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ナフスに聴く:聖典クルアーン「太陽章」をめぐって(第3回/全3回)

内面の問題か?

((ونفس وما سواها))

この箇所について、まずは、日本語訳を見ておこう。
① 「魂にかけて、またそれを造り上げた者(アッラー)にかけて」(井筒訳)

②「魂とそれを整えたということにかけて」(中田訳)

③「魂とそれを釣り合い秩序付けた御方において(誓う)」(協会訳)

いずれも「魂」の語を揃って採用している。「サウワーハー」の訳は、まちまちである。「魂を造り上げる」「魂を整える」「魂を釣り合い秩序付けた」。元が同じとは思えないくらいばらついていないであろうか。

しかしながら、そこに共通しているのは、「ナフスをサウワーする」というとき、魂の話題であるだけに人間の内面(内部ではなく)を整え、均し、秩序付けた――井筒の「造り上げた」は魂にはそぐわない表現のように思われるが――ことが想起される。

これに対して、サーブーニーは、次のように注釈する。

 つまり、アッラーは人間の精神と、それを創り出し考え出し、それがその完成に向けて準備の出来た状態にしている御方を引き合いに、宣言を行う。それは、精神の諸器官と、その内外面の諸力の均等化による。その完全な均等化とは、善と悪、敬虔さと邪悪さを区別できる理性を授けることである。このため、至高なる御方は言う。

サーブーニー『サフワッタファースィール』太陽章の注釈


邦訳と比べたとき、この注釈には違和感が生じる。なぜならば、人間の内面もさることながら、「器官を整える」という意味の精神や心のというより、むしろ命を守り支えるための器官とさえ読めそうな解説が含まれているからである。

アッラーズィーの注釈

つまり、上の訳では、「ナフス」を精神と訳しているのだが、それを「生命」と捉えることも可能なのではないか。「魂」としてではなく、「生命」としての「ナフス」がカサムの引き合いに出されているのではないか。そのことは、サーブーニーのこの部分の注釈が下敷きにしていると思われる、アッラーズィーの注釈がそのことを示している。 

もし私たちが「ナフス」を身体に関連付けるのであれば、それを均すとは、解剖学の知見に従って諸器官のバランスをとることになる。そしてもしそれを統制力に関連付けるのであれば、それを均すとは、ナフスに多くの力、たとえば、聴力、視力、想像力、思考力、記憶力を心理に係わる学の知見に基づいて与えることになる。 

ファフルッディーン・アッラーズィー『大注釈』(第2版)11巻176頁以下

なるほど、身体つまり、生命の入れ物に関連付けた場合には、「サウワー」は、諸器官、諸臓器のバランスとなり、それは解剖学の知見に従って注釈することができ、他方、内面に関連付けるのであれば、上に展開したような、心の問題として、現在で言えば心理学的な所見に従って、これを注釈することができるのである。魂に限定するのではなく、生命としても解釈を加えてみる。そして、その啓示の意味を探る際には、科学的知見への参照を怠らない。啓示は、現象を読むための手がかりでもあるのだから。

生命としてのナフス

実際、啓示の中で「ナフス」の語は、次のような用いられ方もしている。

﴿هُوَ الَّذِي خَلَقَكُم مِّن نَّفْسٍ وَاحِدَةٍ وَجَعَلَ مِنْهَا زَوْجَهَا لِيَسْكُنَ إِلَيْهَا ۖ فَلَمَّا تَغَشَّاهَا حَمَلَتْ حَمْلًا خَفِيفًا فَمَرَّتْ بِهِ ۖ فَلَمَّا أَثْقَلَت دَّعَوَا اللَّهَ رَبَّهُمَا لَئِنْ آتَيْتَنَا صَالِحًا لَّنَكُونَنَّ مِنَ الشَّاكِرِينَ﴾ (الأعراف: 189)

《彼は一つの生命からあなたがたを創造し、その生命から、安らげるように配偶を創った。彼が彼女と交わると彼女は軽い荷を負ったがそれを携えて往来していた。やがて彼女が身重になると、二人は両人の主たる神に祈った。もしも私たちに正しき者を御授け下さったのなら私たちは感謝する者になるでしょう》(高壁章189)

《一つの生命》とはイブン・アッバースの伝えるハディースからアーダムとされ、「ザウジュハー」は、男性形であるにもかかわらず、ハウワー(エバ)のことと解される。人類と夫婦の誕生の時点を描いているはずの聖句で、しかも、明確性を最大の特徴とするアラビア語において、この名詞の性の混用は引っかかる。人間の解釈に至らないところがあると考えられる。

