シアターわかな

好きなもの。神社仏閣とその建築。仏像。日本の古代史、宗教史。考古学。街歩き。能、文楽、…

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好きなもの。神社仏閣とその建築。仏像。日本の古代史、宗教史。考古学。街歩き。能、文楽、伝統芸能。

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最近の記事

三月三日に神さまの木の下で

「この左側の木は魔女が乗って空を飛ぶホウキを逆さまにしたみたい。だから『魔女の木』ね」 「じゃあ、この右側の木は葉っぱの陰から妖精が覗いていそう。『妖精の木』!」 「真ん中の一番大きな木は何にする?」 「大きくて枝もたくさん生えているねえ」 「お祈りしたら願い事をかなえてくれそう...」 「それなら、『神さまの木』にしょうよ」 「そう、それがいい!」 これを決めたのが、多分小学校三年生の時だっただろうか。 わたしとマリちゃんは幼稚園の頃から仲良しだった。 よく笑って、よくし

    • 庚申塔

      先日、久しぶりに大東市中垣内の庚申塔を見に行きました。  関東では数多く現存する庚申塔ですが、何故か関西では珍しいですね。  庚申塔とは庚申信仰に基づき建立された塔の事を言います。  庚申信仰は、干支で言う60日に一度やって来る庚申の日の夜に、人の体内に棲むと言われる三尸と呼ばれる虫が、宿主が寝ている間に体内から抜け出して天帝にその宿主の行った悪行を報告し、寿命を縮めるとされる言い伝えです。  その三尸が身体の中から抜け出すのを防ぐために、庚申の夜を一晩中徹夜で語り合ったり

      • 遊女塚

         今の尼崎市神崎の地は、長岡京への遷都以来、西国と都を結ぶ神崎川を行く舟の中継点の湊として人や物が集まり大いに栄えました。そしてそれとともに大江匡房が言った「天下第一の楽地」として遊女が集まる歓楽街にもなったのです。  この遊女塚は当時神崎にあった如来院という寺院の由来である、法然上人と遊女についての伝承に基づく供養塔として建立されたものであります。  法然上人が京都から讃岐へ遠流される途中立ち寄った神崎で、当時釈迦堂と呼ばれた今の如来院で、法然上人の説法を受けた5人の神崎

        • 熊田亀次郎氏の事

           藤井寺市惣社にある古代〜中世の複合遺跡「国府(こう)遺跡」の中で異様に目立つ、衣縫廃寺の塔礎石の上にコンクリートでやたら雑に引っ付けられて建てられた「義侠熊田氏」の石碑、やはり気になって調べた人がいるようで、そのブログによれば明治時代に今の近鉄道明寺線である当時の河陽鉄道の土盛工事を請け負っていた熊田亀次郎氏が、困窮していた地元の小作農民に土木作業の仕事を周旋し、そのおかげで財政的に潤った農民たちが熊田氏に感謝し建立した物だそうです。  実際「熊田亀次郎」で検索すると、当

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        • Short Story
          3本
        • 石造物・石仏
          5本
        • 中世環濠集落
          6本
        • 大阪の歴史
          2本
        • 博物館・美術館
          1本
        • スーパーマーケット
          4本

        記事

          亀に乗ったお墓

           このお墓は、1615年(慶長20年)の大阪夏の陣で、徳川方の武将として木村重成率いる豊臣方の軍勢と戦い没した山口重信の墓です。  そう言う昔の武将にあまり興味がない私は、この前を通ってもさらりと眺めるだけでほぼスルーして来たのですが、藤井直正氏が書いた「郷土史のたのしみ」という本でこの墓碑が「亀砆(きふ)」と言う亀に似た贔屓(ひいき)と言う伝説上の動物の上に乗ったものであることを知り、改めて観に来ました。  この墓碑は東大阪市若江南町の第二寝屋川沿いの若江南墓地内に有りま

