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「キリスト教の本質」、「スピリチュアリティの現在「現代思想10月号」」新刊

新刊2冊を情報共有。
「キリスト教の本質」加藤隆、NHK出版新書
「スピリチュアリティの現在「現代思想10月号」」青土社

キリスト教の本質から:キリスト教のことを調べているとよく出てくる加藤隆先生。

現在のキリスト教諸派は種々たくさんあって把握できないのでキリスト教成立時のことを見よ、と説く。(下記リンク参照)

確かにわかりやすい。

でも典型的なプロテスタントのプロパガンダでキリスト教成立の最初のみ、と言うことを考えてしまう。
この思考矛盾してやしないのだろうか?

つまるところどの文書を聖書とするか決めた政治を選択する、そこを認めろ、と言うことなのであるが、それを祭り上げて写本を書き残してきた人々は東方キリスト教、カトリック教会ではないだろうか。カトリックは異端と称して焚書をよくしていたので、プロテスタントがカトリックから受け取ったテキストベースの情報やいわゆる歴史について、結局のところカトリックのプロパガンダを含んだ聖書写本をプロテスタントは「聖書のみ」と言っていることになる。最古級の新約聖書はもちろんギリシア語でイエスの言葉そのもので無いばかりか、書かれてから2世紀以上写されて拡散したものである。どうももやもやする。

聖書は福音書や手紙からなっている。それらの正当性は歴史の正当性しか認められない。そこまで遡ってそれにどれだけ根拠があるのか議論しきれない。聖書として認定した、認定しなかった、その本文の確定、そこが大事ではないのだろうか?そのカトリックのプロパガンダをプロテスタントは承認しちゃうんだろうか?殺し合った仲なのに信用するなんて不思議である。

先生はギリシア語での聖書を研究されたのでとうにご存じのはずであるが解説から漏れていて中世思想原典集成を時々読んでいるこちらは気持ちが悪い。

本書ではかなりのスペースをユダヤ教に割いていて、そこからイエス・キリストに接続する。結論的に「神が不在」で「人間の努力では救いが実現できない宗教」と結論(p165)している。

古文書としての聖書を調べ始めたのはプロテスタントである、と秦剛平氏がどこかで述べていた。聖書を引き継いできたのはカトリックである。改竄、意図的な間違いなどが聖書学者によって報告・議論(バート・D. アーマン、ボズウェルなど)されているが、聖書にはそのような注釈は載っていないし、全ての文言が一致しているとしれっと説明されている。

それに2000年前のギリシア語である、意味がよくわからないこともある。

加藤氏はキリスト教がパウロの頃からの「神なし領域での宗教ビジネス」(p174〜)と書かれていて、プロテスタント神学博士がそんなこと言っていいの?とちょっと思う。原理主義者への批判は嬉しい。聖書の都合の良いところを抜きだして批判する人々については現実とのギャップをすすめてほしい。私の最近引っかかった議論は、原理主義者は生命を殺すなとして人工妊娠中絶に絶対的に反対してアメリカの最高さ判断を覆すまでになった。ところが彼らは同じ生命を殺す行為である戦争については反対しないのである。(出典失念)

結果として加藤氏は「神離れ」していくという。

 そこでもう一冊の本「スピリテュアリティの現在」に移りたい。
面白い記事が多くて楽しんで読んでいたのだが、
ここでは「感情が「現実」を作る時代 なぜニューエイジというアメリカの病はこれほど根強いのか」柳澤田美氏の記事(p42))がアメリカで起きている福音派の気持ち悪さ、日本での統一教会への批判の前からドキュメンタリーなどでアメリカ福音派などの動きは報道されていた、を説明している。
 氏は福音派、主流派、「形而上学」と分類する。アルバニージーをひいての説明であるが、形而上学といっても伝統的なアリストテレス、トマス・アクィナスなどのものではなく、演繹法や存在論を「軽蔑」ベーコンの帰納法を取り入れ「事実」を重視、「スピリチュアルな文脈で善・真理に関わる事柄や救いの力を意味」とのことである。
 私にとって興味深いのは中世から続き16世紀のルネッサンスにも引き継がれた宇宙というマクロコスモスと(人体などの)ミクロコスモスの対応を信じる、というところに原住民の世界観、アフリカ系アメリカ人の世界観、アジアの世界観を取り込んだらしい。p45
 またポジティブシンキングの起源について、「アメリカ最古のオランダ改革派教会の牧師ヴィンセント・ピールであり、なんとトランプ氏のメンターだったというのである。
 47ページ以降はラーマンの紹介であるが、神を作り出し「コストをかけ」神と触れ合うフリをする。これが日本では「推し」の文化に似ていると指摘するp51。
 ラーマンによれば「神や霊を信じることとは、信じるよう努力することであり、現実を作り上げることなのだ」と。

最後に映像作品について紹介している:映画「エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス」とネットフリックス「ビーフ」(日本題「逆上」)は二ユーエイジ的な世界の外にある虚無との対峙し実存主義的な問題提起をしている、後者の作品は韓国系福音派キリスト教会を初めて正確に描写したとして賞賛されているとのことである。「逆上」はまだ見てないのでこれからみます。

このように主張は類似しているが現実への解釈が異なり、加藤氏はユダヤに探り思弁的なありそうな現実を描いているのに対し、柳澤氏は実践をまとめた現地からのレポートを読みほぐし思想史と関連付けた。どちらも面白いのでこの分野に興味ある方にはお勧めできます。
リクエストとしては加藤氏の本は巻末に参考文献などつけてほしかった。次に何を調べたらいいのか知るためにも。これは出版社の方針かも。
私もまだ2日ほど目を通しただけなのでもう少ししっかり読みます。私はどちらの方との関係者ではありません。念のため。

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