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明けない夜はない:《クルアーン》「朝章」(93章)第1・2節をめぐって

「朝」とは一体?

「ワッドゥハー」《聖典クルアーン》の朝章の第1節。「朝にかけて」と訳される。この「ワ」は前置詞で「~にかけて」を意味し、それに続く「ドゥハー」に定冠詞が付されている関係で「ッ」が間に入っている。朝に当たる単語は、「ドゥハーضحى」である。「ドゥハー」の「ドゥض」は、第15番目のアラビア文字に当たり、アラビア語が「ض (ダゥアードゥ)の言葉」と称されることがあるように、特有の子音である。ということは、「ダゥァードゥ」を含むこの単語、アラビア語ならではの「朝」である。

ところで、この単語には、「朝」という意味と「昼間」という意味がある。サーブーニーは、「太陽が昇る朝の始まりの時」にかけて、ということだと解説していた。

アッラーズィーもまた、「太陽が昇る朝の始まりの時」をアッドゥハーの意味として最初に掲げている。しかし、それと共に、「昼間全体」を指すという見解も上げてはいる。第2節の「夜」は、夜の全体なのだから、それとバランスを取る意味で、こちらも「昼」の全体を指すという読み方である。

ただ、第2節以降の注釈を読んでいくと、アッドゥハーは、朝の始まりの一時のことと、解しておいた方が全体の解釈上はよりダイナミズムに富んだ解釈ができるようにも思われる。

「朝」という一言ではあるのだけれど、たとえば日本語でどのように訳すのか。訳者のセンスが垣間見られるような違いがみられる。

協会訳は「朝の(輝き)」としているし、中田訳は、「朝」とだけ、井筒訳は、「あけはなつ朝」としているのだ。「輝き」にせよ「あけはなつ」にせよ、上のアラビア語の注釈からはずれている。なぜならば、アッドゥハーは、日の出直後からの「時間」を指す言葉なのであって、その光の具合を意識した言葉ではないからである。

しかし、アラビア語で朝を表す言葉、サバーフ、あるいは、昼を表す言葉、ナハールではなく、あえてのドゥハーである。サバーフの最初の文字は「サード」。最初から、かしこまっていて、かつちょっとこもっている感じ。ナハールの最初の文字「ヌーン」は、フェニキア文字的には蛇又は魚とされるから、蛇行する河川のイメージか。などと考えていくと「ダード」には、こもっていたものを突破するような力強さがある。光(ダウ)、圧力(ダブト)、対立・対抗(を示す前置詞)(ディッダ)、必須「ダルーラ」。何れも、心に圧をかけてくるような強さを持つ言葉たちだ。

となると、アッドゥハーとしての朝は、雲海から昇ってくる太陽、あるいはその光をイメージできないわけでもない。「輝き」や「あけはなつ」は、かえって、ドゥハーの語感を汲んでいると言えなくもない。

 

「サジャーする」「夜」とは

第2節は「ワッライル」で始まる。この言葉は、「夜」を意味するもっとも一般的な語である。細かいことを言えば、ライルと言えば、夜全般、ライラトゥと、語尾にターマルブータを付せば、「一夜」の意味になる。魚をサマクと言うが、それは全般的に魚を指す時の言い方で、1尾の時には、ここでも語尾にターマルブータを付けて、サマカトゥとする。そうなると一匹の魚、数えられる名詞にもなる。

定冠詞がついているので、この場合は、総称を示して定冠詞が付されていると考えられる。しかし、アッライルでは、アッドゥハーの語自体が持っている、限定的な性質に釣り合わないのだろう。アッラーは、このライルには、「サジャーの時の」あるいは「サジャーになった時」という限定をかけてきた。

日本語訳は、「静寂な夜」(協会訳)、「静まりかえった時の夜」(中田訳)、「静かに眠る夜」(井筒訳)となっていて、いずれも「サジャー」の「静かになる」という意味をとっている。

サーブーニーの注釈によれば、サジャーが静かさだけでないことがわかる。彼自身は、イブン・アッバースにならって、「闇が覆う」という意味で「サジャー」を捉える。が、それと同時に、「静まりかえった時、すなわち闇に覆われ漆黒に包まれた夜」というイブン・カスィールの注釈も紹介している。