          亀に乗ったお墓

          中小阪村と愛宕社

          【彌榮神社から西の村内は、川の土砂の堆積作用で 土地が高く綿畑になっている所が多かったようですが、東 (居村部) は、土地が低かったので、東北、南に堀をつくり、土堤で囲み、ま たその内容に神社から少し東ま で、二重の堀をつくり、 洪水を防 ぐ村づくりをしていました。 このような村を環濠集落といいます。 愛宕社は村の東入口に位置し、他所からの火災及び盗難など、村への災害を防ぐ神としてまつられて います。】 (東大阪市の説明板より)  今その環濠や土堤の痕跡は、歩いて観察した限

          中小阪村と愛宕社

          志紀駅の由来

           元々関西鉄道が開業した志紀駅は、今から見るともっと外環寄りだったようです。  昭和21年に一度廃止されているので、映画「悪名」のどのエピソードかよく覚えてないのですが、闇米を買出しにいった朝吉が八尾駅で幼なじみの警官に捕まるシーンで駅名板に次の駅が「しき」と有ったのは、昭和20年の設定ならば合っています。  昭和36年に場所を移動して再開業した志紀駅は、元々旧大和川の堤防上の墓地を移動させて作った駅です。  ここは「当時墓地は樹木鬱蒼として笹藪に覆われ、付近には鉄橋や魔

          志紀駅の由来

          中世環濠集落についての覚え書き(1)

           平安時代末期から中世初期の荘園制の村落内部では、名田を経営する有力農民=名主層が出現します。自営意識を持った彼らは、水利のためと外敵からの自衛のために村落を濠で囲み始めたのです。 【現八尾市域の小字を調べると、 中世来の村落のなかに 「垣内」 「垣外」 などの小字と共に、 村落の出入口であったことを示す「東口」「南口」 などの小字が残っている。 江戸時代の村絵図をみてもこれらの村落には、 環濠集落を形成したことを示す水路がまわりを囲んでいる。 たとえば久宝寺や萱振は中世後半

          中世環濠集落についての覚え書き(1)

          中世の環濠集落跡を訪ねて4 稗田(奈良県大和郡山市)

           中世の環濠集落の原形を現代に良く残している代表例が、ここ大和郡山市の稗田でしょう。JR大和郡山駅から歩いて約20分、地蔵院川、佐保川を越えた平地部に位置します。  周辺地域の住宅地開発は進んでいますが、この稗田の集落はかつて大阪平野にあった惣村のように、それに飲み込まれ原形が判別しがたくなる、という事もなく往年の村落の形をほぼ綺麗な形で残しているのではないでしょうか。  中世における環濠集落は、戦国の時代に惣村の防衛のために村落の指導者である農民であるが武士でもある地下侍

          中世の環濠集落跡を訪ねて4 稗田(奈良県大和郡山市)

          中世の環濠集落を訪ねて3 桑津(大阪市東住吉区)

           元環濠集落を囲っていた濠は、平和な時代になると用水路などの水利目的が主になったため、幅が狭くなったりしてその痕跡を残す物も有りますが、埋め立てられて道路になった物も有ります。  大阪市東住吉区の桑津環濠集落の環濠も昭和初期までは残っていたそうですが、今は完全に道路になってしまい、その面影は残っていません。  しかし注意深く観察してみると、環濠であった部分の外側よりも内側の方がちょっと土地が高くなっているのが解ります。そして内部の道路に折れ曲がった辻が多く、軍事的防衛を意識し

          中世の環濠集落を訪ねて3 桑津(大阪市東住吉区)

          中世の環濠集落を訪ねて2 萱振(大阪府八尾市)

