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このジェノサイドはなぜ止まらないのか

ガザ地区への無差別攻撃のニュースに心が痛むと、かつての同僚から連絡があった。そこには6つの質問が書き連ねてあった。折しも、「戦闘員一人に民間人2人の死者は、優れている」という主旨のイスラエル軍報道官の発表にも、それを「悪趣味」だという言葉でしか反応できない、国連の担当者にもあきれ果てていた矢先だった。人の命を何だと思っているのか。天賦の権利だ。国家といえども本来は、国民の生殺与奪の権など持っていない。

さて、「国家」というものは政治的な意思決定とそれに基づく政策の執行の主体として、あたかも統一された一つの人格を持ったものとして捉えらる。この国家という凶器の暴力装置について非難はとどまるところがない。ただ、個人は、国家に積極的に束ねられるか、その縛りから少しでも逃れようとするのか、まさに千差万別で、個人のレベルから、今回の国家としてのイスラエルの蛮行を直接結びつけることにも無理があり、そこは切り離して考える用意をするべきであると思う。ここでは「国家」の話として考えてみたい。

信仰共同体としての国民国家?

国民の統合は、近代市民革命以降成立し、今も、国家のベースとして機能している「国民国家」によって行われるが、国民国家の統合が何によってなされるかによって、その結合力には、かなりの差が生じるものと考えられる。
イスラエル国が位置する、アラブ圏を眺めてみたとき、いずれの国家も「国民づくり」は、王政か、軍等による力の支配であることがわかる。たとえばシリア。国民である前にイスラーム教徒であり、国民である前に、それぞれの都市の一員であるという意識が強い(個人的印象ではあるが)。たとえばレバノン。キリスト教徒なのか、スンニー派ムスリムなのか、シーア派ムスリムなのかの方が国家に対する帰属意識よりも強いように認識している。
イスラエル国はどうか。ユダヤ教徒たちもまた、信徒としてのアイデンティティが強いことが予想されるが、教条的に言えば、選民思想を脈々と受け継いでいる「民」たちが、聖書の時代から存在し、数千年の苦難の歴史を経て「国民国家」を得たのであるから、いわば、強固な信仰の共同体としての「民」が先にあって、それに、先住の人々を追い出したうえ、強引に領土を認めさせ、国連の承認を得て「国家」が出来上がっている。

クルアーンの中のユダヤ人

アラブ諸国とは、国家の成り立ちが逆なのである。オスマントルコ帝国の西欧列強による恣意的な分断の産物に軍事政権が国家を樹立し独立した。民たちは、幾世代にもわたって、その土地に住んでいるだけのこと。政治的な支配者が変わっていくだけのこと。信仰の共同体は、多くの場合地域的な色合いを濃くする。その信仰は一部の信者たちによってときに先鋭的暴力的な形で爆発する。
なぜ、ではその矛先がイスラエル国に向かってしまうのか。端的に言って、それは聖典クルアーンが、ユダヤ人が優れた民であることを肯定しつつも、ユダヤ人を敵視し、ときに悪魔視して、排除の対象としているからだ。
クルアーンがそうである以上、時の為政者たちも国としてのまとまりをつけ、自分たちの存在を正当化するうえでも、この上のない材料である。
イスラエル国が1948年の建国以来パレスチナを始めアラブ地域に対して行ってきたことを考え合わせれば、アラブ側からの敵対もその増幅もやむを得ないところがあるが、それには、クルアーンの中のユダヤ人排除が少なからず影響しているとみることができるのだ。

