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「クソデカ感情」

愛しくてしかたないものたち。

①人間

「メタ的な視点で見たとき、自分と他人の違いはどこにあるのだろうか。」と友人が言った。
「今の私」が時間軸と空間軸の交差する点であると捉えると、「昨日の私」と「今この瞬間の君」は原点から同様に離れているに過ぎないと思っていることを思い出した。

また別の文脈で別の友人が言った。「5分後の自分は今の自分とは違う。」だから、お一人様一つまでは何周してもよいのだと。周りは笑っていたけれど、私は一人神妙な気持ちになってしまった。

今の私がそこにいる君に出会えたことは奇跡かもしれない、偶然かもしれない、必然だったのかもしれない。奇跡にも偶然にもそれ自体には価値がなくて、ただそこで君と私が出会ったという事実が、出会ったのが君と私だったという事実がある。

出会った君が「君」である必要も、私が「私」であった必要も、そこにはなくて。

相互交換可能な個体と個体の交わりの中に、感情とかいうものが介在してしまったら、「君と私の同一性」なんてこと、アルコールを摂取せずには言えなくなってしまう。

誰でもよかったはずの「君」と誰でもよかったはずの「私」があの時そこで出会って、喜怒哀楽をぶちまけたり飲み込んだりして、否応なく進む時間に踊らされて「君」が君になり、きっと「私」も私になっていた。

人間が好きだ。
個体個体ではなく、集団でもなく、概念としての人間存在が好きだ。悩んだり、喜んだり、寂しくなってみたりする姿が、不完全なまま強くあろうとする弱い姿がたまらなく愛しい。

自分も同じように一個体として喜怒哀楽を抱いていること、好きなものに夢中になっていることは忘れたままで。

「『君』に出会えてよかった。」

②=LOVE 10thシングル「The 5th」

=LOVEという指原莉乃さんがプロデュースしているアイドルグループがいる。

顔のいい女が好きなので、アイドルは好きだ。ただ、今回は偶像ではなく楽曲のテーマ設定と歌詞の話を。そしてメンバーと同じように年を重ねている私のことを。

10枚目シングル『The 5th』
12月15日リリースのクリスマスソング。
=LOVEがクリスマスソングを表題とするシングルをリリースするのは、2枚目シングル『僕らの制服クリスマス』以来2度目のことだ。

『僕らの制服クリスマス』は、リリース時、制服を着た年代だったメンバーが、学生らしいクリスマスを過ごす様子を歌った楽曲である。

一方、『The 5th』は、大人になって背伸びしたクリスマスを過ごすカップルの様子を描いている。

感情の表出と客観的な楽曲説明の両立は難しいので、とりあえず曲を聞いてください。話はそこからです。

印象的な対比として、『僕らの制服クリスマス』では「コンビニケーキ」「冷めたチキン」、『The 5th』では「バスケットのチキン」「大きいホールケーキ」という歌詞が出てくる。

曲名にもある通り、きっとこの間には5回分のクリスマスの想い出が潜在している。楽曲と楽曲の間にあるふたりの成長が、そこには、確かに。

そして『僕らの制服クリスマス』では「君に似合うと思った」グレンチェックのマフラーが登場し、『The 5th』には「似合うと思ってた」薬指のリングが出てくる。

数年経っても変わらない想いが、「君が好きだ」という気持ちが描かれている。「僕」が学生時代から想い続けている「君」と笑っている様子が、行間に浮かび上がる。

私が得られなかった厚みが羨ましくて、少し寂しい。特定の個に対する強い感情を抱き続けることが苦手で、どんなに執着していたものでも、大切で仕方なかったことでも、一度離れるとすっと消えてしまう。

この曲が心に響いたのは、きっとこれが「冬の歌」だから、ということも影響している。「出会った頃聴いた冬の歌」という歌詞があるが、私にとって冬は出会いより別れの印象が強い。

最近、多くを費やした存在との別れがあったからかもしれない。自分の誕生日や年越しという区切りのイベントがあるからかもしれない。あるいは、単に寒さが人を弱くするからなのかもしれない。

次の出会いが約束された春の別れと異なり、冬の別れは、喪失の大きい決別なのだろう。誕生日や年末年始があるにも関わらず、冬が嫌いだった。馴染んだものと離れてしまうのは寂しいから。

移ろわないことなど存在しないはずのこの世界で、変わらない愛と冬の美しさを描くこの曲が、あまりにも悔しくて。

「『ずっと』なんてない世界で、君と過ごせたこと。」

③横顔

横顔が好きだ。特に綺麗な横顔はよい。おでこから眉毛で屈折してすっと延びる鼻先。下がる目尻とまつげ。きゅっとした人中、そしてEラインを通り、顎に抜けていく。

自分の横顔にコンプレックスがあるのも一因だろう。私は一般的には「顔がいい」けれど、横顔、特に鼻から顎先が凹カーブを描いていないところが自分でどうしても好きになれない。だからこそ、綺麗なEラインに惹かれて、焦がれて。

だけど、おそらく造形美に惹かれただけではない、と思う。

私が人の横顔を眺めている瞬間、人が私のことを見ていないという事実がとてもよい。他のことを見つめている目線が恋しい。何かに熱中している瞬間であれば一層望ましい。

自分の好きな存在について一生懸命である姿に惹かれる。横顔はそれを一番良く見られるから。

それでも、それと同時に、悔しいほどに正面の顔が綺麗な人の横顔がそれほど思い通りでなかった時、こっそり安堵する醜い自分もいる。

ところで、100な点満点な顔面なんてものは、存在しているのだろうか。
残念なことに、いやきっと、幸福なことに、私はまだ出会ったことがない。

「完璧ではない君が、見つめるもの。」

④クソデカ感情

なにかものに対して、とてつもなく大きな好きという感情を抱いていること、もしくは、どうしようもないほど嫌いという感情を抱えていること。そして感情が、ほんのひと時ではなく続いていくこと。

その事実自体に、ものすごい劣等感を感じる。そして他者にそんな感情を抱くことが許されてきた環境にも。自分のそれをうまく切り分けて、擦って消したからなのかもしれない。失ってから今更、惜しいと叫ぶ。

「嬉しい」とか「寂しい」とか「悔しい」とか、単純で明快な感情の積み重ねの上に、一つ次元を超えたところに存在する好きとか嫌いなんて、次元を超える方法を教えてもらえなかったらたどり着けないもののように思う。

だからこそ、何かに熱中している姿が好きで、オタクがものすごく愛しい。なにか好きなもののことになるとそれはそれは楽しそうに語り始める姿。頬は緩み、早口になり、目に光がさす。これは格別。

愛しい、以上の感情を抱く方法を模索しながら「愛しさ」を持て余して。

自分の持つ感情が嫌になる時もある。気分屋で飽きっぽい、感情さえなければもっと違った人柄になれていたのかなと、浮かべることも沈めることもできないまま、行くあてのないものを漂わせている。

儚いから尊いはずの感情が、美しさなど視界に入らないほどの暴力性が、どちらも自分のものに対しては否定的な見方しかできないままで、人間の抱くものに焦がれる。

自分に自信がないから決断力がなくて、他人と比較しないと自分を肯定できなくて。そのままの自分をふと客体にすると、見ていなかった部分が、見えていなかった箇所が顕在化してしまう。

感情が好きで好きで大嫌いなのは、自分にとって絶対的すぎる存在だからなのかもしれない。

「愛しさ以上の何かが、そこに。」

思うに、クソデカ感情というものはコンプレックスの表れ。

連想ゲームのネタにしますね。