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きみに伝えるヒストリー㉑

伊藤博文暗殺

 1909年6月に韓国統監を辞任した伊藤博文は、10月にロシアの財務大臣と満州で朝鮮問題について非公式に話し合うことになっておりました。そして、そのために訪れたハルピン駅で射殺されました。

 射殺したのは、韓国の独立運動家の安重根(アン・ジュングン)です。彼はその暗殺動機として15の理由を述べております。これことから彼は伊藤を朝鮮支配の象徴としてとらえていることがうかがえます。ところが、閔妃の殺害や42年前の孝明天皇の死に絡んでいるなど、伊藤とは関係のない事象もその理由としておりました。

 日本に対しては日露戦争での勝利を快挙としてとらえ、共に白人に対抗することを望んでいたようです。でも安重根は韓国を保護国として支配下におく伊藤を許せなかったのでした。実際は伊藤がその韓国支配を進める重鎮では無かったのですが、彼はそう思っておりました。安重根は知識が不足しているため、国家に忠誠を尽くす方法を誤解したため同情する点がある、との弁護士からの弁論も出ておりました。しかしながら、安重根は「私には韓国の独立を祈るほかには望むものはまったくない」と陳述しています。

 安重根は翌年2月に死刑の判決を言い渡され、3月に刑に処されました。また後になって、伊藤の肉身に埋まっていた弾丸は安重根が使っていたブローニング7連発ではなく、2階から発砲されたフランス製のカービン銃だったこともあり、複数犯で他の発砲者の可能性も指摘されています。いずれにせよ、明治の元勲であり、維新の功労者の伊藤博文は死去いたしました。

韓国併合

 国際協調路線を重視していた伊藤は、韓国併合にはきわめて慎重でした。この伊藤の暗殺によって、韓国併合は急速に進められることとなります。独立運動家の安重根にとっては、皮肉な結果となってしまったのです。

 また、たいへん残念なことですが、ハルピン駅に安重根祈念館がオープンしているように、今の韓国はこの安重根をヒーローとして扱っております。犯罪者(テロリスト)をヒーローにしているということ自体が大問題ですが、何よりも安重根は伊藤を殺すことによって、韓国の誰かを救ったわけではなく、韓国に何ら有益なものを残したということもないのです。そのような者を、その時の日本を代表する人物を殺したということで、ヒーローとしているのです。たいへんおかしなことだと思います。

 この後韓国は日本に併合されます。これが今の韓国に人にとっては屈辱以外の何ものでもないため、それがおかしなことであっても、どうしても日本に抗う者をヒーローとしてしまう感情に流れてしまうのかと思われます。歴史を感性的にとらえることは、歴史の事象を誤って捉えてしまうのではないかと危惧いたします。

 伊藤の死によって、伊藤が抑え込んでいた軍事拡張路線を進む山県有朋らの軍閥の発言力は増してきました。その流れで軍人である寺内正毅に韓国統監を就任させることとなりました。そして、1910年6月に韓国併合が閣議決定され、8月に併合条約は調印されました。これにより大韓帝国は消滅いたしました。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮総督府が設置されました。初代の総督はそのまま寺内が就任します。

 アメリカやイギリスを始め欧米列強は日本による韓国併合を歓迎します。清やロシアも歓迎までとはいかないまでも、反対意見は出ませんでした。

韓国統治

 台湾統治と同じく、日本は韓国を植民地としたのではなく、併合、つまり領土としたのです。ですから、日本国の一部として統治していくこととなりました。

 戸籍制度を導入し身分の記載を無くして登録ができるようにしました。これにより、今まで差別を受けていた賤民も姓を名乗ることができました。土地の測量を行い、土地の権利関係を確定させ不動産の売買が法的に安定するようにしました。そして、保護国とした折から進めてきた日本内地に準じた学校教育制度の整備を加速させ小学校を増加させていきました。特筆すべきことは、1911年に教育令を公布し、ハングルを普及させたことです。これは、識字率が極めて低かった(1910年当時で6%と言われてます)ことにより、日本の仮名文字のようなハングルを使うのが得策とのことからでした。鉄道や発電所も建設しインフラも整備していきました。

