の理論的正当化として復活しているのを批判したのだと理解している。ヤコービによれば、哲学的立場からは、カントのように「絶対的なもの」については「沈黙」しなければならないか、スピノザのように「非人格的な絶対者」を説くかの二択しかない。ゆえに宗教の問題は理性的に議論できない、というのがヤコービの「信仰主義」であった。ヤコービのこのような非合理主義的な信仰論に反発したのが若きシェリングやヘーゲルである。彼らによれば、宗教的問題が理性的に議論できないなら、ありとあらゆる宗教的言説が理論的には成立してしまい、メイヤスーの言うように、教義の真理は信者の「品性」によって判定される外ない。シェリングの『哲学と宗教』を読むと、この問題が彼にとってどれほど重要だったかが見て取られる。そこではどのようにして宗教の問題を、その反理性的あるいは超理性的性格を損わずに、理性的に論じうるのか、ということが主題とされている。後期哲学ではこれは「哲学的宗教」の問題として論じられるのだが、最近の研究では、このような理念が強力な「政治性」を帯びていることが強調されている。ここから振り返るとヤコービの「信仰主義」には、十分に哲学的に反省されてない政治的意図があることになるかもしれない。

Asanuma Kouki