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宮沢賢治の宇宙(39) 賢治は鳥の遷移に量子論を見た?

『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』の“星雲”と“ばけ物律”

宮沢賢治の童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』には面白い文章がある。

その時教室にパッと電燈がつきました。もう夕方だったのです。博士が向うで叫んでいます。「しからば何が故に夕方緑色が判然とするか。けだしこれはプウルウキインイイの現象によるのである。プウルウキインイイとはこう書く。」博士はみみずのような横文字を一ぺんに三百ばかり書きました。ネネムも一生けん命書きました。それから博士は俄かに手を大きくひろげて「げにも、かの天にありて濛々たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す。」と云いながらテーブルの上に飛びあがって腕を組み堅く口を結んできっとあたりを見まわしました。(『【新】校本 宮澤賢治全集』第八巻、筑摩書房、1995年、316頁)

この宇宙を支配するものは二つあるという。ひとつは、「天にありて濛々(もうもう)たる星雲」。そしてもう一つは「地にありてはあいまいたるばけ物律」だというのだ。これはなかなか意味深である。

賢治の生きていた時代、天を仰げば見えるのは壮大な天の川である。星雲ではないここで、星雲とはアンドロメダ星雲、つまりアンドロメダ銀河のような銀河を意味すると考えてよい。賢治はなぜ星雲が大切だと思ったのだろう。これがまず第一点。

次に、天ではなく地上の世界の話に移る。これは「天はマクロの世界で、地上はミクロの世界」と読み替えることができる。ミクロの世界を律する「あいまいたるばけ物律」とは何か? 思い浮かぶのは1920年代の中盤から構築され始めた量子論(量子力学)だ。量子論の最大の特徴の一つは「曖昧(あいまい)である」ことだ。

つまり、ミクロの世界では、すべての物理量を正確に指定できない。これは“不確定性原理”と呼ばれる。物体の位置x、物体の運動量p(あるいは速度v)の測定誤差をδx、δpとすると、δx・δp ≧ h / 4πという制約を受ける。ゼロにはならないのだ。ここでhはプランク定数(h = 6.6261×10−34 m2 kg s−1)、πは円周率。
この原理は量子力学の構築に大きな貢献をしたドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルグ(1901-1976)が1927年に導入したものだ。

畑山博は『宮沢賢治幻想辞典 全創作鑑賞』(六興出版 、1990年)で面白いことを指摘している。畠山が着目したのは『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』にある次の文章である。

億百万のばけものどもは、通り過ぎ通りかゝり、行きあひ行き過ぎ、発生し消滅し、聯合(れんごう)し融合し、再現し進行し、それはそれは、実にどうも見事なもんです。  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第八巻、筑摩書房、1995年322頁)

この表現は「ミクロの世界の電子や陽子のあり方に似ている」ことを想起させると指摘している。つまり、賢治の表現「かの天にありて濛々たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す」は「宇宙は星雲(銀河)が支配し、ミクロの世界は量子力学が支配している」と読み解くことができるというのだ。

『鳥の遷移』と量子論

畠山のコメントはスペクトル線(輝線放射と吸収線)の形成を想起させる。実は、そのことは賢治の詩『鳥の遷移』に見ることができる。1924年6月21日に詠まれた詩で、『春と修羅』の第二集に収められている。

鳥がいっぴき葱緑の天をわたって行く
わたくしは二こゑのかくこうを聴く
あのかくこうが
飛びながらすこうしまへに啼いたのだ
それほど鳥はひとり無心にとんでゐる
鳥は遷り
あとはだまって飛ぶだけなので
ここはしばらく
博物館の硝子戸棚のなかになる
……青じろいそらの縁辺……
かくこうは移り
いまわたくしのいもうとの
墓場の方で啼いてゐる
……その墓森の松のかげから
黄いろな電車がすべってくる
ガラスがいちまいふるえてひかる
もう一枚がならんでひかる……
鳥はいつかずっとうしろの
森にまはって啼いてゐる
あるひはそれはべつのかくこうで
さっきのやつはだまってくちはしをつぐみ
水を呑みたさうにしてそらを見上げながら
わたくしのいもうとの墓にとまってゐるかもしれない 
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、筑摩書房、1996年、82-83頁) 

この詩に出てくる鳥はカッコウだ。主な生息地はユーラシア大陸とアフリカである。カッコウは渡り鳥で、日本には5月から初夏にかけてやってくる夏鳥の仲間だ。カッコウは日本では比較的人気のある鳥であり、市の鳥としてカッコウが採用されている例は、札幌、郡山、そして会津若松の3市がある。また、岩手県では矢巾町が町の鳥としてカッコウを採用している。

矢巾町といえば、賢治が盛岡中学校時代、大の仲良しだった藤原健次郎の故郷である。賢治は何度も健次郎の実家を訪ね、二人で南昌山に登っては石集めをしたり、楽しく遊んだりしていた。ちなみに南昌山の頂上には『銀河鉄道の夜』の第五節に出てくる“天気輪の柱”を彷彿とさせる石の柱がたくさんある。そのため、銀河ステーションの候補の一つである(『童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山 — 宮沢賢治直筆ノート新発見 —』(松本 隆 著、ツーワンライフ、2010年)。

詩の中に、「鳥は遷り」「かくこうは移り」という表現が出てくる。鳥の中には予想外に俊敏な動きをするものがある。木の枝に留まっていたかと思えば、次に眺めるともうそこにはいない。探してみると、梢のてっぺんに移動しているということがある。枝から枝へとまさに遷移するかのように移動する。賢治はここに物理的な面白みを感じたようだ。そして、“遷移”という言葉を選んだ。

ミクロの世界にいる原子、分子、イオンは自由にそのエネルギーを選ぶことができない。許されているエネルギーの状態(エネルギー準位)は連続的ではなく、飛び飛びの値(離散的)になっている。たとえば、二つのエネルギー準位があり、エネルギーの高い方の準位をE2、低い方の準位をE1とする。準位E2にいた電子が低い方の準位E1に遷移したとすると、二つの準位のエネルギー差、δE = E2 — E1 に相当するエネルギーを持つ電磁波が放射される。電磁波の振動数をνとすると、δE = E2 — E1 = hνにという関係になる。振動数νと波長λの間にはνλ = c (cは光速)の関係があるので、電磁波の波長はλ = h c /δE になる。したがって、E2からE1への電子の遷移に伴い、この波長にスペクトル線として輝線が放射される(図1)。

図1 輝線ができる原理。右のパネルで、輝線を線のように描いたが、実際には原子(あるいはイオン)はある速度範囲で運動しているので、それに伴って線には有限の幅が生じる(波長でδλの幅が生じる)。

今度は電子が低い方のエネルギー準位にいる場合を考える。その原子が星の放射する連続光にさらされると、その光のエネルギーを吸収して、エネルギーの高い準位に遷移する。これは“励起”と呼ばれる現象だ。励起に使われた光は吸収されるので、連続光に吸収線が現れる(図2)。

図2 吸収線ができる原理。準位1から準位2への遷移は“励起”と呼ばれる。

以上見てきたように、電子が異なるエネルギー準位の間を遷移することで、スペクトル線(輝線と吸収線)が生じる。ここで紹介した原理は本格的な量子論の前に、水素原子の放射するバルマー線などの説明するために1920年代中盤に議論されていた(前期量子論と呼ばれる)。

賢治は物理学の教科書で前期量子論を学んでいたのかもしれない。それにしても、量子論の知識を鳥の遷移に置き換えて詩を詠む人は賢治ぐらいだ。

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