アッラーズィーは、「サジャー」の語義には、3つの解釈があるとしている。静寂であり、闇であり、覆いである。静寂であれば、海が凪ぐときのように風の吹かない静かな夜。あるいは、人々が寝静まっているための静けさであるとか、夜の闇が安定して広がっているもの静かさの意味も含めつつ、これらがサジャーであるとされる。「闇」であれば、サジャーは、闇が横たわることという意味になり、「覆い」であれば、服を纏うのと同じように、夜が昼間を覆って、夜という服を着ることという意味になる。

静かさなのか、闇なのか、覆いなのか。細かく言えば3つの意味を持つ「サジャー」であるとするならば、「静まりかえった時、すなわち闇に覆われ漆黒に包まれた夜」というイブン・カスィールの注釈は、総花的に3つの語義を盛り込んだものであることがわかる。

 

「朝」と「夜」にかんする、尽きない「なぜ」

僅か4つの言葉の塊からなる「朝章」の第1節と第2節。朝と夜の語義の理解で満足してはいけない。この2節にも、掘り起こすべき問いが散りばめられている。

まず、「朝」と「夜」の順番である。一つ前の「夜章」は「静まりかえる夜にかけて」で始まって、その後ろに「輝く昼間にかけて」と続いている。「朝章」においても、朝と夜との順番は、「夜」から「朝」になっていてもよさそうなのに、「朝章」では、「朝」から「夜」の順番だ。

ここは、アッラーズィーに尋ねておこう。まず順序の件から。結論から言えば、それぞれにそれぞれの徳性が存在するのだから、どちらかが先でなければならないということはないと。クルアーンの中には、たとえば、ルクーウとスジュードの順になっている節と、それらが逆に並べられているケースとがある。また、闇から光へ導かれるようなケースは、夜の言及が先立ち、光から闇に引き戻されるようなケースではその逆になるということも言える。

その他にも疑問はある。アッラーズィーの注釈の中からいくつかを紹介しておこう。

 なぜ「朝の一時」が選ばれたのか。


これについては、二つの答えがある。

①人々が集まり、夜間の淋しさの後で人々の親密さが満ちるときだから。人々は彼に伝えている。啓示が止まってしまったことで寂しさが増した後に朝の光が啓示を届けてくれる。

 ②ムーサ―が、彼の主と話した時間(がドゥハー)であり、妖術使いたちがひれ伏した時間でもあり、時が徳という属性を帯びる。いかにか、行為者は敬虔になる。さらに付け加えるべきは、ムーサーに敬意を払った者は、あなたに対する敬意を斥けないし、妖術使いの心をひれ伏すようになるまで変わらせた御方は、あなたの敵の心をも変えさせるということだ。

 夜は、その全体が、しかし朝は、昼のほんの一時に当たるアッドゥハーが取り上げられたのはなぜか。

 これについては、4つの回答が紹介されている。

①昼の一時というのは、夜のすべての時間に匹敵することを示すという見解。それはムハンマドという一人の預言者が他のすべての預言者たちに匹敵するのと同じこと。

 ②昼が喜びと休息の時だとするなら、夜は寂しさと悲しみの時。したがって、この序列は、この世の悲しみは喜びより長く続くことを示している。なぜならば、アッドゥハーは一時でアッライルは数時間に及んでいるから。

次のような伝承がある。至高なる御方が玉座を創造した際、その右側から黒い雲がかかってきて、叫んだ。「何に雨を降らせるのか」と。玉座は答えて言った。100年間、心配と悲しみに雨を降らせ(て生を与えよ)」と。玉座はそうなったのを確認すると、もう一度、今度は300年に渡って雨を降らせと命じた。その後、玉座の右側から白い雲がかかってきて叫んだ。「何に雨を降らせるのか」。玉座は答えて、「喜びに一時間雨を降らせよ」と言った。このせいで、あなたはいつも心配でいつも悲しいのに、喜びは少しで稀にしかないのだ。

 ③朝の時間は、人々が動き、互いに知り合う時間であり、(復活の時のような)集合の時になっている。これに対して夜の時間は、人々が墓の闇の中で静まりかえっているかのような静けさの時である。昼にも夜にも共に叡智があり恩恵がある。しかし、生の美徳は死のそれに優る。死後のこと(来世)は、死以前のことに優るが、(生と死を比べれば生は死に優る)。このため、朝の言及が、夜の言及に先立っている。