ナフスに聴く

一つの命が、仮に単細胞の生命体だとし、ザウジュを性別に無関係にその生命体の配偶と捉えれば、性別が人間の男女と噛み合っていない問題は、生じない。

たとえば、地球上のごく初期に誕生し、藻の姿で現代に至るまで生き続けている原核生物(=単細胞生物)「シアノバクテリア」[1](タイトル画像[2])のこととし、その単細胞生物が25億年近くという気の遠くなるような長い時間[3]をへて多細胞生物へ進化していった過程の指摘と解すれば、この違和感はかなり緩和されるのではなかろうか。アダムとイブの神話をベースにした解釈からは、もう卒業しよう。聖典の解釈に科学を排除しないイスラームになら、いやだからこそできることだ。

アッラーズィーは、この「ワ・ナフシン」が不定名詞で降されている点に鋭くも着目しているが、人間たちにせよ生物全体にせよ、それらの長が不定名詞で降された理由としては、いつものような説得力に欠ける。彼自身は、「ナフス」を人間の内面的な「魂」とされるようなもの以外の可能性を指摘してはくれたが、生命体としてのナフスについては、生命の始原ではなく、身体あるいは心理の内部に注釈を展開していた。スーフィズムの術語として出てきた3つの様態を持つ魂はすべて定冠詞によって限定されていた。日本語の訳ではしばしば定冠詞が無視されるので、これもまた日本語話者には把握しづらい言明ではある。

言語も意識もなく、いや細胞核しか持たない生命体もナフスなら、言語と意識を持ち、それに振り回されながら生きる心もまたナフスと言える。静かで落ち着いた心は、ルーフの声に耳を澄ます出発点になるが、それも、霊さえも吹き込まれている多細胞生物としての生命があってからのこと。もちろん、その生きざまは「フジューラハーワタクワーハー」とさまざまであるが、そうしたざわついた心の忙しい生き方もそれなりにならされた身体を持っているからこそのこと。LGBTQの人々の生き方もまた肯定されうるような「ナフス」の読み方あり方が示唆されてもいる。アッラーズィーにも倣って最新の科学的知見を取り入れた聖典解釈を常に心がけたいものだ。アッラーフ・アアラム。


脚注

[1]  「シアノバクテリア(cyanobacteria,藍藻(もしくはラン藻)とも呼ばれます)は、酸素を発生する光合成(酸素発生型光合成)を行う原核生物です。酸素発生型光合成は、植物の光合成と基本的に同じものです。シアノバクテリアの祖先は30~25億年前に地球上に出現し、初めて酸素発生型光合成を始めました。この光合成では水を電子供与体とする(水分子から電子を奪い、その副産物として酸素ができます。)ことができるため、水と光があればエネルギーが得られることとなり、当時の地球上で大繁殖したようです。その結果、それまでの酸素を含まない嫌気的な大気に酸素を供給することとなり、徐々に(実際には酸素レベルが急上昇した時期もありましたが)現在に近い酸素を豊富に含む好気的大気に変えていったと考えられています。シアノバクテリアは、進化の過程で、形態的にも代謝的にもきわめて多彩な能力を有する原核生物の大きな一グループを形成するようになったようです。また、真核細胞の祖先との内部共生によって真核細胞に取り込まれ、植物の葉緑体の祖先となったと考えられており、原核生物から植物に至る光合成の進化を考える上で、非常に重要な生物です」。
https://www.agr.nagoya-u.ac.jp/~microbio/research6.html

[2] https://www.agr.nagoya-u.ac.jp/~microbio/images/Synechocystis.png

[3]「生物物は進化の過程において複数回にわたって多細胞体制を獲得してきた。動物菌類植物はそれぞれ独立に多細胞化したと考えられている。比較的最近になって多細胞化した生物としては群体ボルボックスが知られている。化石の記録によると最初の多細胞生物は約10億年前に誕生したとされており、生物の誕生が35億年前であるから、多細胞化には25億年近くを必要としたことになる(地質時代参照)。多細胞化においては細胞同士の接着や、周りの細胞との協調が必要とされることから細胞間での情報伝達(シグナル伝達)が発達する必要があり、単細胞真核生物にこれらの機能が備わるまでに時間がかかったと考えられている。

よく発達した多細胞体制の生物は様々な種類の細胞からなっているが、有性生殖においては、受精卵と呼ばれる一つの細胞に始まる。受精卵から成熟した個体になる過程を個体発生と呼び、元の細胞から異なる細胞が生じることを分化と呼ぶ。ただし種々に分化した細胞においても基本的にゲノムは同一であり、すべての細胞は同一の遺伝情報をもっている。これは遺伝子発現クロマチン状態の違いに依存している。ただし哺乳類獲得免疫における抗体産生細胞や、線形動物ウマノカイチュウの体細胞などではゲノムの変化が起こることが知られている」。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%B4%B0%E8%83%9E%E7%94%9F%E7%89%A9

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