パレスチナ人にも国民としての自衛権がある

さらに付け加えておけば、仮にも国民国家であるのなら、国民は等しく守られるべき。それを犯罪者でもないのに、収容所のごとき矮小な居住区に押し込め、いざとなれば、その収容所に地上からも空からも容赦なく攻撃を仕掛ける。自衛的な組織が立ち上がるのは当然である。要はユダヤ人のみがイスラエル国の国民なのであって、イスラーム教徒は、国民として扱われていない。つまり、イスラエル国は、たしかに「ユダヤ教徒の国」を目指して作られたが、その領土内には、それ以外の宗教とも居住する。
「国民国家」である以上、信仰の如何に左右されない「国民づくり」もまた求められるのだ。イスラエル国には、その意味で、少なくとも「国民」の間の法の下の平等が欠如。イスラエル国の自衛権は、ガザ地区にもヨルダン川西岸にも当然及ぶはずであるのに、ユダヤ人勢力が彼らの生存を根底から侵害する。その意味でイスラエル国はもはや「国民国家」ではない。
仮にもイスラエル国民であるパレスチナ人にも自衛権はある。それにもかかわらずイスラエル国政府は、領土内の少数派に対して国家の自衛権を主張して、ジェノサイドを行う。これほど非対称的な戦いがあろうか。コソボやリビアに対して行われた「人道的介入」が思い出される。
しかし、国連によって作られた国家なのだから、外交努力による問題の解決の余地があると考えられる。
過去の経緯からすれば不本意極まりないが、ガザと西岸の国家としての独立とその承認。イスラエル国による暴虐からの徹底的な安全の確保が、当面、国連を中心とした国際社会に求められるのではないか。

以上を踏まえたうえで、彼からの質問に答えていきたい。

現時点での回答

①ユダヤ教と復讐について:教理としてどの程度まで容赦されているのか。教理と今回の一般市民虐殺のギャップをイスラエル人はどう捉えているのか。


ユダヤ教に限らず、イスラームにおいても、基本は同害報復。
「目には目を歯には歯を」である。したがって、報復行為は正当に認められる。さらに、ユダヤ教においては、「壁に手をかけている者がいれば、盗人に違いないので殺してしまって構わない」という先制攻撃までもが肯定される。となれば、やりすぎの報復もまた正当化されてしまう。もちろん、個々のイスラエル国民がこれをどうとらえているのかは、別の話。海外のユダヤ人たちの抗議活動は、周知のとおりである。

②このままいくとユダヤ人にナチスが行った行為に近いレベルのことを自分たちがしてしまうことへの迷いはないのか。最も憎んでいる組織と同じ行為をユダヤ人自身が他者に行っているという認識はあるのか。

イスラエルこくによる今回虐殺行為は、ユダヤ人と、ユダヤの信仰を守るためという、彼らのとっての大義が存在し、まさにそれを圧倒的な根拠としているものと思われる。ナチスによって奪われた命の分も復讐するとは考えても、ナチスと同じことを自分たちがしているという思考には至らないのではないかと思う。
かつて日本軍が外地で行った戦争とそのいちいちの勝利に歓喜した日本国民の過去から考えることができそう。

③ハマスの戦闘員殲滅は物理的にもほぼ不可能なことはイスラエルは承知していると思うが、この殺戮の出口はどこにすべきなのか。

1400人の国民が犠牲になっているという事実が、どうにも重いはずだ。殲滅はできなくとも、この犠牲者に現世で報いるという考え方のように思われる。
出口は、ガザはもちろん、ヨルダン川西岸についても、人も土地も完全に洗浄することではないか。
ただしそれはイスラエル国家、いや現政権にとってのゴールであって、
第2次世界大戦で学び、第3次世界大戦だけは避けたいと、考えている人々にとって、とても容認できるものではない。
といって、イスラエル国をおとり潰しということもできない。
出たし、イスラエル国が自国民に対してジェサイドを行っている現状に鑑みたとき、彼らの内政の中にパレスチナ人を置いておくことは、ジェノサイドを容認に等しい。であるとするならば、パレスチナ人国家の樹立を国連主導で行うべきではないか。そのことを前提としながら、しかし現実的には、とにかく停戦、国連による停戦監視団の派遣。再建、復興とお決まりの青写真は引けるものの、それには、関係諸国が一致して動ける環境づくりが先。

④世界中の人の目の前で公明に一般人を虐殺をしており、自身がより孤立していくのに止められないのはなぜか。

自分たちが強い信念で行っている暴力なので、孤立はさして問題にならないはず。
ナチスにせよ、ソビエトにせよ、中国にせよ、独裁者による大量虐殺は常に、彼らの強すぎる信念に支えられている。

⑤ヨーロッパは(キリスト教徒)は問題の種を作ったがなぜイスラエル支持ができるのか。

反セム主義の裏返し、ユダヤ人に対する劣等感。あるいは、アウシュビッツの贖罪、アラブ・イスラームに対する負のバイアス。
ヨーロッパもさることながら、米国のイスラエル国現政権に対する支持がお墨付きを与えている現状に異議を唱えたい。

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