 投資はすべて日本からの持ち出しでありました。また漢城(今のソウル)は併合に伴い、京城(キョンソン・けいじょう)と呼ばれるようになります。

 一方、朝鮮の王室には敬意を払い、日本の皇室に準ずる地位を与え、王の称号を残しました。また後に日本の皇族が王太子に嫁ぐというはからいもしました。ハワイ王国を崩壊させ併合にこぎつけたアメリカや、ビルマ王国を倒して王と王妃を追放し王子たちを殺戮した上、併合に持って行ったイギリスの先例は踏襲しませんでした。日本独自の韓国統治を進めていきます。

西太后の死

 そのころ清では、袁世凱が李鴻章が亡くなる前に北洋通商大臣兼直隷総督を引き継いでおりました。これにより、清の外務担当となり、そして河北省、山東省、遼寧省の通商・洋務・外交・海防などを担当する職権を得て、より権勢を強めていきました。

 1907年にアメリカから始まった大恐慌は、清にも影響を与えております。これにより、金融企業の倒産を呼び込みました。例年続く輸入超過と賠償金支払いのための銀の国外流出が慢性的になっていたことから、急激な物価騰貴が起こりました。このため、都市では打ちこわし、農村部では税に対する抗議闘争が各地で頻発しました。清朝政府はこうした暴動をある程度は抑え込むことができましたが、いくつかの暴動は繰り返し続きました。

 この情勢下の1908年10月、光緒帝が崩御します。翌日に西太后も崩御いたします。光緒帝には子が無かったため、西太后の遺言で溥儀(Pui)が宣統帝として即位します。本書の冒頭でお話ししております「ラストエンペラー」です。このとき、溥儀はわずか2歳でした。そのため実父である光緒帝の弟の醇親王が後見いたしました。

 ちなみに光緒帝は大量の砒素を投与された毒殺であったという可能性もあるようです。西太后犯人説や袁世凱犯人説などがありますが、どの説も証拠が無いため、真相はわかっておりません。

 醇親王は兄の光緒帝を戊戌の政変時にうらぎった袁世凱を快く思っていないこともあり、また彼の権力が大きくなりすぎることを危険視し、彼を解職し隠居させることとしました。

武昌起義

 少しさかのぼりますが、1906年に、清朝政府は立憲制の方向性を示しておりました。これにより、行政管理、外務、財務、陸軍、農商務など11部(省)を設置しました。これは、日本の官庁制度を取り入れたものでした。また憲法制度の研究も始めました。そして1908年8月に欽定憲法大綱が制定されました。

 これに基づき、1910年に内閣制度が整備され、翌1911年に初めての内閣が発足いたしました。内閣総理大臣の慶親王奕劻(i-kuwang)以下16名の大臣を発令した内閣です。1911年3月に発足しました。総理大臣の 奕劻を始め、5名の大臣が皇族でした。これは立憲制度とは異質のものでありました。

 そして、鉄道国有化令が出たことにより、鉄道建設等の利益は省に落ちないこともあり、各省の民衆は反税抗議闘争と相まって抗議運動を展開していきました。これが各省の革新派グループと結集し武装蜂起へと動いていきます。

 1911年10月、湖北省武漢で陸軍の革命派が清朝の警備隊に対して決起しました。兵士たちがこれに応えて合流し、総督公署に大砲を撃ち込みました。総督は逃亡し、清軍の指揮系統は乱れました。結果、革命軍は湖北省を代表する軍政府を設立しました。これを武昌起義と呼びます。武昌は武漢市の管轄区のひとつです。この後、革命軍は漢陽を落とし、漢口も占領しました。

武昌起義は清朝政府を大混乱におとしいれました。


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