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地元の都市伝説を追う① 座間のペトログリフ

おはこんばんちは、明日晴レです。
突然ですが、神奈川県座間市という場所をご存知でしょうか。
私にとっては、母方の祖母が生前住んでいた場所という縁がある所です。

そんな座間は、縄文時代から人が住んでいる地域でございました。
去年、珍しい土器も発見されるなどしました。

座間という地名は、天保一二年(一八四一)に成った新編相模国風土記稿(巻之六十六)によると「座間郷の地は普東海道の駅にて、夷参駅、古海里。後、夷参を伊佐間と転じ、又上略してざまと濁音に唱へ訛りしより、遂に今の文字を用ひしと云ふ」とあり、要するに、夷参はイサマと読み、イサマのイが抜け落ちてサがザと変じて「ザマ」となったらしい。
また、倭名類聚鈔国郡部にも「伊参」郷とあり、これが座間を含む地域であったとされています。
古代東海道の時代から駅として発展してきた町で、「星谷寺」というお寺ができてからはお寺の門前町としても栄えました。

ここで、私は

さんのペトログリフシリーズにある
縄文時代の巨石・星神信仰
について知ったとき、先出の星谷寺や座間の縄文時代の遺跡や土器などが出土している地域に「星の台」という地名もあり、座間の縄文時代の人は星神信仰をしていたのではと思いついきました。

そこで、ペトログリフを探してみたら、なんと、いとも簡単に見つかったのです。
それがこれ。

エジプト系ナーガの刻印?!!

因みに、これはどこにあるのかというと

突然の旧陸軍お出まし

簡単にいうと、旧陸軍のエリート養成学校の生徒さん達が毎日遥拝するために使っていた方位盤が、富士山公園と呼ばれる小さい山の山頂にあるのです。
それがこれ。

南から北方を見ると、真ん中にナーガが居る


見えづらいが、方位が刻んである。

この旧陸軍士官学校は、元々東京にあって規模を拡充するため昭和12年に座間に移転してきました。(この時他県に同じように2カ所、計3箇所に別れて移転)
この移転は、座間の語り伝えによると「当局はひそかに十分な偵察を行った上、県当局など中間に話を通さず、いきなり地元に申し入れて来た」非常に不自然な移転でした。
当時の人の話だと、軍のまあまあ偉い人が私服で何度も偵察に来た(この時利用したタクシーの運転手に、ここはどういうところかと聞きまくったらしい)あと、地元の役場にいきなり軍の幹部が乗り込んできて、「軍の学校作るから県にはまだ話してないけど、この土地このくらいの額で売って」って首長に迫ったらしい。

どうして座間だったのか。

「移転先の条件として
 一 行幸を仰ぐのに便利なること
 二 富士山を眺め得ること
 三 用水その他生活に必要なものが十分であること
 四 予算二七五万円を限度とすることの四条件が挙げられ、数ヶ所の候補地が比較・検討されたが、二の条件以外に総てが満足であったので、この地に移転が決定した」らしい。

そう、ここは富士山公園なのに「富士山は見えない」のです。
地元民が、なぜ富士が見えないのに富士山公園なのか疑問に思っていた名前の由来は、おそらく「士官学校でここから富士山等を遥拝していた」からでは。

・・・でも、条件全部満たす所、他にいくらでもありそうじゃない?

旧陸軍士官学校があった土地には、元々古墳があった事が判っているのですが、学校を建てる時にかなり壊されて、現在その土地は「米軍基地」となっているので調査はされていないままです。
因みに、学校の遥拝所は2カ所あり、こちらは南遥拝所で、北遥拝所は米軍基地内にあります。いつか見てみたい。

白く埋められたような跡が点々と残る

この方位盤にしたこの岩、元々ここにあったんじゃないのかな。
だとしたら方位盤になっているところは、大きな杯状穴だったんじゃないのかな。
横の白丸は星が並んでるように見えるなぁ。

因みに、この遥拝所の南東約500mの位置に谷戸山公園という場所があり、
その山の山頂も、軍の土地なので未だ立ち入れないようになっています。
それがここ。

みる人がみたらアレに見えるよね

座間は、今もそんな場所です。
次回は、「伊勢から神輿が流れてきた神社について」です。

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