           萱振地区は大阪府八尾市の中北部、河内平野において長瀬川と玉串川に挟まれた低位沖積地にあります。この一帯では弥生時代から肥沃な土壌と豊富な水量を背景とした農耕社会が構築され、多くの集落が営まれて来ました。  平安時代の「和名類衆抄」によれば、若江郡は北から川俣郷 ・ 余戸郷 ・ 新治郷 ・錦織郷・巨麻郷・刑部郷・弓削郷があり、そのうち萱振の範囲は錦織郷の南部にあたります。  鎌倉時代以降、南北朝の内乱、両畠山氏の争い、織田信長による大坂の石山合戦などの戦乱の渦中のなかで、集落

          中世の環濠集落を訪ねて2 萱振(大阪府八尾市)

          中世の環濠集落を訪ねて1 八尾木(大阪府八尾市)

          【中世の環濠集落を訪ねて1 八尾木】 八尾市八尾木にあるこの石灯籠。google mapで見ると、金剛蓮華寺の石灯籠と名がつけられていますが、金剛蓮華寺が存在したのは平安後期〜室町初期と見られています。  この石灯籠に刻まれた年号は弘化二年(1847)で時代が全く合いません。  さて何(何処)のための石灯籠だったのでしょうか? 八尾木は久宝寺などの村々と同様に、中世に成立した環濠集落でした。その中心になったのが金剛蓮華寺だったのではないでしょうか。 金剛蓮華寺に至る道の

          中世の環濠集落を訪ねて1 八尾木(大阪府八尾市)

          ヒマラヤとラジオ塔

           駅から南へ歩いて10分ほどの住宅街の中にその公園はあった。  一辺30mほどの敷地にある、何の変哲もない普通の児童公園。遊具がいくつかあって、外辺には樹木が植えられている。  周囲の道路を歩いて回ると、その公園の西側の端にそれはあった。  「ラジオ塔」  文字だけ見るとラジオの放送電波を流す塔の様にも思えてしまうが、そうではなくその中にラジオを納めて、ラジオ放送の音声を流し周りにいる人に聴かせるために作られた、主に石造りの設備の遺構である。  いわば「街頭ラジオ」とでも言う

          ヒマラヤとラジオ塔

          行基墓誌断片

           先日、奈良国立博物館で開かれている「奈良博三昧」に行ってきました。  その時見てきた展示物をいくつか紹介して行こうと思います。  僧行基が入滅したのは天平21年(749)2月2日の夜、菅原寺(現在の奈良市喜光寺)でした。同8日に本人の遺言に従い、生駒山の東山麓で荼毘に付され、遺骨は瓶に納められて埋められました。その場所が現在の生駒市竹林寺の境内です。  時代は過ぎて鎌倉時代の天福2(1234)、慶恩と言う僧侶に行基の宣託があり自らの墓所を開いて信仰を復興する事を命じてきま

          行基墓誌断片

          ダイエー曽根店

           大阪府内で、店名が純粋に「ダイエー」のみでしかも大型店舗というお店は残り少ないです。  その中のひとつ「ダイエー曽根店」を訪ねました。  店舗は阪急宝塚線曽根駅から徒歩約1分。  1975年9月15日に「曽根ショッパーズプラザ」として開店しました。  6階建の店舗は商業施設面積6070㎡。  5、6階が専門店街となっています。  駐車場は平面のみで、146台収容。郊外型の大店舗としてはいささか少ないですね。  エレベーター。  天井はもちろんトラパーチンのダイエ

          ダイエー曽根店

          昭和40年、布施市のスーパーマーケット

           東大阪市立永和図書館で閲覧した資料「布施市におけるスーパーマーケット経営実態調査 昭和40年7月」によると、昭和40年3月時点で、布施市内においてスーパーマーケットと称していた店舗は上の7軒です。  同じ年の4月開店予定の店舗が布施駅周辺で1店、長瀬駅周辺で2店有ったという記述がありますが、残念ながら詳しい店名は載っていません。  上の表を見て気づかれると思いますが、7店舗のうちの6店の取り扱い商品が衣料品中心です。  当時のスーパーマーケットは、いずれの店舗も商店街の

          昭和40年、布施市のスーパーマーケット