 ④朝について、悪いことが起きないよう、人々は唱念を行ない、その後で、不快な出来事から安全が脅かされないよう、夜に言及している。

 クルアーンという書の一節であるからこその、意味の追究と言えそうだ。

「ダゥァード」の朝、「サジャー」の夜

無花果章の冒頭にもカサムがあった。イチジク、オリーブ、シナイ山、マッカの町という4つにかけて人間が直立二足歩行の生物として創造されたことが降されていた。その際、これらの4つが、アラブにとっては特別な縁や所縁を感じ得る、周知の事柄であることが確認できた。それに比して、朝章がフォーカスする朝と夜は、白夜などの例外的なケースもあるが、とりあえず、地球上どこに住んでいても、それが交互に現れる現象と向き合わないわけにはいかない。となれば、「朝章」のカサムは、アラブに限らず、世界中の多くの人々にとっても、説得力のある誓いになっているのではないかと期待した。

 実際には、こてこてのアラブバージョンの朝であり、夜であった。もちろん、参照している注釈書が啓示直後の時代とそこから500年ほどたったころのそれと、さらに現代のそれ。それらを読み解いても、アラブの朝とアラブの夜が出てくるのは当たり前と言えばそうであろう。アラビア語の意味が解ってはじめてクルアーンの真意、つまりアッラーの御言葉の意味を把握することができるのだとすれば、「アッドゥハー」や「アッライル」の信仰上・文化上・言語上の含意まで含めて語義を押さえておくことは必須である。それなしに、聖典の意味にアプローチすることは不可能だとどうしても考えてしまう。

 ただ、その一方で一つはっきりしていることがあるように思われる。日々の信仰行為の中で、あるいはクルアーンの読誦という行為の中で、「朝章」の冒頭2節をそうして注釈された様々を想起しながら読むことは、おそらく不可能だということだ。特に外国語として聖典を読む場合には、その困難の度合いは一気に高まるように思える。となれば、まずは意味よりも暗記、クルアーンの文言が口から出てこなければ、お祈りさえできないのだから、とりあえずは覚える。それが「朝」という意味だなど、知ったことではない。そうなると、理解は形骸化、それによって行われるお祈りもまた形骸化ということになりはしないか。

そうした状況の中でもなお、地球上どこにいても朝が来るように、本章もまた、たとえ意味が分からなくても、世界中どこであっても「ワッドゥハー」と読まれるのである。雲海を昇る朝日を示すかのような「ダード」の文字で始まる朝。この言葉を繰り返し放った時の響きが人間の脳に与える影響。その時圧倒的に重要なのは、実際に朝の光に身をさらすことだろうと思われる。

 読みえた注釈書を総合し、それを拙い日本語に置き替えてみれば、「差し込む光の朝にかけて、静まりかえり漆黒の闇に包まれた夜にかけて」ということになりそうだが、それはこれまでの人々の解釈をもとにした私の解釈にすぎない。

「ワッドゥハー」という言葉の意味を知ったのならば、朝日を浴びてみる。「ワッライリ・イザーサジャー」の言葉を胸に、実際に夜を過ごしてみる。たとえ、絶望的な夜に苛まれたとしても、そうすればきっと次の朝には、何らかの光を受け取ることができ、静かな夜にも感謝できるのではなかろうか。

過去の解釈を並べ立ててもそれではアッラーが今の自分に向けたメッセージを知ることはできない。ダードの文字は同じでも、アッラーの創造する朝に、一つとして同じ朝はなく、また「サジャー」の言葉は同じでも自分にとって一つとして同じ夜もない。朝は必ず来る。インシャーアッラー。

主要参考文献


صفوة التفاسير، محمد علي الصابوني، بيروت: المكتبة العصرية، 2005
التفسير الكبير (ط.2)، الفخر الدين الرازي، بيروت: دار احياء التراث العربي، 1997 
井筒俊彦『コーラン』(下)、岩波文庫
日本ムスリム協会『日亜対訳注解聖クルアーン』
中田考監修『日亜対訳クルアーン』作品社


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