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満月の夜話(2) 月が綺麗ですか?


「月が綺麗ですね」という言葉が嫌いだった。


私が女子高生だった頃、現国の時間に教師の大森から初めて聞いた。
夏目漱石が「 I love you 」を「月が綺麗ですね」と訳した、と。
大森は中年の割に普段から二枚目な言動を気取った嫌なヤツだった。『俺はまだまだ若いだろ?』という雰囲気は、教室に座る全員が分かる程の嫌なオーラを放っていた。私は大森が嫌いだった。
だから、聞いたと同時にその言葉も自然と嫌いになった。
 

私が女子大生だった頃、働いていたキャバクラで男性客から何度も聞いた。
夏目漱石が「 I love you 」を「月が綺麗ですね」と訳した、と。
その言葉の内側には『ロマン』と『好意』の成分が含まれているにも関わらず、薄っぺらい話の中では男性側の『博学アピール』と『下心』が明確に透けて見えたので、とても下劣に見えた。
「へぇ〜、物知りですね!ロマンティック!」などと、心にも無い返答をしながら、私は頭の中で『正』という漢字を使って、仕事中にその言葉を言われた回数を数えていた、馬鹿にしていた。
 

私が社会人になった頃、合コンの中で何度か聞いた。
夏目漱石が「 I love you 」を「月が綺麗ですね」と訳した、と。
その度に心の中で『こいつもか・・・』と呟いた。その頃には『もうすぐ夏目漱石のあの話が来そうだぞ』という気配すら感じ取れるようになっていた。
丁度その頃だった、私自身が「 I love you 」の意訳を考え始めたのは。
自分なら何と訳すだろうか?つまり、自分自身による『夏目越え』を日常の中でぼんやりと考えていた。
ぼんやりと考えられるほど、その頃の私には余裕があった。
 

私が3回目の転職をした頃、私はその話を聞かなくなっていた。
夏目漱石が「 I love you 」を「月が綺麗ですね」と訳した、という話を。
もう忘れていた。誰にも言われなくなったので、単に無関心だったのかもしれない。
丁度その頃だった、職場の隣の課にいた同い年の村上に出会ったのは。
誰に対しても人懐っこいヤツ、悪く言えばチャラい人間だったが、男女の友情は成立するのではないか?と思わせるには十分な関係になった。
 

社内に居づらくなり、私が4回目の転職を考えた時だった。
あの日、私は仕事中に大きなミスをした。上書きしてはいけないプログラムを誤って更新してしまった事で、社内の基幹システムが停止する程の大きなミスだった。
課長のデスクの前に立ち、叱責を受ける惨めさは、自分が犯したミスの大きさを考えれば納得出来るものだったので余計に辛かった。心の中ですら言い訳が出来ない逃げ道の無い辛さ、叱責は就業時間を越えても当たり前に続き、退勤する者の横向きの視線が痛かった。

デスクへ戻る時の顔には、メイクで隠しきれない程の悲壮感が漂っていたに違いない。
私はいつの間にかチヤホヤされる若さを失くし、高飛車に振る舞える自信を失い、そして今日信頼も失った。
そんな自分の惨めさだけを考えていると、暗いデスクの前で泣きそうになる、それを隠すためだけにトイレへ向かった。何かから逃げるように早歩きする姿は、まるで今の自分の縮図に思えて悲しく、ひどく寒かった。

とにかく落ち着かないと、デスクに戻らないと・・・表情も気持ちも回復しないまま、私がトイレから出ると、休憩スペースに座る村上と目があった。
彼が手招きしたので、私は彼の対面に腰掛ける。
まるで遠い遠い外国で同じ日本人に出会った時のように安心した。だから、また涙が出そうになり、私は顔を伏せた。

私の無言に対し、彼は無言で付き合ってくれた。
どこから何を言えば良いか分からない。ただ、自分の中に取り憑いた誰かの迷惑になるくらいなら逃げてしまいたい、そしてもう何も失いたくないという気持ちが自然と声になった。
「仕事やめようかな・・・。」
涙声は彼に届いたはずだったが、彼は何も答えず、立ち上がって窓の方へ向かう。彼の姿を目で追う。窓には夜が映っており、まるで真っ黒の絵が飾られているように見えてしまった自分の心が悲しかった。

「お? 今夜は満月か。」
村上がそう言った瞬間、心臓が縮み上がった・・・久しぶり気配を感じたからだ。そう、間違いなくあの気配だった。
このタイミングで『あの話』を聞くと、私は壊れてしまうかもしれない。
嫌だ、怖い、お願いだから言わないで。君まで失ったら私はきっと滅茶苦茶になってしまう。だから言わないで、私が黙ってここから逃げるまで。
 

「う〜、寒い。10月になって急に寒くなったね。」
私が感じた気配とは裏腹に彼はそう言うと、私の対面に座り直した。
「これ知ってる? おいしいんだよ。」
彼はビスケットの紙箱を開け、私との間にそっと置いた。
「さ、一緒に食べよう」
  

私の名字が村上になって1年目の頃、私は意味を噛み締めていた。
夏目漱石が「 I love you 」を「月が綺麗ですね」と訳した意味を。
今なら言える、私にとっての「 I love you」は「一緒に食べよう」だと。
『夏目越え』を出来たかどうかは分からないが・・・
彼からもらった愛の言葉を、私は彼へ今日も伝える。
「お〜い、晩ごはん出来たよ。一緒に食べよう。」
  
  
今夜は満月らしい。
夕食後に彼をベランダへ誘ってみよう。
私は、もう強くなったから。
彼に言って欲しいから。
『月が綺麗ですね』と聞きたいから。



フィクションのお話です。お読み頂きありがとうございました。
貴方の「I love you」は何ですか?一度は考えた事があるのでは?w
次の満月は11月27日だそうです。

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