見出し画像

きみに伝えるヒストリー㉗

長沙ソビエト

 1929年10月24日木曜日、ニューヨークの証券取引所で株価が大暴落しました。いったんは持ちなおした後、5日後の29日には再び暴落いたしました。後に言われる「暗黒の木曜日」です。アメリカの証券市場の大暴落は世界大恐慌に発展いたします。
 
 この時、国民党による北伐がほぼ完成されていましたが、この世界的混乱を受け、内戦が頻発することとなりました、

 共産党はプロレタリアートのストライキと都市における武装蜂起によっていくつかの省で勝利を収めるという目標を持ちます。これはソビエトのコミンテルンからの指導によるものでした。この時の軍事面でのリーダーは李立三(Li Lisan)です。

 そして、コミンテルンは1930年6月長沙を攻め占領するという具体的な指令を発しました。7月に長沙を占領し、赤旗をひるがえすことに成功し、長沙ソビエトの樹立を宣言しました。

 一方、国民党軍はただちに長沙奪還に動き、アメリカ、イギリス、日本の軍艦が急遽長沙に派遣され、艦隊からの射撃を始めます。これにより、共産党軍は長沙からの撤退を余儀なくされます。

 その後、共産党軍は体制を立て直し新たに長沙に進撃いたしますが、国民党軍の圧倒的な軍備には立ち向かうことはできず、多くの血をもたらして敗退いたします。

 1930年冬には、蒋介石は湖北、湖南、広西の省長を集めて、共産党討伐に向けての作戦計画を練ることとなりました。そして、翌1931年6月、蒋介石は30万の兵力を指揮して共産党討伐を発令し、国民党軍はソビエト区内の中心都市である江西省の瑞金へと進軍していきます。

 ソビエト区というのは中国共産党が設置した国民党の支配が及ばない地域の行政区画です。ここを革命拠点としておりました。

ロンドン軍縮会議

 1930年1月から4月にかけて、ロンドンで海軍軍縮会議が開催されました。巡洋艦や駆逐艦のトン数制限を設けるものです。

 日本は国際世論やイギリスやアメリカとの力関係を鑑みて、圧倒的に不利なこの条約を締結せざるを得ませんでした。この当時は民政党の浜口雄幸内閣で蔵相の井上準之助が緊縮財政を進めていたこともあり、海軍予算の大幅削減ができることも条約批准を後押しいたしました。しかしながら、軍部は、政府の判断を激しく糾弾いたしました。

 ただ条約の調印につき、一部マスコミや野党である政友会から批判が出てきました。これにより、政府が天皇の承諾無しに決めたのは憲法違反であるとする、いわゆる「統帥権干犯問題」に発展していきます。

 陸軍は大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を盾にし、天皇の権利を犯す(干犯)ものだと言い出しました。これにより、内閣は軍部に干渉できないことになっていきます。

 このような横暴がまかり通り憲法上の欠陥が起こった原因は、伊藤博文、山県有朋、西園寺公望など、明治維新の功労者である元老が天皇と内閣を結びつける役割を持っておりましたが、彼らが亡くなったいったことにより、この機能が消滅して来たことによります。

満州事変

 蒋介石の国民軍が瑞金へとせまりつつあった1931年9月18日、満州・奉天近くの柳条湖付近で南満州鉄道が爆破されるという事件が起きました。

 これは、関東軍作戦主任参謀である石原莞爾中佐とその上司である高級参謀の板垣征四郎大佐を中心として練られた作戦でした。

 来るべく日米戦争を制するためには、最重要後背地である満州を開発していかねばならない、という思想によるものでした。また、排日・侮日運動が激化により日本人居留民を保護すること、そしてソ連の軍事的脅威をはねのけることも目的でありました。

 関東軍はこの爆破事件を張学良の仕業として軍事作戦を展開していきます。不意を打たれ、恐怖と混乱に支配された10万の張学良軍は、わずか1万の関東軍に敗退いたします。

 関東軍とは、満州に置かれた陸軍部隊です。もともとは、日露戦争で獲得した遼東半島(旅順・大連などの関東州)を保護するために設置された軍隊です。

 この後、関東軍はチチハル、錦州、ハルピンなどを占領していき、半年後に満州を制圧いたしました。

 石原らによるこの軍事作戦は正規の手続きを踏んではおりませんでした。東京の参謀総長や陸軍大臣を説得したわけではなく、いわんや天皇の裁可も受けておりません。

 しかしながら、この後、陸軍はこの暴走を追認いたします。まさしく「統帥権干犯」ですが、誰も責任を問われていないというのが実態でした。

 これは、もはや日本政府は軍を統制できていないということです。若槻礼次郎内閣は総辞職します。これを受け、立憲政友会の犬養毅が組閣いたします。陸軍大臣は青年将校に人気のあった荒木貞夫でした。

満州国建国

 清朝の宣統帝であった愛新覚羅溥儀は天津にて閑居の生活を送っておりました。関東軍はこの溥儀を担ぎ出して、「満州国」の元首といたしました。これは、父祖の地の満州に戻りたいと願っていた溥儀自身も望んでいたことだったと言われております。

 ただ、正規の手続きを踏まずに軍主導で行われた建国については、国際世論からは日本に対する不信感を強めることとなりました。

 建国に先立ち、日本による満州制圧について南京の国民政府は国際連盟に提訴いたしました。国際連盟はイギリス人のリットンを団長とする調査団を満州に派遣いたします。現地を調査したリットン一行の報告書の骨子は以下のとおりです。

*日本は満州に正当な利権を持つが、今回の行動は行き過ぎであった
*満州国は日本人が作ったもので、満州人の自決権によるものではない
*満州における日本の既得権益は承認するが、自治権は中華民国にある

 つまり、蒋介石が訴えた「侵略」とは断定されませんでした。しかしながら、軍部としては、満州国が否認されたことに猛反発いたします。

 いずれにせよ、3月には満州国建国の宣言が行われ、首都には長春が選ばれ、新京と命名されました。

 そして国際連盟をおそれて承認をしぶっていた犬養毅首相がテロに倒れます。海軍の若手将校らが首相官邸を襲撃し、「話せばわかる」と述べ、逃げようとしなかった犬養首相を射殺したのです。5・15事件です。

 この1か月後に、衆議院は満場一致で満州国の承認を決議いたしました。この時は、退役海軍大将であった斎藤実が首相に任命されてました。満州事変勃発からほぼ1年後の1932年の9月の事です。

国際連盟脱退

 そして、1933年2月国際連盟総会が満州国不承認決議をいたしました。翌月、日本は国際連盟を脱退します。この時、日本全権としてジュネーブの国際連盟総会に派遣されていた松岡洋右外相は不承認を受け入れないとして退場したことは有名な話しです。

 この脱退を日本国民は歓迎いたします。この国民世論は軍を後押ししたマスメディアのプロパガンダにあおられたことによるものだと言えるのでしょう。

 一方、満州国の建国自体は決して悪いことでは無かったとも言えるのかもしれません。実際のところ、政権不在のため不安定だった満州の治安は、建国後には格段に良くなり、これ以降発展を遂げていきます。

 満州国建国の精神は、「五族共和」、五族とは、満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、そして日本民族を指し、これらの共存共栄を謳ったものでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?