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「政治と霊性」後書

京都学派をめぐる諸問題のなかでも、一般に関心が集まりやすいのはいわゆる「戦争責任」の問題であろう。とはいえ、この問題を真剣に論じようと思うと、戦中期だけでなく戦後の京都学派の動向にも十分に注意を払わなければならない。しかし、そういう問題意識のもとに戦後の京都学派の発言を丹念に追っている文献は多くはない。竹内好の古典的論考にすでにそのような問題意識が見られるにもかかわらず、それを展開しているのは米谷匡史くらいである。 竹内や米谷の論考は、戦後日本の思想的土壌に戦中期の京都学派

    • 〈ポスト・ヒューマニティーズへの百年〉と題する原稿に〈絶滅の場所〉という副題がついた。〈人間ならざるものの実存主義〉という一つの主題が漆黒の中に見分けられると、葡萄の蔓のように驚きと喜びの感情が巻きついていく。《黒》と《銀》が〈絶滅の場所〉を写し撮っているのなら、《灰》は優しい声で別のことを語っている。

      • インヒューマンについて

        〈インヒューマン〉とは何だろうか。 〈マスロック〉というジャンルの音楽を最近よく聴いている。〈マス〉というのは〈数学〉に由来し、〈数理のように緻密に構築された〉という意味らしい。スティーブ・ライヒやディシプリンの頃のキング・クリムゾンのような複雑極まりないポリリズムを土台として、その上に歪みを抑えたギターが技巧の限りを尽して奏でられるインストゥルメンタルが主流である。意外にもルーツは、クラシックやジャズではなく、プリミティブなパンク・ロックにあり、それが極限まで複雑化したも

        • ガブリエルへの疑問

          マルクス・ガブリエルに関する私の疑問は、彼の思想において〈ない〉と〈ある〉がどのように内的に連関しているか、という問いに集約される。ガブリエルには専門的著作と通俗的著作の二種類があるが、フィヒテの例からも明らかなように、後者は前者のエッセンスを煮詰めこそすれ、薄めたりはしない。そこで『なぜ世界は存在しないのか』と『私は脳ではない』という二つの著作を取り上げると、共に軸となっているのは〈ない〉から〈ある〉への転換である。つまり〈世界は存在しない〉から〈無数の意味の場が存在する〉

        「政治と霊性」後書

          メイヤスーの「信仰主義」について

          おそらく書いたことはないが、自分自身はメイヤスーの「信仰主義」は主にヤコービのことを念頭においており、それが現代における宗教戦争の理論的正当化として復活しているのを批判したのだと理解している。ヤコービによれば、哲学的立場からは、カントのように「絶対的なもの」については「沈黙」しなければならないか、スピノザのように「非人格的な絶対者」を説くかの二択しかない。ゆえに宗教の問題は理性的に議論できない、というのがヤコービの「信仰主義」であった。ヤコービのこのような非合理主義的な信仰論

          メイヤスーの「信仰主義」について