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きみに伝えるヒストリー㉒

辛亥革命

 こういった状況の中、武昌での革命軍、つまり清朝政府から見れば反乱軍の情勢が優位になってきていることを受け、清朝政府は袁世凱のほかにこれを鎮圧できる者はいないと判断します。そして、彼を清朝の湖広総督(湖北と湖南両省の総督)に任命し反乱軍の鎮圧を命じました。これが、1911年10月のことです。

 しかしながら、袁世凱はこれを固辞します。再三の要請の後、最終的に水陸全軍の指揮権、十分な軍費の保証などの条件を付け承諾することとなります。清朝政府はこれを受けて、翌月11月1日に最初の内閣であった奕劻内閣は総辞職し、翌日11月2日に袁世凱を内閣総理大臣に任命することといたしました。

 12月にはいって、江蘇・浙江連合革命軍によって南京が陥落します。革命軍は臨時政府を武昌から南京に移します。

 一方この折に、袁世凱は漢陽(武漢市の管轄区)を陥落させます。そしてイギリス公使を通じて、武漢の革命軍に和平交渉を申し入れました。とりあえず、前線軍においては停戦協定を結ぶこととなりました。

 こういった状況下、孫文がロンドンから帰国しました。その後すぐに、臨時政府の総統選挙が行われ、孫文が総統に選出されました。そして翌1912年1月1日に中華民国が建国されます。これら一連の流れを辛亥革命と呼ばれております。

清朝滅亡

 革命軍の南京占領と孫文の臨時総統就任はイギリスやアメリカにとって想定外でした。このため、両国は清朝政府と臨時政府とによる和議の早期成立を望むこととなります。

 孫文は臨時政府の承認を列強に求めていましたが、アメリカからの拒否もあり、それはかないませんでした。また、臨時政府は財政面がうまく運ばないこともあり、袁世凱を巻き込むことといたしました。そこで孫文は袁世凱と話し合い、清朝を平和理に終わらせることができるのであれば、大総統の位を譲ることを密約いたしました。

 この密約を受けて、袁世凱は宣統帝溥儀とその父親の醇親王に対して、紫禁城で暮らせること、年金支給と私有財産の保護という待遇を持ち出して退位を求めました。

 中華民国建国の翌月1912年2月に宣統帝溥儀は退位し、清朝は滅びました。無血革命でした。

 翌3月に袁世凱は臨時大総統に就任しました。清朝の皇帝を退位させただけで生命はもとより生活もしっかりと保護されている状況下において、袁世凱が中華民国大総統に就任いたしました。このことは、中華民国の総統自体が清朝皇帝を継承しているという正統性を表しているという見方を促すこととなります。

袁世凱の独裁体制

 ところが、「滅満興漢」をスローガンとしている孫文を始め革命派は漢人中心主義でした。この考え方の根本的な相違もあり、革命派であり日本亡命時に孫文と交流のあった宋教仁(Son Jiaoren)との対立が深まってきました。大総統として権力を振ることを良しとしていた袁世凱は革命派を好みませんでした。

 8月には同盟会を中心として諸党が集まって国民党が結党されました。そして1913年の国会選挙で多数党となりました。これを警戒していた袁世凱は、国民党の実力者であり、議員内閣制に基づいた統治を求めていた宋教仁を暗殺いたします。

 これに反発した国民党員や革命派は各地で袁世凱を倒すために武装蜂起します。袁世凱は武力弾圧を徹底して行い、最終的に国民党を分裂させます。第二革命と呼ばれておりますこれら武装蜂起は失敗に終わります。孫文も再び日本に亡命することとなりました。

 10月には袁世凱は軍警を使って、議員を国会に閉じ込めた上、正式なる大総統選挙を実施しました。ここで正式に、つまり臨時ではない大総統に就任いたしました。また、国民党の解散命令を出して、国民党議員を解職させました。そして袁世凱は北洋軍を強化していき独裁体制を固めていきます。

 袁世凱の独裁権力は、ほぼ中国全域に行き渡っていきました。この後ろ盾は列強諸国でした。彼はイギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシアの五か国銀行団との間に2500万ポンドの借款を結んでおり、それを自らの権力闘争、具体的には国民党を弾圧する費用として使っておりました。

 もちろんこのことは列強の支配をさらに強化することになります。イギリスはチベットに内政干渉を行い清からの独立を促していましたが、中華民国の承認とともに、チベットへの干渉、つまり植民地化を認めさせます。またロシアはモンゴルにおける鉄道や鉱山等への投下と利用の承認を求めました。このようにイギリス、ロシアを含む五カ国とアメリカはそれぞれ独自の権益を確保することを条件に袁世凱政府に対して中華民国の承認を行っていきました。

そして明治が終わる

 辛亥革命が起こったこの年、1911年は日本にとっても歴史的にたいへん重要な位置づけとなる年でありました。それは、列強各国と関税自主権の完全回復をした年であるからです。

 かねてより不平等条約の改正を悲願としていた日本は、1894年に陸奥宗光外相が日英通商航海条約に調印し、その後各国とも同様の条約を結び、領事裁判権撤廃と関税自主権の一部回復に成功します。そして、この年は桂太郎内閣の小村寿太郎外相が日米新通商航海条約に調印し、各国とも同様の条約を結び、関税自主権の完全回復へと導きました。

 江戸幕府が1858年に結んだ安政の5カ国条約から50年余りが経ち、ようやく悲願を達成いたしました。

 そして、翌年1912年7月には明治天皇が崩御され明治は終わります。ペリー来航から50年余りで日本は大きく飛躍し中国、朝鮮、ロシアそして欧米列強と様々に係わりを持って歴史の中に突き進んでいくこととなりました。中国大陸では、辛亥革命が勃発し清朝は滅び、中華民国が興りました。歴史が一本の竹であれば、1911年というのはそのひとつの大きな竹の節であると言えるのかも知れません。これから日本も中国もひとつの節を終えて、次の節に向かっていくこととなります。

大正デモクラシー

 1912年7月、日本では大正が始まりました。その幕開けを象徴するのが「護憲運動」でした。立憲政友会の西園寺公望内閣の陸軍大臣上原勇作は軍拡案が否決されたことにより、大臣を辞職します。陸軍がその後任を出さなかったことにより、西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。これは、軍部大臣現役武官制により、現役の大将・中将しか陸海軍大臣に推挙されないことによります。

 その後政友会の桂太郎が第三次桂内閣を組閣します。しかしながら、桂首相は軍部の顔色をうかがい軍部大臣現役武官制は支障無しとし、議会での憲政を軽視をいたしました。

 これに異議ありとして、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅らは議会で内閣不信任案を提出します。尾崎は議会での演説で、天皇の陰に隠れた藩閥政治として内閣を糾弾します。桂首相が議会を停止しますと、護憲派は上野公園で桂内閣の糾弾集会を開きます。数万人の人が集まり、国会議事堂を包囲いたしました。これにより、桂内閣は総辞職いたしました。これを大正政変と言います。1913年のことでした。

 次の山本権兵衛内閣で軍部大臣現役武官制は廃止されました(ただし、1936年に再び採用されます)。ここから大正デモクラシーは急速に発展いたします。大正デモクラシーとは、日本制民主主義です。この頃から、日本において民主主義の歩みが始まっていきます。


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